杉本佳築子物語 夢かぎりなく

箱入り嫁

 さて、昭和42年(一九六七)2月下旬杉本正太郎と結婚した佳築子。披露宴は二日間に渡って行われた。そして新婚旅行は、気候温暖な知多半島で育った佳築子から見ると極寒ともいえる北海道であった。
 北国に生まれ育った者ならば、この寒い時期に北海道?雪しかない北海道に何を好きこのんで行くのと思うであろう。毎年200万人もの観光客が訪れるさっぽろ雪まつりが全国的に有名になったのは、札幌オリンピックのあった昭和47年(一九七二)辺りからである。しかもさっぽろ雪まつりは2月上旬に行われるから新婚旅行のときはすでに雪まつりは終わっていた。
 それではなぜ新婚旅行地として北海道を選んだのか。それは南で育った佳築子に雪景色をみせてやりたいという夫正太郎の思いやりであった。それにはこんなことがあった。
 佳築子が正太郎と式を挙げる前年の12月に、結婚する前にもう一度十和田を見ておきたいと一週間ほど十和田に遊びにきた。そのとき正太郎の妹眞子ら同年代の女性だけ4人で、当時焼山にあった焼山ファミリーランドに連れて行ってもらい一泊した。ファミリーランドは猿倉温泉より源泉を引いて開発した十和田湖温泉郷の中核施設で大浴場他、休憩施設や大宴会場、ボーリング場などがあり、1日楽しく遊べる娯楽施設であった。
 4人はタクシーで焼山に行き予約していた部屋に案内された。八畳ほどの部屋の真ん中には炬燵が置かれていた。炬燵、これは佳築子が生まれた伊勢地方にはなかった。佳築子には炬燵があるだけで北国に来たんだと嬉しくなった。4人は荷物を置くとまずは温泉である。4人は大浴場でゆったりと温泉につかり部屋に帰ると炬燵の上には料理やビールが出されていた。佳築子たちは炬燵に入りビールを飲み美味しい料理をついばんだ。炬燵に入り酒を飲む。これは北国でしかできない醍醐味である。佳築子は北国の冬をすっかり気に入ってしまった。
 ファミリーランドは昭和50年(一九七五)8月の大雨で、ちょうどファミリーランドの上にあった焼山スキー場が崩落。大浴場などが土砂に埋まりそのまま廃館となった。
 十和田はまだ根雪にはなっていなかったが、ファミリーランドの部屋から見る庭は一面真っ白であった。4人は外に出て雪だるまをつくったりと雪で遊んだ。楽しかった。佳築子には北国で暮らすことの不安が薄れていった。
 正太郎はそのことを妹たちから聞いていた。だから新婚旅行は北海道にしようと決めたようである。
 ところが、厳冬の北海道は十和田に比べたら寒さも半端ではない。冬になれていない佳築子。着るものにしたって冬物はあまり持っていない。しかも猛吹雪であった。佳築子はストッキングを何枚か重ねてはいたがあまり効果がなかった。佳築子にとっての新婚旅行は、寒いだけの記憶しか残らない散々な新婚旅行であった。が、好きなひととの新婚旅行として今も記憶に鮮やかに残っている。
 新婚旅行から帰ると今度は親戚への挨拶廻りである。杉本家の初代馬吉は八戸市出身であったことから、親戚は八戸市が多い。それも馬吉の実家が商売をやっていたということあり、大きな古い家が多い。暖房は囲炉裏だけである。その寒いこと。震えながらの挨拶廻りであった。
 また、佳築子はそばが好きであった。そのことが行き先々に伝えられていた。佳築子を歓待しようと行った先々でどこでもそばを出してくれた。ところが出されたそのそばはいわゆる田舎そばで、そば粉100㌫で麺が太く切れやすい十割そばであった。そばといったら江戸前の二八そばや三七そばだと思っていた佳築子には、そば粉だけの十割そばには困ってしまった。
 また、当時の家はトイレが外ないし濡れ縁の一番端にあるから寒い。それも困ったことの一つであった。
 もう一つ困ったのは言葉である。夫正太郎や親戚の人たちは時には笑い何やら楽しそうに話をしている。しかし佳築子にはどこか外国の言葉を聞いているようで、何を話しているのかほとんどわからない。退屈になりつい居眠りしてしまったこともあった。
 十和田へ嫁に来て早々にそんなこともあったが義母のきみは、娘の眞子が焼きもちをやくほど佳築子を大事にしてくれた。
 が、大事にし過ぎてということであろうか、店には住み込みのお手伝いも数人いたし、自分のこと以外にやることは何もない。外にも出してもらえなかった。箱入り娘ならぬまるで箱入り嫁であった。
 正太郎も一緒にどこかに連れて行くということもなかった。この十和田市は、江戸の末期南部藩士であった新渡戸傳によって十和田湖から流れ出る奥入瀬川から2本の穴堰を掘削し高低差30㍍も高台にある三本木平に上水してできたまちである。その新渡戸傳を祀っている太素塚。毎年5月上旬には三本木平への上水を記念して太素祭が行われている。
 当時の太素祭は、国道4号線から太素塚までの産馬通りの両側には夜店が並び近隣のまちからも人が訪れる賑やかさであった。
 結婚したその年の春、正太郎が太素祭に行こうといった。佳築子は嬉しくなり「ハイ」といって正太郎と一緒に店を出た。が、外に出ると正太郎は「俺より3㍍後ろを歩いて来い」といった。
 佳築子は、正太郎さんってそれほど照れ屋だったんですという。
 産馬通りを歩いていると、今は三本木一話題のショッピングセンターの若旦那である正太郎に、顔見知りの街のひとたちが声をかけてくる。二人で歩いていると新婚さんである。当然ひやかすひともいるであるろう。照れ屋である正太郎はそれが嫌だったのかも知れない。
 杉本家では、社長が出張などで家を空けると義母の友だちであるお花の先生や親戚の女性たちが集まって麻雀や花札を行っていた。佳築子も義母から、麻雀と花札だけは覚えておけといわれ一緒にやらされた。
 佳築子とて麻雀は初めてであったが、子どもの遊びとしての花札や将棋などは子どものころからやっていたから嫌いではなかった。
 夫正太郎は麻雀に夢中になっている佳築子たちに夜食をつくってくれたりした。長男を身ごもって大きなお腹を抱え臨月に近いときでも、人が足りないと声がかかってきた。
 佳築子が麻雀をやってわかったことは、麻雀の勝負どころにそのひとの性格が如実に表れるということである。佳築子はこの麻雀でその後商売をするうえでの人を見る目を養ったのかも知れない。
 こうして、結婚して2年目の昭和44年(一九六九)に長男の大郎が、47年(一九七二)に次男慈郎が生まれた。

 北海道への新婚旅行は
 猛吹雪今も記憶に鮮やかたつ