杉本佳築子物語 夢かぎりなく

22、大型店へ挑戦

[杉本佳築子物語 夢かぎりなく]
3、ジャスコ進出に前代未聞の商店街のストライキ(上)

 昭和56年(一九八一)2月、ジャスコが十和田市駅前の製材所跡に大型ショッピングセンターを建設することが表面化した。さらに十和田観光電鉄(以下十鉄)が、同じく駅前にショッピングセンターの建設計画を発表した。これに対して松木屋は、青森市の本店を上回る増床計画を発表。十和田市は大型ショッピングセンター出店の嵐が吹き荒れた。
 これにより申請され商調協にかけられた大型店の新設及び増床分の売場面積は、すぎもと7052㎡(推定年商50億円)及びユニバース1710㎡(推定年商16億円)で決定され、松木屋6686㎡(推定年商67億円)、亀屋3252㎡(推定年商51億円)、十鉄1万9158㎡(推定年商116億円)、ジャスコ2万1502㎡(推定年商130億円)の4店は審議継続となった。
 このようにすぎもとは、当初の申請より削られたものの地元商店ということもあり7052㎡で決定され、あとは建築を待つのみとなった。
 人口5万9000人(当時)、上十三地域の中核都市十和田市。ジャスコと十鉄は、その商圏を五戸及び三沢市を含めた上十三地域とみていたが、地元商店街はジャスコの推定年商130億円、十鉄の116億円を見てこれは死活問題だと恐れ戦いた。もしこれが認可された場合、現状の松木屋、亀屋及び、増床が決定されたすぎもと、ユニバースの4店の床面積の占有率は23・4㌫である。が、これに増床の松木屋、亀屋、新設の十鉄、ジャスコが加えると58㌫と六割近くなる。十鉄は地元であるが、特に全国展開するジャスコの進出には地元商店街は極端な拒否反応を示した。
 商店街は、連合商店街、中央商店街、六丁目アーケード商店街、南商店街などの国道沿い稲生町の中心商店街、それに太素振興会、十和田通り商店会が加わった他、商工会議所の大型店対策委員会、商業協同組合も加わり小委員会が開かれた。これには松木屋、亀屋、すぎもとも商店街に入っていたが、量販店であるとして除外された。この小委員会で、大型店の進出反対する「小売商業活動協議会」が結成された。
 ここで出された結論は「大型店出店凍結宣言」である。ジャスコなどへの大型店出店凍結宣言は全国の市町で行われており、昭和55年度まで27都道県62市町で行われていた。県内では青森、八戸、弘前の旧三市の商店街が凍結宣言を打ち出していた。小売商業活動協議会もそれに倣ったわけである。しかしこれには法的根拠があるわけではなく、出店してほしくないという意思表示に過ぎなかった。
 そこで小売商業活動協議会が打ち出したのは、加盟店による全店閉店の前代未聞の商店街のストライキである。
 商店街がストライキ?
 商店街に働く従業員が待遇改善を求めてストライキするのであればわかる。が、商店主たちがシャッターを下ろし、額にハチマキをしてストライキするのである。商売人が大型店出店反対というなら、大型店が来なくても私たちはお客様を大事にし、お客様の要望に応えるよう頑張りますと、大型店出店反対大サービスデーをやるのならわかる。それがシャッターを閉めてストライキをするのである。シャッターを閉めるということはお客様が来なくてもいいということでもある。まさに全国初めての、前代未聞の商店街のストライキである。
 何故そういう結論に至ったのか。ここで十和田市中心商店街の成り立ちの特殊性についてちょっと触れておかなければならない。
 十和田市は盛岡藩士新渡戸傳の、奥入瀬川から2本の穴堰を掘削して上水した三本木開拓と、その息子十次郎による都市計画によってつくられたまちである。
 その都市計画された三本木に最初に入って来たのは新渡戸傳について岩手からきた人たちである。次に入ってきたのは、明治3年(一八七〇)に、戊辰戦争で敗れた旧会津藩士たち100戸の入植者たちである。さらに明治18年(一八八五)に、後に日本一の軍馬補充部となる陸軍軍馬出張所が開設された。軍馬が大きくなるにしたがって軍馬に物資を納入する御用商人たちが移住してきた。こうして街区が形成されると、七戸や五戸、あるいは三戸の商家の次三男たちが分家して三本木に移住して店を開いた。このように稲生町の商店の多くは、他から移住してきたひとたちであった。
 平成6年(一九九四)に当時90歳であった旧家出身の三浦ゆわさんが、『なつかしの三本木』として、旧国道沿い稲生町を中心に、三本木農業高校(現三本木高校)から稲生川まで一軒一軒、どこの出身でどういう商売をやっていたかを書き残している。
 それによると、会津からの入植者はもともと武士階級であるのでまちの人たちは会津様と「様」づけで呼んでいた。いわゆる旦那様である。
 十和田市の中心商店街はいつのころからか殿様商売と呼ばれていた。それを特長づけるようなこんな逸話が残されている。
 ある金物店で農家のカッチャ(方言でかあちゃんあるいは婦人)が、品物を手に取って見ていると、店の主人が来て「それ、買うのか買わないのか。買わないんだったら手つけるな。錆びるから」といったという。
 十和田市はわずかな市街地に広い農村地帯を抱えている。つまり、十和田市商店街に買い物に来るお客の多くは百姓のトッチャ(方言で親父あるいは父親)、カッチャで、店の主人は街の旦那様である。そんなことから昭和30年代までは農家のカッチャたちは店に入るとき「買わせて下さい」と、お客なのに頭を下げて店に入り買い物をしている光景が見られた。そんなことから十和田市の商店街が殿様商売と呼ばれる所以である。
 が、すぎもとショッピングセンターの創業者杉本馬吉はもともとはそんな旦那様ではない。背に品物を背負い売り歩いた行商人であり、三本木に来て戸板一枚から始まった商人である。だからお客を大事にしお客に頭を下げた。そんなすぎもとだから農家のトッチャ、カッチャたちが皆すぎもとに買い物に行った。それが一代で三本木一の商売人となった理由であった。
 ところが、旦那様が中心となっている稲生町の中心商店街。そこで出された結論が前代未聞の、お客を蚊帳の外においたシャッターを閉めての商店街のストライキであった。