杉本佳築子物語 夢かぎりなく

19、すぎもとショッピングセンター(下)

 さて、すぎもとショッピングセンターはどんな店であったろうか。地域の一つの店を見る場合、お客の目、従業員の目、あるいは商店街の目など、立場によってそれぞれ見方や考え方が違う。ここでは、経営者の一番近くにいた、かつてすぎもとショッピングセンターに勤めていた従業員から、もうそれぞれ70歳を過ぎているが話を聞いてみよう。
 昭和28年(一九五三)に館山経理事務所に勤め杉本本店の経理を担当。昭和40年(一九六五)にすぎもとショッピングセンターに入社したという本田義美さんは、
 「昭和30年(一九五五)に杉本本店を法人化しました。いつ頃からか分からないんですけれど、杉本本店には小松美雄さんという経営コンサルタントが入っていて、すぎもとショッピングセンターをつくるとき、建物の管理を杉本商事株式会社が、ショッピングセンターの経営は株式会社すぎもとがと二つの会社をつくったんですね。
 この時、中央の商事会社に勤めていた喬さん(正一の次男)、日立製作所に勤めていた熙さん(正一の三男)、そして北海道のストアに勤めていた杉本敬三さん(馬吉の長女イトの子ども)を呼び寄せたんです。
 私は昭和40年に入社して、総務部長をやらせていただき昭和45年(一九七〇)に退職しました。
 すぎもとショッピングセンターは、コンサルタントが来ると幹部社員にも話を聞かせましたし、社員を大事にし、社員を含め家族的な経営でした」と語る。
 六戸町で布団店を開業している田中義輝さんは、
 「私は昭和42年(一九六七)から55年(一九八〇)まで13年間勤めました。面接に行ったら明日からすぐ来いといわれまして、入ったとき従業員が50人くらいいたかと思います。社長はモラロジーをやっていましたから道徳教育のしっかりした人でした。奥様(きみさん)は十和田市の三本指に入った美人で、センスが良く呉服の見立ても良かったし、商売を抜きにしてお客様に似合うものでないと進める人ではなかったです。だから、呉服を買うならすぎもとという人が多かったです。すぎもとショッピングセンターは、お客に対しても従業員に対しても素晴らしい会社であったと思います。今の私の商売は、すぎもとショッピングセンターの精神を受け継いでやっています」と語る。
 また、斉藤美千代さんは、
 「私は昭和50年(一九七五)ころから4年ぐらいしかいませんでしたが、呉服部に配属されました。
 勤めたきっかけは、叔母がモラロジーをやっていて、私も若いころモラロジーの女性講座に半年くらい入ったことがあるんです。父が転勤族で十和田に帰ってきたとき、叔母から帰ってきたらすぎもとに挨拶に行って来なさいといわれていたんです。
 それで挨拶に行ったら、佐々木さん(旧姓)良かったらうちに勤めてみないといわれてお世話になることになったんです。
 常務(社長の奥さんきみさん)は見立てがよくて、それもセンスがいいんですね。
 毎月棚卸をやるんですがそのとき常務は自宅(社長宅)で夕食をつくってくれて、夕ご飯だよって自宅に呼んでくれるんですね。料理がとってもうまくて、それが楽しみの一つでした。
 また新年会や忘年会などのとき、圧倒的に女性社員が多くて、それも大半が独身でしたから、みんなにタッパを持って来いというんですね。そして宴会が終わると残った料理をタッパに詰めさせるんです。
 常務は、この料理は、料理人が一生懸命につくってくれたものです。それを残されると気持ちのいいものではない。つくった人に感謝されこそ恥ずかしいことではないといって残った料理を全部詰めさせ、食べ物を大事にさせました。
 専務(正太郎)は、店全体を見るわけですけれども、細かいところまで心遣いをしてくれました。
 佳築子さんを私たちは奥さんと呼んでいました。常務も専務も人間ができた方でしたから、私も結婚してできた姑に仕えて逆に苦労したんじゃないかと思いました」と語る。
 パートではあったが正太郎専務の近いところで働いていた竹中美子さんは、
 「私は昭和47年(一九七二)から58年(一九八三)まで11年間勤めました。小さな子供がいたのでパートで勤めさせていただいたんですが、パートの時給が高かったんです。パートは私の他に10人くらいいました。仕事で遅くなって保育園の迎えが間に合わなくなる時は誰かが保育園に迎えに行ってくれるんですね。正月はお雑煮をつくってくれるなど、店が大きくなっても大変家族的雰囲気のある店でしたね。
 わたくしの仕事は、商品管理から、寝具売り場、ゲームコーナー、電話交換など何でもやりました。
 店での販売の他、割烹こけしやクラブ湖畔、サロン大阪、浅虫の椿館、古牧温泉などで、呉服や羽毛布団、宝石などの企画販売をやるんですね。呉服はすぎもとから買ったという人が多かったですね。品物も良かったしね。
 売り出しのときは、全部売りつくすまでといって夜の12時頃まで店を開けていたこともありました。
 経営コンサルタントが来ると従業員たちにも話を聞かせ、勉強させてくれました。忘年会や新年会は古牧温泉でやってね。社長は『支那の夜』(笑い)の踊りが得意でした。
 その勢いが昭和52年、53年頃からだんだんに下火になってきました」と語る。
 昭和47年(一九七二)に亀屋みなみチェーン十和田店が、翌48年(一九七三)に松木屋十和田店が開業と大型店が十和田市に進出した。当然その影響を大きく受けた。
 以上4人の元従業員から話を聞いてみると、すぎもとショッピングセンターは、同族による家族的な雰囲気のある経営、そしてモラロジーの考え方を根底にした経営であったようである。
 モラロジーとは、「情熱の人杉本正太郎と出会う」の項でも書いたが、明治から大正にかけて活躍した廣池千九郎が提唱したモラル(道徳)とロジー(学問)を組み合わせた造語で、総合人間学である。
 しかし時代は、車社会に入り、売り場の大型化や郊外型などアメリカ的な合理的経営が日本に入り、同族による家族的な経営が壊され始めていた。
 また佳築子は、ショッピングセンター時代は呉服部に行って仕事をしていたが、子育て中ということもあり役員ではなく一般社員扱いで、会社の経営には一切携わっていなかった。

 家族的経営が店を盛り立てし時代は やがて移らんとする 佳築子