杉本佳築子物語 夢かぎりなく

13、杉本家の系図(下)

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 『十和田市史』の昭和4年の「三本木大火」の文章から、その被害の大きさはわかるが、地域的には何処だったのか若干説明しよう。
 まず出火の火元が「稲生町三十二番地」とある。現在稲生町は二十四番地までしかないから、これは旧番地である。明治28年に杉本丑松が菅原重太郎から買った土地の地番が稲生町三十六番地である。稲生町の番地は稲生川に面したところ、現在の稲生川土地改良区の事務所のあるところが一番地で、そこから南に向かって二番地、三番地と番地がつけられている。火元は杉本本店より若い番地であるから、杉本本店とはそう離れていない北側であることがわかる。
 また、「風速十六メートルノ西風ニ煽ラレ、火ハ忽チ幅員六間半ノ横町ヲ超ヱ、小笠原八十美宅ニ燃エ移リ」と書かれている。
 小笠原八十美は、旧十和田村の出身で、三本木畜産組合の組合長、十和田観光電鉄㈱の社長、そして馬喰代議士として戦後の一時代を築いた寵児である。
 その八十美の家のあったところが八十美が十鉄の社長になったあと「三十番」として中央のバス停となったところ、現在スーパーホテル十和田のある場所にあった。そして「幅員六間半ノ横町ヲ超ヱ」とあるが、この横町は文化センター、澄月寺に行く道、つまりみぞぐち布団店とスーパーホテル十和田の間の道路のことである。
 とするとその出火場所が特定できる。澄月寺通りの北側、みぞぐち布団店の西裏、とわだパルコビルの裏側辺りにあったのではないかと思われる。
 ここで出火した火が風速16㍍の西風に煽られ小笠原八十美宅に燃え移り、杉本本店、松本茶舗と燃え、さらに国道を越え一心亭から角屋旅館まで行き、風が北西に変り再び国道を隔てた石川邸に燃えうつり、最終的には八戸街道まで達したというのである。一心亭は杉本本店の国道を隔てた正面、角屋旅館は現在の市民交流プラザの道路を隔てた南側、石川邸は現在のお好み焼きのあるところ、当時の八戸街道は現在の三小通りである。こうして杉本本店はすべてを焼失してしまった。
 この大火による損害額は住家35万6448円、その他40万3810円で合計76万328円であった。当時の三本木町の歳出決算額は15万6197円であったから町の予算の5倍近い被害額である。三本木大火は新聞で全国に報道され、県内外から義捐金や義捐物資が届けられた。義捐金の総額は9404円であった。これに対して県は1829円、町は4000円、併せ1万5233円を罹災者救助費として支出した。
 馬吉にとっては、三本木一の小間物屋になったものの、大正13年7月に次男が亡くなり、それから4ヶ月後の同年11月に長男が続けざまに亡くなり、それから4年後のこの大火と、踏んだり蹴ったりの不幸つづきであった。
 しかし負けてはいられない。馬吉の生まれの八戸から連れてきた三蔵もまだ一人前とはいえないが馬吉の手足となって働き、何とか店は復活し、賑わいを見せていた。
 が、世の中は暗雲が立ち込めはじめていた。中国大陸に進出していた日本軍は、昭和7年(一九三二)に傀儡政権満州国を設立。中国への支配をさらに拡大するために昭和12年(一九三七)盧溝橋事件をでっち上げ、これを機に中国との全面戦争に入った。つまり日中戦争である。
 日中戦争の翌昭和13年(一九三八)には、戦争遂行ためには国力のすべてを軍事へつぎ込み、国家総動員体制をとることが必要であると、国家のすべての人的・物質的資源を政府が統制運用できる国家総動員法を公布した。
 そのために物資の生産から配給、使用、消費、所持、移動までもがすべて国によって統制された。ガソリンは戦艦や飛行機を動かす動力である。そのために統制が厳しく車はガソリンの代替えとして木炭で走る木炭自動車が登場した。また軍艦をつくるには鉄が必要である。日本は地下資源に乏しい。そのためにマンホールの蓋やベンチ、鉄柵、火鉢から灰皿のはてまで金属が回収された。
 当然、店で売る品物が自由に入らない。そのために店は開けているものの売る商品は閑散とし淋しいものであった。
 そんな時代の昭和14年11月、杉本家三代目となる正一が七戸町の山本家から入婿した。正一は11人兄弟の三男で、山松家では商人として育てるべく、自分の店で商売の修業をさせていた。そこへ杉本家から入婿の話しがきた。正一の姉である長女も古間木の千浦百貨店に嫁いでいたし、山松家としてはこれ以上ないもってこいの話しであった。
 正一はこのとき27歳、きみは19歳であった。この入婿は祖父馬吉が決めた縁談であったから、結婚当日になって二人は初めてお互いの顔を見た。むかしはこんな結婚は普通であった。
 初めて見る夫となる正一。七戸の由緒ある大きな商家に育っただけに見るからに育ちの良さが顔に現れている品が良く優しそうないい男であった。
 さて、入婿した杉本家はというと、当主である馬吉はすでに78歳、その妻とめは71歳。亡くなった長男新三郎の妻サミは37歳。妻と年子である妹きよは18歳。叔父の富男は正一の入婿と同時に分家した。
 正一が入婿すると祖父母は正一に経営のすべてを譲って奥に隠居しており、妻の母サミは結婚した当初から奥の仕事が主であったから、経営にはほとんど携わっていなかった。妻のきみには経営を相談するにはまだ若すぎた。唯一頼りになるのは番頭の三蔵だけであり、入婿した途端に経営のすべてが正一の肩にのしかかってきた。

 群がりて今年も咲ける石蕗は 在りし日の父植えたりしもの(佳築子)