杉本佳築子物語 夢かぎりなく

18、すぎもとショッピングセンター(上)

 すぎもとショッピングセンターは、佳築子が十和田に嫁に来る3ヶ月前の昭和41年(一九六六)12月にオープンした。十和田市では初めての3階建てのショッピングセンターである。
 1階は衣料品や紳士服、婦人服、下着類、子供服、手芸品、化粧品、バッグ、お菓子、生鮮食品など。2階は呉服や寝具、3階はおもちゃやゲーム機などが置かれていた。
 ショッピングセンターを、日本ショッピングセンター協会では次のように規定している。①小売業の店舗面積が1500平方㍍以上であること。②キーテナントを除くテナントが10店舗以上含まれていること。③テナン会等があり、広告宣伝、共同催事等の共同活動を行っていることなどとされている。
 簡単にいうとショッピングセンターとは、一つの核店舗の中に様々なジャンルの小売店がテナントして入っている店というであろう。すぎもとショッピングセンターにもスーパー中光やお菓子のラグノオ、ふとんの西川、化粧品の資生堂など幾つかのテナントが入っていた。お客にとっては、日用雑貨から衣服、食料品まで一つのショッピングセンターで買えるという便利さがある。
 もっとも、日本ショッピングセンター協会は昭和48年(一九七三)に設立されているから、すぎもとショッピングセンターはそれより7年前にオープンしている先駆者であった。
 ちなみに、平成7年(一九九五)に下田ジャスコショッピングセンターがオープンしたとき、そこに入っていたテナントが約100店であった。100店というと当時の十和田市中心街の店舗数とほぼ同じであった。
 ショッピングセンターはもともとはアメリカで発展し、それが日本に入ってきたのは東京オリンピックが開催された昭和39年(一九六四)で、大阪府豊中市のダイエー庄内店が最初である。
 ショッピングセンターが新しい小売販売の方法としてそれ以後急速に全国に広がっていったが、すぎもとショッピングセンターはダイエー庄内店からわずか3年後にオープンさせている。当時、人口5万に満たない、あまり特徴のない十和田市でのショッピングセンターのオープンは県内からも注目を集めた。
 勿論、このときのすぎもとショッピングセンターは厳密には日本ショッピングセンターが規定するようなショッピングセンターではない。が、目新しさで注目され、近隣市町村からもお客がたくさん訪れた。
 以後昭和47年(一九七二)の亀屋みなみ十和田店のオープン、昭和48年(一九七三)の松木屋十和田店のオープンまでは、十和田市ではすぎもとショッピングセンターの天下であった。
 明治32年(一八九九)に戸板1枚から始まった小間物屋が、ついには十和田市一のショッピングセンターになったのである。
 何故、そういう時代を先取りした商売ができたのであろうか。佳築子は箱入り嫁でほとんど経営に携わっていなかったし、関係した人たちがすべて故人となった現在、推測の域を出ないが多分こういうことではなかったろうかと思われる。
 一つは社長の杉本正一である。正一は姉のいる三沢市のちうら百貨店に出入りしていたことがある。三沢市には、青森県でのモラロジー先駆者㈱高橋の高橋石蔵がいた。石蔵はモラロジーの研修所を自費で建てるほどモラロジーに熱心で、その普及に努めていた。このとき正一もモラロジーに入った。
 モラロジーを支えているのが大手及び、中小の会社経営者である。そして様々な全国的な集いや研修会がある。佳築子が正太郎と出会い、十和田市に嫁に来るきっかけとなったのもモラロジーの研修会であった。
 モラロジーには、全国的な集いや研修会があり、それが経営者の情報交換の場、あるいは名刺交換の場ともなっている。ここで正一は、ショッピングセンターの情報を知ると共に、名刺交換した一人に経営コンサルタントのタナベ経営の関係者がいた。正一は、ショッピングセンターを立ち上げるにあたってタナベ経営のコンサルタントの指導を仰いでいた。
 もう一つは佳築子の夫正太郎である。佳築子が正太郎と出会い、十和田市に嫁に来るきっかけとなったのもモラロジーであった。父正一がモラロジーに入っていたことから、正太郎は三本木中学を卒業すると、千葉県柏市にあるモラロジーに基づく教育を行っている麗澤高校に入り、大学を卒業すると大阪で経営の修業をしていた。まさに大阪はショッピングセンター発祥の地である。
 そして正一の妻きみ。きみは呉服の仕入れは東京の卸問屋に行き、一枚一枚自分の目で確かめ仕入れていた。また、ネクタイを月100本売る女性ということで、卸問屋関係では有名であった。きみもまた卸問屋を通して中央の経済界とのつながりがあり、最新の情報を仕入れていた。
 このように杉本家は3人とも、中央の経済界とのつながりがあり、それぞれに情報を仕入れていたのである。
 杉本本店の時代は十和田市では従業員が多い方ではあったが個人商店であった。タナベ経営のコンサルタントの指導のもと、ショッピングセンターにするためにまず店を個人経営から法人化した。建物の管理は杉本商事株式会社が、ショッピングセンターの経営は北海道のホリタストアの幹部社員であったきみの従兄弟の杉本敬三を専務に迎え、株式会社すぎもとと二つの会社を設立させた。
 日本は、昭和35年(一九六〇)安保反対運動で倒れた岸内閣に代わり、池田勇人が所得倍増論を引っさげて登場した。これをきっかけに政治的には日本の経済の高度成長が始まり、昭和35年当時勤労者の平均給与が2万4375円だったものが、7年後の昭和42年(一九六七)には4万8714円と倍増しており、その影響は地方にまで及んでいた。
 昭和41年12月、師走のオープンである。従業員も杉本本店時代の10数人からショッピングセンターでは50人を超えていた。
 ショッピングセンターの一軒置いた隣に十和田観光電鉄の、通称三十番と呼ばれていた中央のバス停があった。十鉄のバスが、農村部や近隣市町村からお客を運んで来てくれる。
 さらに師走である。ただでさえ街に人が溢れる時期である。それがショッピングセンターのオープンと重なり、店はお客で溢れ従業員は目の回るほど忙しく、休む間もなかった。
 その忙しさは佳築子が嫁に来てからも続き、特に週末はどこからこんなに人が来るのだろうと佳築子は思ったほどである。まさにすぎもとショッピングセンターの天下であった。

 十和田市に初めて誕生ショッピングセンターすぎもとは客のあふれし 佳築子