杉本佳築子物語 夢かぎりなく

15、昭和16年の三本木大火と三代目杉本正一の苦悩(下)

 この大災害を聞かれた天皇・皇后両陛下には、深く御同情なされ、御救恤金を下賜されたが、たまたま来県中の閑院宮載仁親王殿下もまた御救恤金を下さった。町役場では、同月二十日及び六月一日に二回にわけて、これを罹災者へ伝達分配した。
 (*救恤=困っている人々を救い、めぐむこと)
 地元及び県内・県外各方面から寄贈された義捐金品並びに見舞客は夥しい数に上ったが、義捐金総額は同年十二月末現在、九万二千二百二十円九十八銭の多きに達し、義捐物品は見積総額一万五千七百八十八円相当であった。該年度当初予算は十二万二千六百三十八円であったから、ほぼそれに近い額の義捐金を受けたことになる。

 昭和4年と二度に亘る三本木大火。街の中心部にあった杉本本店は再びすべてを失った。
 しかも世の中は、抜き差しならない泥沼に足を突っ込んだかのように中国戦線が拡大。それを回避するどころか昭和15年(一九四〇)「日独伊三国同盟」を締結。日本はさらに深みへと戦争への道を真っ直ぐらに突き進んでいた。
 国内的にはそのために国家財政に大きな負担がかかり、政府と軍部は「贅沢は敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」と、米や食料品の配給制度が行われるなど国民に大きな犠牲を強いていた戦争前夜である。
 三代目となった正一は杉本家に来てまだ1年半、妻は20歳を過ぎていたが相談するにはまだ若すぎる。妻の母親はほとんど店に顔を出していなかった。義父は80歳近くになり奥に引っ込んだままである。頼りになるのは番頭格の三蔵であった。
 馬吉は、長女イトの娘イツ、つまり馬吉の孫娘と三蔵を一緒にさせ、イツには別に店を持たせ三蔵には店を手伝わせていた。
 しかし、三蔵は親族になったとはいえ、店の将来までは相談できない。そんな状況の中で杉本本店をどう立て直すか。入婿早々の正一一人の肩に大きな負担となってのしかかってきた。
 正一が杉本本店をどのようにして再建したのであろうか。今となっては杉本家でも当時の状況を知る者は一人もいない。これは著者の想像でしかないが、次のようなことが考えられる。 まず、初代の馬吉が財を築き預貯金もあった。また、馬吉の一族が八戸で商売をしていた。
 そして、正一にとって一番頼りになるのが、実家である七戸の山松である。かつての勢いはないにしても七戸の有力な商人である。また、正一の姉が古間木駅(現三沢市駅)前のちうら百貨店に嫁に行っていた。これも古間木駅前では一番の大店であった。
 また、正一を杉本本店に紹介し仲人となったのが、これも七戸の有力商人であった石源である。このように正一の廻りには有力商人たちが何人かいた。それらの人たちが援助したことも考えられる。
 こうして正一は瞬く間に杉本本店を復活。再び、いや昭和4年の三本木大火があるから三度三本木一の大店となった。
 店が再建されると馬吉が、自分の片腕として八戸から連れてきた三蔵を、杉本支店として八丁目にかまど(分家)に出した。これが後に三蔵商店となる。
 この年の12月8日、日本は真珠湾に奇襲攻撃をかけ太平洋戦争に突入した。
 店は再建したものの、統制経済が厳しくなり、売る物が何もない。
 昭和17年(一九四二)3月、初代の馬吉が亡くなった。享年78歳であった。
 戦争が激しさを増すにつれ、商店街は閑散とし、商売は店を開けているだけであった。店はかつての華やかさは消え、店には正一夫妻と、足のちょっと不自由な菊松という若者がいるだけであった。
 食料難の時代である。二代目の妻サミが、女中を使い太素塚裏の畑で野菜をつくり、店の奥では初代の妻とめや孫の面倒をみながら、店の2階に三本木高等女学校の学生を下宿させるなど、ここだけは休む暇がないほど忙しく動いていた。

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 本店の再建ひとり肩に負い 大火ののちを義父働きしか      佳築子