編集長のたわごと

2015年初夢

[編集長のたわごと]
十和田湖への古道を復活します。
 十和田湖はかつて十和田湖は信仰の湖であった。元禄6年(一六九三)、今から322年前、五戸代官木村又助秀晴が南部公の命令により、十和田湖参詣の新道を開削した。明治36年(一九〇三)奥入瀬渓流の道が開削されるまで、人々はその険しい山道を1日がかりで歩き十和田湖のおさご場に参詣に行った。
 十和田湖国立公園指定80周年を前に、もう一度十和田湖の原点に戻ろう。それが十和田湖への古道の復活である。

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  写真は、元禄6年(1693)、今から320年ほど前に五戸代官木村又助秀晴が南部公の命令により開削した十和田湖新道の工事碑(子ノ口三叉路の角)

 「石華表 石燈籠を立たり...真西を見るニ雲霧散じける間に青波満々として、四面の翠鬟を浸し、向方迄も目も及ばざれども其風景中々湖水とは思われず。実に松前(北海道)たる箱舘山(函館)より南部(函館)湾を眺めるごとく、又別に一世界に登臨せしかとも思わる」
 松前を北海道と命名した江戸末期の探検家・地理学者松浦武四郎が弘化2年(一八四五、今から166年前に北海道からの帰り十和田湖へ寄ったときの紀行文『鹿角日誌』の一節である。

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 松浦た武四郎がこの紀行文を書いた場所が、銚子大滝の上の遥拝所である。県南から十和田湖へ行く道は五戸の大学沢から森ノ越、月日山、惣辺を通り銚子大滝の上にに下りる道と、旧十和田湖町から現在のどんぐりの森・山楽校のあるところから山に上り、やはり惣辺に出て銚子大滝の上に下りる道とがあった。
 銚子大滝の上に下りる五十曲(ごじゅうまがり)があまりにも険しかったことと、むかしは十和田湖は女性禁制の山でたったために女性は十和田湖の見えるこの場所で十和田湖を拝んで帰った。それが遥拝所である。
 写真は、遥拝所で記念写真を撮る十和田湖の未来を考える会主催の「十和田湖の信仰と伝説の道を歩く」会に参加したひとたち。

 五戸大学沢の「追分の石」

 五戸大学沢の旧奥州街道の二股の角に追分の石がある。追分の石とはむかしの道路標識である。
 これには、「右七戸 左十和田」と彫られている。つまり右七戸は旧奥州街道、現国道4号線である。左十和田は、十和田湖に行く道である。むかしは十和田湖へ行く道は、旧奥州街道と並べられて表記されるほど重要な道であった。
 十和田湖への道は、ここから杉ノ木、平山、柏木、笊畑、森ノ越を通り、月日山から惣辺に抜け、十和田湖に行った。
 この十和田湖へ行く道は八戸からの参詣者が多く通った。八戸からの参詣者は、八戸を出立し柏木、笊畑、森ノ越の三ヵ村のいずれかに一泊。翌朝早く十和田湖へ出立する片道一泊二日の参詣であった。

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 写真は、五戸大学沢の追分の石。これには「右七戸、左十和田」と彫られている。残念ながら五戸町の教育委員会はこの重要な標識に関心が無いようで、ご覧のように倒れたままになっている。

 「扨別当と申せば山伏か坊主にても有かと存じ候ところ左無、常の百姓等の風俗にして何異なる事無。家の傍らニ新ニ小堂を建て、是に幟等建、又幣等を上え宮様もこしらへニ致し、是ニ十和田山と額を懸けりける...扨やゝ暫く有りて門口より旅人五人程、十和田参詣の者とて尋ね来りけるニより見るに、封内花巻のものなりとて同宿しけるニ...」
 これは、松浦武四郎が十和田湖に行ったときの紀行文『鹿角日誌』の一節である。
 ここで松浦武四郎は、十和田湖への参詣者が花巻から来たと書いている。これでわかるように江戸時代も相当遠くから十和田湖への参詣者が訪れていたことがわかる。何よりも松浦武四郎が江戸幕府の命令で北海道を調査に行ったその帰りに、わざわざ十和田湖を訪れているのだから、十和田湖は江戸にも知られた霊場であったということであろう。
 松浦武四郎は北海道からの帰り、下北から野辺地、七戸、羽立、板ノ沢、そして中掫で奥入瀬川を渡り、旧十和田湖町役場前を通り、奥瀬の十和田神社で一泊した。この奥瀬の十和田神社は織田別当で、夏は十和田湖に行き、冬はここに帰っていた。そしてこの織田別当の家は十和田湖へ行く最後の宿泊所でもあった。参詣者たちは朝早く織田別当の家を出発し、険しい山道を歩き、夕方にようやく休屋に着いた。
 むかしのひとはどんな苦労して十和田湖に行ったのか。そこには十和田湖への想いがあり、ドラマがあった。

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「十和田湖の信仰と伝説の道を歩く」会に参加した皆さんと奥瀬十和田神社の内部