杉本佳築子物語 夢かぎりなく

11、杉本家の系図(上)

[杉本佳築子物語 夢かぎりなく]
 さて、十和田市で真っ先に量販店を開業した杉本ショッピングセンター。文字通り十和田市では最大の商店主となった佳築子が嫁いだ杉本家はどんな家系であったろうか。
 杉本家の本家筋に当たる荒町長右ェ門が、八戸の荒町に米屋を開業したのが杉本家の商売の始まりである。長右ェ門はもともとは士族であった。長右ェ門の生まれた年はわからないが、江戸中期の明和2年(一七六五)に亡くなっているから、商売を始めたのは今から大よそ260~270年前と思われる。長右ェ門は荒町姓を名乗っている。これは開業した場所が荒町であったからで、もともとは杉本姓であったと思われる。
 荒町家は代々長右ェ門を踏襲している。その5代目長右ェ門(定吉)には長女きさ、長男徳太郎、二男は幼少のころ死去、次女たの、三男福蔵、三女とめと子供が6人いた。
 その三女とめに、明治26年(一八九三)に松沢家から三男の馬吉を婿に迎え分家させた。この馬吉・とめが三本木杉本家の初代となる。馬吉32歳、とめ22歳のときであった。
 三本木杉本家の初代となる馬吉・とめがいつ三本木にきたのであろうか。
 杉本家の初代について佳築子が、杉本の祖母から「初代は戸板1枚の上に品物を並べて売ったそうだ」という話を聞いたことがある。それ以外は、知っている人はほとんど亡くなっているし、書き残した文章もない。したがって今となっては当時のことを知る人は誰もいない。
 明治から昭和初期にかけて造り酒屋を営み、三本木カトリック教会を創設した三本木村の旧家三浦家に生まれた三浦ゆわが人間情報紙「夢見る人」に『懐かしの三本木』と題して、大正期の三本木の街並みと一軒一軒の家々のことを書いている。
 その「杉本本店」の項に次のように書いている。
 「三本木一の小間物屋さんでお爺さんは小柄な人、お婆さんはナカナカの曲者との噂。このお爺さんが集落を廻って小間物の行商をしていたとか。その時丁度七丁目の鈴木金物屋さんも粉おろしのしのを売って歩いていた。行商同志二人は知り合いとなり、杉本さんは鈴木さんを頼って三本木に店を出したと云う。お彼岸のオダンゴはイの一番に鈴木さんに届いていた。
 杉本さんは洋品小間物のほかに、煙草、石油なども売っていた。店の南側の板の間では、キセルのウラのすげ替えもしたし、土間では石油の量り売りもした。
 時代が変わり終戦後、一族でデパートを始めた」
と、杉本本店の成り立ちを書いている。ここでいうお爺さんとは杉本馬吉で、お婆さんはとめのことである。
 この文章からいうと、馬吉はとめと結婚する前後から小間物の行商をやっていたと思われる。馬吉は根っからの商売人であった。
 もう一つ、杉本ショッピングセンターがあった稲生町36番地の土地所有の移転を調べてみると、明治28年(一八九五)に、とめの一番上の姉きさの夫丑松が、菅原重太郎から買い取っている。
 ちなみに菅原重太郎は菅原都々子の曽祖父で、ここは耶蘇教(キリスト教)の教会があったところである。重太郎の息子が三本木で一番最初に歯医者をやった菅原八十百で、その息子が作曲家の菅原陸奥人(陸奥明)で、その娘が菅原都々子である。
 そして4年後の明治32年(一八九九)に、馬吉が丑松から買い取っている。
 多分、こういうことではないかと想像される。小間物の行商をしていた馬吉が、三本木の鈴木金物店と知り合い、それじゃ俺も三本木で商売しようということになった。それを知った丑松が、そういうことであれば俺も応援しようといって、稲生町36番の土地を買って馬吉に貸した。馬吉はここで商売をし、商売も繁盛し金がたまったので丑松からその土地を買い取ったのではなかろうか。
 つまり、戸板一枚で商売を始めたのが明治28年で、自分の店を持てたのが明治32年と考えられる。それが、三浦ゆわが大正期には「三本木一の小間物屋」と書いているように、馬吉の代で戸板1枚から三本木一の小間物屋になり、杉本本店となり、杉本ショッピングセンターの基礎を築いたものと思われる。馬吉は昭和17年(一九四二)78歳で、とめは昭和23年(一九四八)77歳で亡くなっている。当時としては長寿である。
 二代目は馬吉の長男新三郎である。が、新三郎は大正13年(一九二五)に28歳の若さで亡くなっている。22歳にして未亡人となった妻サミ。馬吉はすでに62歳、とめは53歳になっていたが、老骨に鞭を打ちサミを助けながら杉本本店を守ってきた。
 サミにはきみときよの二人の娘がいた。その長女きみに七戸町の商家山松から三男の正一を婿として迎え三本木杉本家の三代目を継がせた。
 実は、七戸山松は商家として大変な家柄である。以下『七戸町史』から引用する。
 「山本家は、屋号船木屋と言い、幕末まで七戸における最大の商人であった。山本儀兵衛(文政一二~明治一〇)の時代にあっては、七戸の豪商として最も盛んな時であり、松盛丸・神徳丸・福神丸などの千石船を所有しており、野辺地~大阪間の貿易に従事していた。これらの取引品は、七戸近在は言うまでもなく、弘前・盛岡・鹿角方面まで販路を持っていた。酒造業も営み、一〇〇石の酒造をなしていた。(中略)が、明治三年の百姓一揆の最大の攻撃対象とされ甚大な被害を受け、以後急速に衰退していった」
 山松については、この百姓一揆を語らずして語ることはできない。それは山松が衰退するひとつのきっかけになったからである。以下、『七戸町史』から拾ってみよう。
 「明治三年(一八七〇)閏一〇月の七戸通百姓一揆は、百姓一揆多発藩といわれる南部藩の中ではその発生件数が比較的少なかった七戸地方で、明治初年、青森県のどこでも発生していないとき、七戸藩領全三八ヵ村がこぞって立ち上がった特異な百姓一揆である」
 概要はこうだ。
 明治元年(一八六八)、同2年(一八六九)と2年連続の大凶作となり、百姓たちは家畜として飼っていた牛馬を殺して食わなければならないほどの大飢饉となり惨状を極めた。
 現在の上北地域の主要作物は大豆であった。それを御用大豆として藩が買い上げ野辺地港から大阪に出荷していた。八戸藩は即金で支払っていたのに対して、七戸藩は売れたのち売上から費用を差し引き農家に代金を支払っていた。つまり後払いであったがそれさえも滞ることもあった。それを千石船で大阪に運んでいたのが山松などの豪商であった。
 大飢饉で百姓たちは、年貢の減免、御用大豆の買い上げ御免など10ヵ条の要求を藩に提出した。
 これまで何十回となく冷害に遭ってきた上北地域の百姓。冷害のときは「米が無くても、味噌さえあれば生きられる」というのが百姓の生きる知恵であった。それを強制的に大豆を買い上げられては味噌もつくれないというのが大豆買い上げ御免である。
 そして明治3年10月24日、前述した10ヵ条の要求を掲げて数百人、一説には2000人ともいわれる農民が七戸藩に押し寄せた。当時の七戸藩大参事は新渡戸伝であった。
 この一揆に驚いた七戸の商人たち。盛喜(盛田喜平冶)は、店を開け炊き出しを行い握り飯や酒を出し一揆をねぎらった。
 一方山松(山本儀兵衛)は、これまで飢饉に対して貧民に稗一俵、銭一貫文づつの救済や昼飯の炊き出しを行うなどこれまで農民を救済してきた。が、このとき山松は店を閉めていた。農民たちは休憩してほしいと蔀戸を叩き小口窓から顔を出したところ中から湯をかぶせてきた。暴徒と化した農民はこれに怒り斧を持ち大戸破った。山松はこれまで農民を救済してきた店を襲うとは何事かと、官吏を呼び鉄砲で百姓たちを追い返した。
 この盛喜と山松の一揆に対する対応の違いが、その後の盛喜と山松の盛衰の違いとなって現れた。

 神前に朝の思いを語りかけ 心を映す冬の鏡に