夢追人ニュース

北里大学獣医学部創立50周年

[夢追人ニュース]
十和田市の文化、経済に大きく影響
50年間に約1万5000人の学生が巣立つ

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 昭和41年(一九六六)、人口わずか4万5000人余、純農村地帯である田舎の小都市十和田市に、県南初4年制の大学が突如として現れた。定員は獣医学科30人、畜産学科70人。同年4月23日開学式と入学式が挙行された。それから50年、北里大学獣医学部の十和田市に与えた文化的、経済的な貢献は計り知れない。
 何故、十和田市に北里大学獣医学部が誘致されたのであろうか。一言でいうなら馬産地であったからである。

 馬が野に満る三本木平
 寛政5年(一七九三)にこの地を通った木村謙次が、「三本木村此辺南北三里二十七町東西ハ山ヨリ海マテ七八里皆廣原ナリ(中略)夏ニ至レハ易商多ク集リ馬ヲ野飼ス牧馬原野ニ満ルト云」と書いている。
 また三本木平を開拓した新渡戸傳が『三本木平開業之記』の中で、「駄馬市之事」を真っ先に掲げている。
 そして明治18年(一八八五)、後に日本最大の軍馬補充部となる陸軍軍馬出張所が開設された。

 北里大学獣医学部誘致秘話
 昭和21年(一九四六)、戦後の混乱の中でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、治療血清や各種ワクチンの製造に良質の馬が必要であるとして、血清やワクチンの研究で実績のあった北里研究所にその製造を要請した。
 その情報をいち早くキャッチしたのが、厚生政務次官で馬喰代議士と呼ばれていた小笠原八十美である。八十美は良馬なら三本木だと地元議会と共に誘致運動を展開、昭和22年(一九四七)に、鈴木三郎、椿精一両博士を迎え、北里研究所三本木支所を設立した。
 昭和31年(一九五六)歴史的役割を終えたとして北里研究所三本木支所は廃止。昭和39年(一九六四)に閉鎖された。
 一方、北里研究所は、研究所50周年の記念事業として昭和37年(一九六二)に北里大学衛生学部を、昭和39年(一九五四)に薬学部を開学した。
 次は畜産学部だと、十和田市議会の中に北里大学誘致特別委員会が設置され、誘致運動を展開した。十和田市に北里研究所三本木支所があったという有利さもあって昭和41年(一九六六)、この地方の夢と期待を担い、県南初の4年制の北里大学畜産学部の開学となったのである。

 約1万5000人が巣立つ
 それから50年、この半世紀に獣医学部5911人、動物資源学科4625人、生物環境学科3139人。大学院/獣医学科916人、動物資源学科279人、生物環境学科128人。博士課程/獣医学科73人、動物資源学科26名の学生たちが、大学卒業生と大学院、博士課程はダブルところもあるが、十和田キャンパスから約1万5000人の学生たちが巣立ち全国に散らばっていった。
 学生たちは、相模原キャンパスに1年いるから、一般学生で3年、大学院修士課程で5年、さらに博士課程2年と青春の一番大事な時期を十和田市で過ごしている。

 経済効果はおおよそ60億円
 現在、十和田キャンパスでの在籍者1435人、教員86人、職員51人、併せ1572人、その経済効果は、おおよそ60億円と推計されている。
 また、学生たちは十和田市の様々なイベントに参加。現職の先生は地域づくり構想委員会に参加。卒業した学生は市役所や地元企業に就職、あるいは獣医師を開業。そして北里大学卒業の市長も誕生した。退職した先生方も近年は十和田市に残り地域活動をしている。
 もし北里大学がなかったならと考えると、その存在だけで文化学園都市として十和田市のイメージを高めている。

 次の50年
 日本は少子高齢化、人口減少の時代に突入した。
 髙井伸二学部長は、
 「次の50年は非常に厳しいと思っています。犬がピーク時の1200万頭から1000万頭に減ってきています。
 しかし一方、ノーベル賞を受賞した大村先生が発見・開発したイベルメクチンによって犬の寿命が2倍以上伸びました。動物と人間の関係も愛玩動物から伴侶動物へと変わってきています。北里大学の卒業生は食品衛生の分野からの需要は非常に多い。北里大学は動物の健康のみならず人間の健康をも守る。すでに次の時代のことをも考えています」と語る。

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写真は北里大学獣医学部と髙井伸二学部長。そして創立当時の北里大学