野呂修平バレエ一筋55年

 昭和45年(一九七〇)指導に行っていた、日本のクラシックバレエの草分けの一人である間瀬玉子から、間瀬バレエスタジオを引き継ぐことになった修平。
 しかし、日本民俗芸能協会の海外公演などがあり、修平が熊谷市に腰を据えたのが昭和50年(一九七五)になってからであった。
 そして間瀬玉子の死去(昭和51年)に伴い修平は、埼玉県舞踊協会のクラシック部門の副会長、熊谷市文化連合の洋楽部長に就任した。それだけ修平に対する期待が高かったであろう。
 修平はその期待に応えるかのように、地域文化の発展のために後継を育てる傍ら、地域の民話や伝説、その時々社会的課題をテーマに、旺盛な創作活動を始めた。
 修平の主なバレエ創作を紹介しよう。
 昭和50年(一九七五)
 間瀬バレエスタジオ第28回発表会(以下、発表会については回数のみとする)『おもちゃの交響曲』、『ワルプルギシの夜』。公害追放キャンペーン『車椅子の願い』。埼玉県芸術祭『平和への先駆者たち』 。
 この年修平は、県コンクール第1位県知事賞、同橘秋子賞を受賞した。
 昭和51年(一九七六)
 第29回発表会『ピーターと狼』。第30回間瀬玉子追悼発表会『精霊』、『眠れる森の美女』。亡き母に捧げる『幻想ラルゲット』。県コンクールで第2位の県教育長賞受賞。
 昭和52年(一九七七)
 文化庁の海外派遣事業で、アメリカサンフランシスコバレエ団に研修。第31回発表会『77Dance Suitte』、『ヘンゼルとグレーテル』、『マチネーミュージカル』他。県コンクールで昨年に続き第2位県教育長賞受賞。
 昭和53年(一九七八)
 第32回発表会『愛情の森』、『道化師』、『猫の館』、『湖畔の乙女』。この『湖畔の乙女』は、修平のふるさとである十和田湖の「湖畔の乙女像」(高村光太郎作)と、十和田湖伝説「八郎太郎と南祖坊」をテーマにした創作バレエである。県コンクールで読売新聞社賞。
 昭和54年(一九七九)
 第33回発表会『子供の情景』、『レ・シルフィード』、「ドン・キホーテ」より『夢の景』他。
 この年、バレエ、モダンダンス、ジャズ、日本舞踊、声楽、ピアノ、フルート、演劇、歌謡曲の科を持つ熊谷芸術学園を開設し、園長に就任。
 またこの年、全国13支部をもって日本バレエ協会が設立(服部智恵子会長)されるが、修平は埼玉ブロックの委員長に就任した。
 そして、前年に創作した『湖畔の乙女』を持ってふるさとに初めての凱旋公演を行なう。が、肝心の十和田市には公演できるホールがなかったために八戸市及び弘前市の公会堂で行ない喝采を受けた。
 昭和55年(一九八〇)
 第34回発表会『古典交響曲』、『動物の謝肉祭』、『世界の踊り』。公害追放キャンペーン『宇宙会議』他。間瀬バレエスタジオが「埼玉県文化ともしび賞」を受賞。
 また、ふるさとの母校である三本木高校で「バレエ講座」を行なう。
 昭和56年(一九八一)
 第35回発表会(夏季)『四季の花』、『白鳥の湖』(第2幕)。第35回記念発表会『くるみ割り人形』(全幕)、『おもちゃの交響曲』他。バレエ協会『案山子』出品。
 昭和57年(一九八二)
 第36回発表会『花のワルツ』、『子供の交響曲』他。日本バレエ協会埼玉ブロック結成記念公演『菊路物語』。これは、埼玉の民話「黒浜の盗賊」を題材にした創作バレエである。
 昭和58年(一九八三)
 第37回発表会『皇帝円舞曲』、『コッペリア』他。公害追放キャンペーン『さぎ山』発表。
 熊谷市制50周年記念で、文化連合主催で交声曲『直実』を制作発表。その成功のために文化連合副会長として尽力。また記念に制作されたレコードのジャケットに修平の写真が使われた。修平は熊谷市文化運動の、もはや中心的存在になっていたことが伺われる。
 またこの年、文化庁芸術家在外研修員としてアメリカ、スペイン、フランス、ベルギー、イギリスを3ヵ月に亘って研修。
 昭和59年(一九八四)
 第38回発表会『古典交響曲』、『愛情の森』、『動物カーニバル』他。
 熊谷市文化連合主催で、海外研修帰国報告会開催。
 *恩師服部智恵子逝去。
 昭和60年(一九八五)
 第39回発表会『おもちゃの交響曲』、『誕生日の贈り物』、『白鳥の湖』(第2幕)他。
 バレエ協会バレエフェスティバルで『猫の館』発表。大好評であった。
 昭和61年(一九八六)
 第40回記念発表会『コッペリア』(全幕)他。埼玉県舞踊協会主催「バレエ・モダンダンスコンサート」出演。
 昭和62年(一九八七)
 第41回は発表会。秩父屋台囃子をもとにした創作バレエ『秩父旋踊紋』、『菊路物語』他。
 また、この年ふるさとである十和田市に市民文化センターが開館。そのこけら落としに間瀬バレエスタジオ一行40名を、バス1台チャーターし、『コッペリア』(全幕)持って凱旋公演を行なった。昭和28年(一九五三)にふるさとを出てからちょうど35年。文字通り錦を飾ってのふるさとへの凱旋であった。1000人のキャパは満席。ふるさとの人たちには初めて観るバレエ公演に大感激であった。夜は、ふるさとの同級生や公演を支えてくれた人たちと美味しい地酒を飲む。
 昭和63年(一九八八)
 第42回発表会『湖畔の乙女』、『ドン・キホーテ』(夢の景)他。
 平成元年(一九八九)
 第43回発表会『眠れる森の美女』(第3幕)他。
 この年に、間瀬桂子他5名が、ロシア・ワガノウバレエ学校に短期留学した。
 平成2年(一九九〇)
 創立45周年記念事業として、鉄骨三階建ての新スタジオ建設に着手。
 平成3年(一九九一)
 新スタジオ完成。完成祝賀会を行なうと同時に、創立45周年記念発表会『竹取物語』(2幕7場)を行なう。
 修平、埼玉県文化奨励賞を受賞する。
 平成4年(一九九二)
 第46回発表会『ジゼル』(第2幕)、『絹のはしご』他。
 平成5年(一九九三)
 通常の発表会は休会。
 埼玉県北部バレエ連絡協議会結成し、修平会長に就任。旗揚げ公演を行なう。
 平成6年(一九九四)
 第47回発表会『レ・シルフィールド』、『くるみ割り人形』(第2幕)、『ディズニーワールド』、『フラワーガーデン』他。
 修平個人として「埼玉県文化ともしび賞」を受賞。
 平成7年(一九九五)
 第48回発表会『The World Dance Festival』、「ドン・キホーテ」より夢の景『パ・キータ』他。
 ニュージーランドINVERCARGILL市より、ダンサー4名、教師2名招聘して国際文化交流を図る。
 平成8年(一九九六)
 第49回発表会『ピーターと狼』、『くるみ割り人形』(雪の景)、『平和の使者』他。
 姉妹都市INVERCARGILL市へ、翌年の合同公演のための振付をするために渡航。
 平成9年(一九九七)
 第50回夏季発表会『バルンファンタジー』、『白鳥の湖』(2幕)他。
 ニュージーランドINVERCARGILL市に間瀬バレエスタジオ一行30名で海外公演。このとき、前年に渡航し振付けた作品の合同公演を行なった。公演は成功裏に終わり、国際交流を深め帰国した。
 埼玉県芸術文化振興財団理事長諸井誠氏(当時)から相談を受ける。諸井氏は秩父セメント創業者の一族であり、父は作曲家諸井三郎、兄は太平洋セメント相談役の諸井虔で、作曲家・音楽評論家として活躍後、晩年は埼玉県芸術文化振興財団理事長・彩の国さいたま劇場初代館長に就任していた。
 諸井氏は、熊谷は埼玉のバレエの発祥の地であるから、オーケストラ付の本格的なバレエ『くるみ割り人形』の全幕を5年間やる。
 その主役は海外から一流のダンサーを呼び、周りはプロダンサーで固めるが、県内からヤングダンサーをオーディションで120人募集するといった。なんとも大胆な企画であろうか。ヤングダンサーは、主には修平が会長を務める埼玉県北部バレエ連絡協議会から選ばれた。
 芸術総監督は諸井誠氏、振付は江川明氏で、修平はその振付補佐を任されたと同時に、実施的なプロデューサーもやらなければならなかった。
 修平64歳の新たな創造への挑戦であった。
 

 

 yamatanooroti.jpg話をちょっと後に戻そう。
 修平にはその理由はわからなかったが、昭和49年(一九七四)に、日本民族舞踊団とは別に、新たに日本民俗芸能協会が結成された。
 民俗芸能協会には、民族歌舞団から、五条雅巳、福田一平、藤陰静枝、江崎司が参加。そして会長に、紫綬褒章を受章している、民俗芸能研究では第一人者の本田安次氏が就いた。
 その日本民俗芸能協会の、文化使節団としての第1回海外公演は、アフリカのケニア、マダガスカル、エジプトの3ヵ国であった。
 使節団のアフリカ訪問は、訪問の3ヵ月前に声がかかり、国立劇場で厳しい練習が行なわれた。
 使節団の団長は、会長の本田安次氏。演出は日本民族舞踊団に最初から参加していたモダンバレエの江崎先生で、修平は演出助手兼ダンサーとして参加した。
 メンバーは、男性はモダンバレエの加賀美次郎、日本舞踊の高橋春夫、藤間鳳州、女性は日本舞踊の花柳小童、モダンバレエの加藤英子、甘間節子の小編成であった。
 演目は、「有田神楽」、「鬼剣舞」、「綾子舞」、「田植え踊り」など、日本民族舞踊団のときの縮小版であった。
 一行は、昭和49年3月7日にケニアに入り、首都であるナイロビで2回公演した。
 ケニアは人口約3900万人。旧イギリス植民地であったが、一九六四年に独立。今ではアメリカのバラク・オバマ大統領の父親の出身地として知られている。
 ケニアには公演できる大きな劇場はなく、会場がキャパシティが500席、舞台が間口12㍍、奥行き6㍍と小さかった。
 そんな小さな劇場で、「有田神楽」で、二匹の大蛇が絡み、火を噴く場面がある。 それを見た観客がびっくりして大騒ぎになった。 
 一行は、次のエジプト公演の合間に、ケニア国立自然動物公園の一つ、ナイロビ国立公園を見学した。ここは、幾つかの自然動物公園の中でも動物の数が一番多い公園である。遠くにはアフリカ大陸の最高峰キリマンジャロが見えた。
 途中、遠いむかし首刈り族として恐れられていたマサイ族の集落があった。ケニアの国旗には、自由と独立を意味する、このマサイ族の旗が描かれている。
 ケニアで1週間滞在したあと、次の公演地であるエジプトに向かった。
 エジプトというと、誰しもが思い浮かべるのがピラミッドであろう。エジプトの人口は約8200万人。国土の90㌫が砂漠という国である。エジプトの首都はカイロは、アフリカ、アラブ世界で最も人口が多く、アラブ文化圏の中心都市である。
 一行は、そのカイロで2回公演をした。カイロでの公演の前に、身体をくねらし官能的に踊るベリーダンスのダンサーたちから歓迎の熱烈なハグを受けた。日本ではハグがまだ珍しい時代だったから、男たちは喜ぶやら戸惑うやらであった。
 カイロでの本番前夜のリハーサルが終わって、いつものことながら、明日は頑張ろうと一杯やった。が、江崎先生が飲みすぎて風呂場で転倒し、怪我をしてしまった。
 さあ大変。江崎先生も「八岐大蛇」の大蛇に入っていた。急きょ修平が舞台の責任者となり、加賀美次郎に大蛇に入ってもらい、無事舞台が終了した。
 また、エジプトでも見学の時間が取れた。エジプトでは何といってもピラミッドである。
 ピラミッドは、キザの大ピラミッドである。この大ピラミッドはフク王のピラミッドで、高さがなんと146・6㍍というちょっとした小山のようである。紀元前2540も前に、どのようにしてこれを造ったのであろうか。その威容さに圧倒された。

 一行はラクダに乗り、ピラミッドの前で記念写真を撮った。
 三つ目の訪問国はマダガスカルである。マダガスカルには、一旦ナイロビに戻り、そこから空路マダガスカルに入った。
 マダガスカルは旧フランスの植民地で、人口約1900万人。徳利形の巨大木バオバブでも有名である。
 また、第二次世界大戦中の昭和17年(一九四二)、このマダガスカル島とインド洋のシーレーンをめぐって、日本軍がイギリス軍と激戦を繰り広げた地でもある。
 マダガスカルの主産業は農業で、人口の80㌫が農業に従事をしており、このときはまだ裸足での生活であったが、大変自然の美しい国である。
 ここでは公演は1回だけであったが、日本人に対しては大変親しみを持って好意的に接してくれた。
 こうして、3ヵ国を訪問し、3月25日に帰国した。
 翌昭和50年(一九七五)日本民俗芸能協会の第2回文化使節団は、アメリカ民俗フェスティバルへの出演であった。
 このアメリカでの公演は、アメリカ建国200年祭は、イギリス貴族・鉱物学者のスミソニアンが、遺言によってアメリカに寄付された全財産によって設立されたスミソニアン財団による招聘であった。
 メンバーは、新舞踊藤蔭流を創始した藤蔭静枝、江崎司をトップに、修平は前回と同じく、演出助手兼ダンサーとして舞台に立った。
 舞台は、有田神楽、鬼剣舞、獅子舞、田植え踊りなどであったが、指導者が変われば、解釈も変わり振付も全く同じではない。そういう点では大変収穫の得た公演であった。
 このときは約1ヵ月の長期公演で、ワシントンを皮きりに、ミルウォーキー、フィラデルフィア、ソルトレイクシティ、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコなどを巡回公演した。
 サンフランシスコでは日本人街で公演した。日系二世、三世の人たちが、焼き鳥やおでんなど、日本の屋台をつくって、大歓迎を受けた。
 修平は42歳になっていた。修平は、この民俗芸能協会の2回公演を最後に海外公演から手を引いた。
 東北の片田舎の開拓村出身から出て、バレエを始めたのは昭和31年(一九五六)、修平23歳のときであった。バレエダンサーとしては遅い出発であったが、それから約20年、今はバレエダンサーとしても名が通り、間瀬バレエスタジオを主宰するまでになった。
 その修平を大きく育ててくれたのが服部智恵子・島田廣との出会いと、日本民族舞踊団への参加であった。
 出会いは人生を変える。修平は服部智恵子・島田廣との出会いがなければ、今の修平はなかったであろう。まさに一期一会であった。
 修平には、間瀬バレエスタジオの主宰者としての新たな人生が待っていた。

 写真/アメリカ公演は主にはこのような野外舞台での公演であった。舞台は「有田神楽」の八岐大蛇。子どもたちにも人気があった


 昭和51年(一九七六)、修平は指導に行っていた埼玉県熊谷市にある間瀬バレエスタジオを引き受け、スタジオを主宰することになった。
 バレエスタジオの主宰は、バレエをやっていたからといって、誰彼が簡単にできるものでない。しかも熊谷駅近くの一等地である。
 確かに、公設のホールやスタジオを借りてやっているひともいる。が、独立したバレエスタジオとなると、まず土地、建物が必要である。一からやるとなると大変なことである。
 間瀬バレエスタジオを主宰していた間瀬玉子は、日本のクラシック・バレエの草分けの一人であった。
 間瀬玉子は明治43年(一九一〇)、横浜市で生まれたが、後に鎌倉市に移った。
 その鎌倉に、ロシア革命で日本に逃れてきたエリアナ・パヴロワがいた。パヴロワは、ロシア・サンクトペテルブルグの貴族の家庭で生まれた。が、ロシア革命に遭い、大正9年(一九二〇)、母と妹の、女性だけ3人で日本に亡命してきた。
 パブロワは、このときまだ21歳であったが、ロシアにいたころはクラシック・バレエをやっていた。
 貴族であった一家は、革命ですべてを失い命かながらに日本に亡命してきた。パヴロワは、日本でクラシック・バレエを教え、生計を立てようとしていた。
 しかし、日本ではバレエはあまり知られておらず、バレエを習おうという人は皆無に近かった。そこでパヴロワは社交ダンスを教え細々と生計を立てていた。
 大正12年(一九二三)そのパヴロワの門を叩いたのが間瀬玉子であった。玉子はまだ13歳であった。パヴロワはバレエに関しては非常に厳しいひとであった。玉子はやがて内弟子となり指導を受けた。
 そのパヴロワのもとには、後に日本のバレエ界を背負って立つ東勇作、藤田繁、橘秋子、貝谷八重子、近藤玲子、大滝愛子、島田廣らがいた。
 また、少女時代を貿易商であった父についてロシアで過ごし、ロシアでクラシック・バレエを学んできた服部智恵子が、パブロワの片腕となっていた。服部智恵子も、ロシア革命で日本に帰って来た一人であった。
 このパヴロワが最初にバレエを教えた鎌倉の七里ヶ浜の旧パヴロワ館を、後にバレエ関係者は「日本バレエ発祥の地」として碑を建てている。
 玉子は、16歳で初舞台を踏み、本格的なバレエの道に入った。
 パヴロワは日本に帰化。日本最初のバレエ団エリアナ・パヴロワ舞踊団を結成した。しかし、日中戦争が勃発(昭和12年)、国家総動員法が公布(昭和13年)されるなど、戦争が色濃くなるにしたがってバレエ団の活動が制限されてきただけでなく、昭和14年(一九三九)、パヴロワ舞踊団は、満州に日本軍の戦地慰問に駆り出された。
 昭和16年(一九四一)、パヴロワは慰問中の南京で病に倒れ亡くなった。パヴロワ42歳であった。パヴロワはロシア人ではあったが、帰化していたこともあって、軍属の戦病死として扱われ、靖国神社に祀られた。
 この満州慰問団の中には間瀬玉子も入っていた。
 そして帰国後玉子は、パヴロワが亡くなったので、東京・中野でバレエ教室を開いた。玉子30歳のときである。
 しかし戦争が激しくなり昭和19年(一九四四)、玉子は埼玉県熊谷市の藤井経太朗宅に疎開した。が、昭和20年(一九四五)8月15日、熊谷市も空襲を受け焼土と化した。
 この熊谷市の空襲は、死者234名、焼失家屋3630戸という、埼玉県内最大の空襲であった。
 命の助かった間瀬玉子。焼け野が原となった熊谷市を見、この熊谷市に骨を埋めようと決心。昭和21年(一九四六)、矢野薬局の一室を借り、バレエ教室を開いた。
 これが間瀬バレエスタジオの始まりである。
 昭和24年(一九四九)、その間瀬バレエ教室に入ってきたのが野辺トリ(後の間瀬桂子)であった。
 昭和32年(一九五七)、子供のいなかった玉子は野辺トリを養女とし、名前も間瀬桂子と改めた。
 昭和42年(一九六七)、バレエ教室開設20周年記念公演を機に、名称を間瀬玉子・桂子バレエ研究会と改めた。
 そして昭和44年(一九六九)、修平はこの間瀬玉子・桂子バレエ研究所に、専任講師として行くのである。
 間瀬玉子はすでに59歳になっていた。来年は還暦である。熊谷市に来て23年、今では埼玉県舞踊協会会長他、熊谷市文化功労賞を受賞している。熊谷市は勿論だが、埼玉県内でも名前が知られるようになった。私が亡くなった後、このバレエスタジオを継続して行くには桂子一人では無理である。やはり創作・振り付けのできる優秀な男性のバレエダンサーがいなければならない。
 そう思った間瀬玉子は、バレエを始めたころから知っている、バレエの先輩でもある服部智恵子に相談した。
 そして、服部が白羽の矢を立てたのが、人一倍の努力家である修平であった。
 修平は、そんなこととはつゆ知らず、服部先生に行けといわれ、週末に熊谷市に通い、専任講師として指導した。
 こうして、ちょうど1年後の昭和45年(一九七〇)4月、修平と間瀬桂子が結婚することになった。修平37歳になっていた。
 しかし、修平には日本民俗芸能協会の海外公演など、すでに決まっている仕事があり、東京から通いながらの結婚生活であり、指導であった。
 昭和46年(一九七一)、間瀬玉子は、修平を養嫡子にした。つまり、婿ではなく玉子の子供にしたのである。間瀬玉子・桂子バレエ研究所を引き継ぐ修平に思い通りにやっていただくために、肩身の狭い思いをさせたくなかった玉子の配慮であった。
 また修平を迎えるために、自宅の2階をバレエスタジオに改修すると共に、バレエ研究所の名称も、代表は間瀬玉子であったが間瀬バレエスタジオと改名した。
 昭和51年(一九七六)、間瀬玉子が亡くなると共に修平は、間瀬バレエスタジオの主宰者となると同時に、埼玉県舞踊協会の副会長となった。
 人生は運と出会い、そして努力である。昭和28年(一九五三)、田舎から出て来た若者が、たまたま勤めたところの社長が、服部・島田バレエ団の島田廣と友だちであった。それがきっかけとなってバレエの道に進んだ修平。それから23年、バレエ界では押しも押されぬ名の知れたバレエダンサーになると共に、一国一城の主となった。
 行く先々で高い評価を受けてきた日本民族舞踊団の第4回目の海外公演は、昭和45年(一九七〇)に行なわれた。
 行く先は、フィリピン、タイ、インドネシア、シンガポール、マレーシアの東南アジアの5ヵ国である。
 一行は、外務省と国際文化振興会派遣の文化使節として、6月12日、羽田を発った。参加人数は、ソ連、東欧圏よりちょっと少ない28名。
 修平は、人気演目である「八岐大蛇」を抱えていたこともあり、一般ダンサーとして、第1回目から外されることなく、全ての海外公演に参加してきた。
 東南アジアの都市は、フィリピンのマニラ、タイのバンコック、インドネシアのジャカルタ、シンガポール、マレーシアのクアラルンプールである。
 羽田を発つときは、6月であったから、梅雨どきでむしろちょっと肌寒いくらいであった。
 が、今回訪問する東南アジアは、赤道直下の、あるいは赤道に近い国々である。このころはどこの国でもあまり劇場が整備されていなく、大学の講堂や炎天下の野外ステージであった。
 普通の公演であれば、舞台に立ち動いてから汗が出るが、今回は厚い衣装を着けているということもあり、立っただけで汗がどーっと出てくる。舞台は2時間半である。舞台袖に戻ると、まずタオルで汗を拭く。化粧なんてあったもんじゃない。そして次の衣装に着替える。中には、リハーサル中であったから良かったものの、熱中症で踊れなくなった者もいた。ともかく暑さとの戦いであった。
 特に修平の場合は、大蛇の中に入っているから、ちょどサウナに入っているような暑さであった。
 舞台が終わると、汗で濡れた衣装を乾かす。すると襟などがカビが生えたように真っ白になった。塩である。身体から塩が噴き出たのであった。
 身体から塩が噴く?分からないひとの為にちょっと説明しよう。
 戦国時代、上杉謙信が敵である武田信玄に塩を送った話が有名であるが、人間の血液には0・4~0・5㌫の塩分が含まれている。その塩分が、激しく汗をかくと汗とともに噴出するのである。
 むかし、100度以上という溶けた鉄を扱う製鉄所の控え室には、塩が置かれていた。身体の塩分を補うために、労働者は塩をなめなめ仕事をするのである。
 そんな苦労をしながらもどこでも歓迎を受けた。
 特に、「荒馬」、「じょんがら」、「稲の祭り」の中の「刈り入れ」、「さんさ踊り」などになると、同じ稲作文化の国である。会場から共感の歓声があがった。
 また、「八岐大蛇」や「鷺舞」は、どこに行っても圧倒的な喝采をあびた。
 赤道直下の海は美しい。いわゆる南国に海である。移動の合間には観光地を巡った。苦しくも楽しい公演旅行であった。
 日本民族舞踊団の公演を、フィリピンの新聞「マニラ・クロニル」は、
 「...日本のアンサンブルは、舞台構成上特別な技術的操作が加えられていない。にもかかわらず、日本の踊りは西ヨーロッパのバレエが表しうる以上の繊細で洗練された、こまやかな美を表す。その美しさは、微風に揺らぐ細い葦、緑の原野に静かに降る雨、又は日光に照りはえて輝く雪片に似ている。優雅であること、洗練されていること、その踊り手が熟練していること等は、日本の舞踊の明白な特徴である。ステップは一般に小さく気取った風である。動きはゆっくりしていて優雅でリズミカルである。手と足は、角立ったポーズをとる...」
 西洋のバレエと並び評され、ちょっと褒めすぎではないかと思われるほど高い評価で書かれている。
 これは、内部的にも、「その発展段階は、第二段階に入った」と評価されていた。
 準備段階を含め昭和38年(一九六三)から始まった日本民族舞踊団。7年の歳月が流れていた。
 この間、海外公演が4回、16ヵ国以上廻った。痩せても枯れても日本という国を背負った日本を代表する舞踊団である。7年間に団としては勿論だが、個々人の技量も参加当初とは比べものにならないくらい高くなっていた。
 一般ダンサーとして唯一人、4回全ての海外公演に参加した修平。その技量が高まるとともに、当然その評価も高まり、民族歌舞団が、一時休団ということもあって、大きな舞台への依頼が次々と舞い込んできた。
 その主なものを紹介すると、東京都助成公演『眠れる森の美女』(日本バレエ協会)産経ホール5公演。日本民族舞踊団公演『有田神楽』『鬼剣舞』他、国立劇場8公演。藤原歌劇団『バレエの夕べ』NHK。現代舞踊協会公演『トロイヤの女たち』産経ホール。小林恭バレエ団公演『リゼット』。松山善三プロダクション『ダンダンボッコ唄』狛江スタジオ。東京シティバレエ団『エスメラレダ』世田谷区民会館。バレエグループ『オンデーヌ』日生劇場。秋田芸術学園東京公演『白雪姫』産経ホール。間瀬・矢野合同公演『白鳥の湖』熊谷会館(こけら落とし)などである。
 昭和44年(一九六九)から、後に引き継ぐことになる間瀬バレエスタジオの専任教師となっていたが、昭和47年(一九七二)間瀬バレエスタジオの第25回発表会『卒業舞踏会』、『小人の国』、『メヌエット』の演出及び振付を初めて行なった。
 この舞台が、埼玉県バレエコンクールで、埼玉県のトップ賞である県知事賞及び読売新聞社賞を受賞した。これは、間瀬バエレスタジオの初めての快挙であった。
 どんなに上手いダンサーでも振付や演出ができるわけではない。踊る能力と演出及び振付る能力は別である。演劇の演出家、映画での監督の能力である、創造する能力がなければならない。
 7年間の日本民族舞踊団での活動は、修平にそんな能力を身につけさせていた。
 さらに、1年置いた昭和49年(一九七四)に行なわれた、間瀬バレエスタジオ第27回発表会、そして間瀬バレエスタジオの創始者である間瀬玉子舞踊生活50周年記念発表会でもあり、修平は『レ・シルフィード』、『親指姫』、『八岐大蛇』の演出及び振付を行ない、そしてダンサーとしても踊った。
 この舞台は、県コンクールで第2位の県教育長賞及び東京新聞社賞を受賞した。第25回及び今回の功績で、間瀬玉子は埼玉県文化奨励賞を受賞した。
 もはや修平は、間瀬バレエスタジオには欠かすことのできない、なくてはならない人間になっていた。
 日本民族舞踊団の第2回目の海外公演は、外務省派遣文化使節団として、昭和43年(一九六八)8月、アフガニスタン、イラン、トルコなどの中近東諸国と決まった。
 1950年代に、中東やアフリカで相次いで大油田が発見された。これにより世界のエネルギーの主役が石炭から石油へと移行していった。
 日本は、昭和35年(一九六〇)の池田内閣の所得倍増政策を前後して、経済の高度成長の時代に入った。
 それと相まって、エネルギーが石炭から石油へと転換、いわゆるエネルギー革命がおこった。
 その中で中近東は、日本にとって石油輸入の外交上重要な国々であった。
 第2回目の海外公演の団員は、音楽では、雅楽家で後に日本芸術院会員となる竜笛の柴祐靖、後に人間国宝となる打楽器の堅田喜三久。同時代では高橋竹山、白川軍八郎と並んだ津軽三味線名手木田林松栄、津軽民謡の池田まつこなど、その道一流の錚々たるメンバー。
 踊りでは、男性は江崎司、五条雅巳、福田一平、藤陰静枝、そして野呂修平と5人で、修平以外は舞踊団の踊りの指導者で、一般のダンサーとして選ばれたのは修平一人だけであった。
 ダンサーで修平が選ばれたのは、どこに行っても一番の人気は「八岐大蛇」であった。「八岐大蛇」は、大きな大蛇の縫いぐるみの中に入っての演技なので体力勝負である。多分、その体力が評価されたのではないかと修平は笑う。
 女性は、石井みどりの門下生の折田克子、石井漠の門下生木村公香、日本舞踊の西崎元と、女性も現在バレエ団を主宰しており、当時若手のトップダンサー・舞踊家たちであった。
 一行は、8月21日、羽田を出発。最初に向かったのがアフガニスタンであった。アフガニスタンは、首都カブールで行なわれた建国50周年記念祭への出演であった。
 アフガニスタンでの演目は、第1部、傘踊り、南部牛追唄、綾子舞、鬼剣舞、津軽三味線などの小品集。第2部は、「八岐大蛇」である。
 アフガニスタンの国民にとって、日本文化に接するのは初めてであったろう。特に「八岐大蛇」はヤンヤヤンヤの大喝采で、満員の会場が総立ちになり、何回もアンコールを要求した。
 アフガンでは、国王が臨席した建国50周年の祝典他、日本大使館でジャパンデーレセプションが行なわれた。その中で、特に着物姿の女性は人気の的で、国王から第3夫人にならないかと声をかけられたほどであった。
 ところが、その夜とんでもない事が起こった。突然にお腹が痛み出して、吐いたのである。次の日も公演があるというのに食中毒である。
 どうやらレセプションで出た刺身やエビの天ぷらが原因らしい。限られた人数である。代役がきかない。
 最初に症状が現れたのは修平であった。修平は、真夜中に薬局を探し、処方してもらい大事に至らなかった。
 続いて福田先生である。福田先生は七転八倒の苦しみであったが、大使のお嬢様が介護してくれたお陰で、何とか事なきを得た。
 続いて症状が出たのが五条先生である。五条先生は何と公演の真っ最中に高い熱を出してしまった。
 それも「八岐大蛇」の舞台で、須佐之男命が大蛇を退治する、一番盛り上がる大場面である。
 五条先生が須佐之男命をやっており、須佐之男命の面を被っての演技である。ところが大蛇の中に入っている修平と五条先生の須佐之男命が絡まない。須佐之男命は今にも倒れそうである。
 そんなことがありながらも何とかやり終えた。
 五条先生の須佐之男命は面を被っていたので素顔が見えなかったからよかったものの、素顔が見える踊りであったらどうなったろうと、冷や汗ものであった。
 食中毒になったのはみんな踊りの連中である。
 が、酒の強い江崎先生だけは食中毒にならなかった。やっぱりアルコールで消毒したのが良かったかと、無事に舞台が終わったあとの、笑い話となった。
 そして、イランのシラーズ音楽祭、トルコのイスタンブール、アンカラと廻り帰国した。いずれも熱狂的な反応であった。
 第3回目の海外公演は昭和44年(一九六九)であった。
 行き先は、ソ連及びチェコスロバキア、ユーゴスラビヤ、ポーランド、ブルガリアと、ソ連・東欧の5ヵ国である。
 このときはカナダ、アメリカ、メキシコを廻った第1回海外公演とそう変わらない32名の大所帯で構成した。
 そもそも、日本民族舞踊団をつくるきっかけは、ソ連のモエセーエフ・バレエ団や、ポーランドのマゾフシュェ民族舞踊団の来日公演であった。
 いってみれば民族舞踊芸術の本場に行くようなものである。
 そのために団長は、オペラの演出家・振付師として国際的にも名が知られている青山圭男であった。
 演目は、第1回公演をほぼ踏襲し、第1部小品集、第2部「八岐大蛇」、第3部「農民の祈り」であった。
 一行は、昭和44年2月13日、羽田を出発。ソ連のレニングラード、リガ、モスクワ。ポーランドのワルシャワ、クラコフ。チェコスロバキヤのプラハ、ブラチスラバ。ハンガリーのブタペスト、シケシフルバード。ユーゴスラビアのベオグラード、スコピエ。ブルガリアのソフィアと、ソ連・東欧の主要都市を廻った。
 ソ連・東欧圏でも一番の人気は「八岐大蛇」で、続いて第3部「農民の祈り」の中の「津軽荒馬」であった。
 これは、津軽の今別町に伝わる民俗芸能で、馬を模した衣装を身に付けた男性と、馬の手綱取りの女性がペアになって踊るもので、テンポが速くリズミカルなうえにコミカルな踊りで、コサックダンスにも似ていた。
 この「津軽荒馬」の舞台になると、観客は熱狂的に手拍子を打ち、なかなか止まらなかった。
 その様子を、2月28日付けのタス通信は、
 「日本の民族舞踊団『オドリ』は、レニンフラード・リガでの公演のあと、モスクワの最高のコンサートホールであるところのチャイコフスキーホールで、その芸術を抜露した。
 これは、両国の舞踊家間の発展しつつある結びつきを新たに例証するものである。
 バレエ『マリモ』には、ソ連の踊り手が参加したし、最近はマイヤ・プリセッカヤが東京で公演した。
 『オドリ』のプログラムは様々なテーマを民謡の精神で興味深く解釈しているという点で見る者をひきつける。
 面をかぶった踊り、『ヤマタのオロチ』の舞台、田植、収穫の踊り等が特に成功であった。舞踊専門家は『オドリ』の出演者の高い技術と、そのスタイルに複雑さを指摘している...」
と報じた。
 キャストは皆、自分の仕事を持ちながらの練習であった。修平も、谷桃子バレエ団の全国労音(全国勤労者音楽協議会)の公演や、他のバレエ団に、客演として出演していた。
 昭和40年(一九六五)3月、日本民族舞踊団の試演会が行われた。
 この試演会での指摘をもとに、さらに内容を練り直すと共に、演技に磨きをかけ、翌昭和41年(一九六六)3月、国立教育会館虎ノ門ホールで、正式な国内第1回発表会を行った。
 演目は、Aプログラムと、Bプログラムがあり、Aプログラムは、第1部小品集で、花笠と棒踊、民謡・津軽唄、鬼剣舞、津軽三味線、荒馬などであった。
 花笠は山形県の花笠踊りであり、棒踊は鹿児島県など九州に伝わる民俗芸能、鬼剣舞は岩手県、荒馬は青森県に伝わる民俗芸能である。
 また、津軽三味線及び津軽山唄は、もちろん青森県の民謡である。
 修平はこのうち、花笠と棒踊、鬼剣舞、荒馬を踊った。
 津軽三味線と津軽民謡は代替ができないから、津軽三味線は木田林松栄、津軽民謡は浅利みきであった。
 第2部は、広島県の八岐大蛇である。修平は大蛇の中に入っての、大変な重労働の演技であった。
 第3部は、「稲のまつり」。
これは、田植えから収穫までの舞踊構成劇である。
 修平はこの中で、 大きな傘を持って踊る鳥取県の傘踊りなどを踊った。
 そして、Bプログラムの第1部は、二つの地方の踊りとして、新潟県の猩々舞、佐賀県の荒踊など。修平は、猩々舞と荒踊を踊った。
 第2部は、岩戸開き(石見神楽)で、島根県に伝わる天照大神の岩戸開きの話で、修平は須佐之男命を踊った。
 第3部は、小品集で、宮崎県の泰平踊、宮城県の鹿踊、岩手県の念仏剣舞などであった。
 まさに、日本の民俗芸能のオンパレードである。
 この時代、前述したように、わらび座や花柳徳兵衛舞踊団などが、民俗舞踊を取り入れていたが、民俗舞踊の昇華という点では、日本民族舞踊団は、日本トップの民俗芸能団になっていた。
 修平は、バレエと全く正反対の民俗芸能をこなせたのは、一にも二にも、花柳寿美に入門し学んだから他ならない。バレエダンサーで日本舞踊を学んだのは修平だけである。
 しかしこの程度では、日本の民俗芸能として外国に紹介するにはまだ不足であると、さらに1年間研究を重ね、昭和42年(一九六七)3月、国立劇場において2回目の国内発表会を行った。
 こうして同年7月、カナダ・モントリオールで行われた万国博覧会に、外務省派遣文化施設団日本民族舞踊団として、初めての海外公演を行うことになった。
 7月7日、藤原歌劇団で演出をしていた、演出の青山圭男他、一行38名が羽田を出発した。
 モントリオールの万博では、ジャパンデーを中心に、ボートヤール劇場、民族広場ステージなどで公演を行った。
 初めての民俗芸能の海外公演である。一行には果たして欧米人にわかるだろうかと少々の不安があった。が、終わってみると、拍手が鳴り止まないほどの大喝采であった。
 みんな、フィナーレで頭を下げながら、「やった!やったぞ!!」と、心の中で叫んでいた。
 特に、スペクタクルな八岐大蛇には驚嘆したようであった。また、版画を思わせる優雅な綾子舞や、欧米人にはジャズにも似た野性味溢れる津軽三味線のリズムには、ブラボーの声がかかるほど会場が盛り上がっていた。
 この公演中、修平は同じ踊り仲間であるモダンダンスの泉勝志と友だちになった。公演が終わった翌日、休みだったので、泉と二人でモントリオールの街に出た。
 修平は、矢吹社長の会社にいたとき、お客が米軍の軍人だったので英語を勉強した。その英語が、カナダで役立った。
 デパートの店員に声をかけたら、「いいわよ、明日休みだから、モントリオールを案内してあげる」と約束してくれた。
 翌日、修平と泉の二人は、美人のデパート店員に市内を案内してもらった。初めての異国での楽しいひと時であった。
 日本民族舞踊団の一行は、カナダ公演のあと、その足でアメリカ・ワシントン、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンジェルス。さらにメキシコに飛び、メキシコシティで公演。都合41回公演を行い、8月29日に羽田に帰ってきた。
 この海外公演は、というより日本民族舞踊団に参加したことは、修平にとって、ダンサーとしてその後の活動に大きなプラスとなった。
 その一つは、民族舞踊をやったことによって、修平の芸域が広がると共に、海外公演は舞踊家としての視野を広げてくれた。
 二つには、日本民族舞踊団に参加したことによって、修平のダンサーとしての名声が高まり、舞台の数が大幅に増えただけではなく、ソリストとして認められたことである。
 ちょっと話が後に戻るが昭和40年、服部先生と島田先生が、弟子を3人連れてフランスに渡った。その間服部・島田バレエ団は休団となったが、バレエ団の付属研究所まで閉鎖するわけにはいかなかった。
 そこで、研究所は修平を含め、残った3人で教えることになった。その中で修平は、フランスの島田先生との連絡係りになっていた。
 昭和40年代の前期は、修平にとっては、付属研究所の後進の指導、民族舞踊団の練習、そして他団体への出演と多忙を究めた、充実した時期であった。

 昭和37年(一九六二)、外国から日本の民族舞踊を紹介して欲しいとの要望のもと、文部省の助成で、国際芸術センターが発足した。
 当時、ソ連のモエセーエフ・バレエ団、ポーランドのマゾフシュェ民族舞踊団などが来日。各国の民族舞踊を披露。その素晴らしさに、民族舞踊を見直す機運が高まっていた。
 国内では、原太郎が民族舞踊を中心とした歌舞団わらび座を結成。日本舞踊の花柳徳兵衛舞踊団や黛舞踊団などが、その演目の中に民族舞踊を取り入れていた。
 昭和38年(一九六三)、舞踊家、音楽家、舞台美術家、演出家、学者等150人からなる制作委員会が、国際芸術センターの中に発足。日本各地に伝わる民俗芸能を、舞台芸術まで昇華させ世界の人々に鑑賞していただこうと日本民族舞踊団が結成された。
 その日本民族舞踊団に応募しませんかという案内が修平のもとに届いた。
 修平はその頃は、NHKや他バレエ団に客演として出るなど、バレエダンサーとして名が知られるようになっていた。
 そんなことから修平にも案内が届いたのであろう。
 修平は、これは舞踊家としては成長するチャンスだと思った。
 修平は服部先生、島田先生に相談した。
 「こんな案内状が来ていますけれど、私はできればやってみたいと思っています。お許しいただけないでしょうか」
 島田先生は、
 「君がやってみたいならやってみれば」と快く承諾してくれた。
 その第1回目の集まりの日に行くと、驚いたことに、バレエ団は、谷桃子バレエ団、松山バレエ団、東京シティバレエ団他、モダンバレエや日本舞踊など80人くらい集まっていた。
 民俗舞踊であれば、各地に伝わる民俗舞踊の踊り手たちを集めればいいようなものであるが、地域のひとたちは、自分のところに伝わる踊りしか踊れない。
 公演となると、小人数であるから、全員が全ての踊りを踊らなければならない。だから体力も必要だ。鍛えた身体でなければならない。それと同時に、民俗の泥臭さを残しながらも、それを芸術の域まで高めて行かなければならない。やはりプロでなければできない仕事である。
 しかし、それをバレエダンサーだけで踊ると、バレエ的民俗舞踊になり、日本舞踊の踊り手だけだと、日本の踊りだから民俗舞踊に一番近いが、どうしても日本舞踊的な民俗舞踊になってしまう。モダンバレエにしても同じである。
 これは、日本の舞踊史上初めてであるが、バレエ、モダンダンス、日本舞踊の踊り手たちが一同に集められた、新しい芸術創造一つの試みでもあった。
 民俗舞踊は、青森県の「荒馬」や岩手県の「鬼剣舞」、鳥取県の「傘踊り」、広島県の「八岐大蛇」など、制作委員会によってあらかじめ決められていた。
 それを取材に行かされた。
修平たちのグループが担当したのは、岩手県の鬼剣舞であった。
 鬼剣舞は、岩手県北上地方に伝わる民俗舞踊で、大地を踏み、悪魔を踏み鎮め、場の気を整えて清浄にするという、鬼の面を被り、剣を持ち踊る勇壮な踊りである。
 修平が、「鬼剣舞を習いに来ました。教えてください」と、行くと、
 「まあ、よぐ来たごど。そったらかたいごどいわず、まあ座れや。まず一杯」といってどぶろくを出された。
 こうして、一週間ほど泊り込んで、教わっては酒を飲み、飲んでは教わり、地元人たちとすっかり仲良しになり、鬼剣舞を教わった。
 それを、録音テープに取り、写真に撮り、何より踊り手は、踊りを身体で覚えた。
 東京に帰り、それぞれが取材して来たものを整理し、それを構成し、舞台用の踊りとして仕上げて行くのである。

 しかし、バレエと民俗舞踊ではどうも勝手が違う。バレエは上に伸びるのに対して、日本の踊りは腰を下にどっしり落として踊るのである。
 そこで修平は、日本の踊りの基礎を学ぶために、日本舞踊の家元である花柳寿美先生に入門した。
 こうして3年間、日本の踊りを基礎を学びながら、厳しい訓練を経て演目の一つ一つを身に付けていった。
 そして、、ナント花柳寿美先生の日本舞踊公演、国立劇場での『千姫』に、バレエダンサーではなく、日本舞踊家として出演させてくれたのである。

notoshuhei3.jpg 昭和36年(一九六一)、服部・島田バレエ団に入って8年、修平もプロのダンサーとして認められ、舞台の数も増え、何とかバレエだけで食っていけるようになっていた。
 三本木を出るとき、父が見つけてくれた仕事を断わって東京に出てきた。以来、勘当同然となり、父とは疎遠になっていた。
 自分のやっていることを観ていただくことで、父の勘当を解いてもらおうと、父をNHK放送センター101スタジオに呼び、テレビ収録の様子を見てもらうことにした。演目は、ベートーベンの『交響曲第八番』である。
 そして、楽屋を訪ねて来た父と、三本木を出て以来9年ぶりに会った。すでに還暦を過ぎていた父の体は心なしか小さく見えた。
 修平は、父が見つけてくれた仕事を断わったことをわびると共に、今、こうしてテレビにも出られるようになったと報告した。
 父は、何も言わなかったが、良かった、良かったと、喜んでいる気持ちが、修平にビンビン伝わってきた。
 舞台の幕が上がった。初めて見るカラーテレビである。父は楽屋のテレビで修平の活躍を観ていた。
 舞台が終わったあと、父と二人で日比谷公園に行き、家のこと、兄弟たちの様子など語り合った。
 三本木に帰った父はその後、修平の出るテレビは必ず見ると共に、雑誌などに修平が載っているとそれを切り取り壁に貼っておくなど、修平の一番の理解者になった。

 稽古は厳しかった。が、俺はプロになるんだ。これくらいはなんだと自分にいい聞かせながら、昼はアルバイト、夜は稽古にと励んだ。
 こうして修平(以後芸名である野呂修平とする)は、服部・島田バレエ団に入団して2年目の、昭和31年(一九五六)に、『令嬢ジュリー』で初舞台を踏んだ。
 『令嬢ジュリー』は、伯爵令嬢ジュリーと、伯爵家の下男ジャンとの身分を越えた恋の物語で、オペラや演劇でも上演されている名作である。
 これを、服部・島田バレエ団は、島田廣の振り付けで上演。主役のジュリーは、服部智恵子の娘の笹田繁子、下男役は島田廣であった。
 島田廣先生は、修平がヴァイオリンをやっていたことを知っていたので、踊りがなかったものの、修平に主役の二人踊りの後ろで、オーケストラに合わせてバイオリンを弾く農夫の役を与えてくれた。
 舞台は、高校のころから演劇をやっていたということもあり、あがることはなかったが、夢の中にでもいるような感じで、夢中で舞台に立った。ともかくも、こうして記念となる初舞台を踏んだ。
 このとき踊りはなかったものの、入団してわずか2年で初舞台を踏めたことは幸運であった。
 この『令嬢ジュリー』は文部省の芸術祭奨励賞を受賞した。
 これを機会に舞台が増えた。と同時に、稽古量も増えた。が、もちろん舞台だけでは食えるわけもなく、相も変わらずアルバイトをしながらの稽古であった。
 あるとき、お腹が空いて、部屋でぶっ倒れてしまった。
 そのときは、間近に舞台があり、稽古は朝から晩までぶっ通しで、アルバイトができないときであった。全くの無収入である。そのために何日かご飯もロクに食べていなかった。
 修平は、三本木にいる長兄の持に、「シゲオタオレタ、カネモッテスグキテクレ」と電報を打った。
 兄は、何事かと心配して、金を持ってすぐ飛んできてくれた。
 あり難かった。兄にようやく自分も舞台に出られるようになった。今はバレエだけで食えるまでになっていないが、必ずバレエで成功してみせると、事情を説明した。
 兄は、ウン、ウンと聞いているだけで、修平にやめろとか、うるさいことはいわず、金だけ渡してくれた。
 そして歌舞伎町に行き、二人で豚カツを食べ、兄はそのまま三本木に帰った。
 修平は、なおさら頑張って早く一人前にならなければと、決意を新たにした。
 昭和35年(一九六〇)9月10日、アメリカ、キューバに次いで世界3番目のカラーテレビ放送が、NHKで始まったが、それに先立って、5月2日にカラーテレビの実験放送の収録が行われた。
 その最初のカラーテレビ放送に、バレエ界から選ばれたのが、服部・島田バレエ団であった。
 昭和35年というと、日本の歴史始まって以来の、全国民を巻き込み、数十万人が国会を取り囲んだ安保反対闘争のあった年である。しかし、6月の批准と共に、運動が下火となり、平穏を取り戻していた。
 安保で倒れた岸(信介)内閣に代わって、池田隼人が所得倍増政策をひっさげて登場した。政治的には、ここから日本の高度経済成長が始まった。
 服部・島田バレエ団は、初のカラーテレビ番組「バレエの夕べ」の『くるみ割り人形』に出るということで、数ヶ月前から練習に厳しさを増していた。
 『くるみ割り人形』は、第3幕の「お菓子の国」であったが、修平には、ロシアの民族舞踊「トレパック」の役が与えられた。
 舞台は成功裏に終わり、修平はこのときNHKから、出演料として500円をもらった。
 出演料としてもらったのは初めてである。修平は、ダンサーとして、ひとに認められたことを実感し、俺もプロのダンサーになったんだ。よし、これから頑張るぞと決意を新たにした。
 人生は努力だけではない。運も大きく左右する。
 高校を卒業して、矢吹社長の会社に入って、その矢吹社長と、服部・島田バレエ団の島田廣が友だちであった。それがひとつのきっかけとなって、日本のトップバレエ団である服部・島田バレエ団に入ることになった。
 服部・島田バレエ団でなく、他のバレエ団であれば テレビに出ることもなかったのであろう。そういう点では修平は運に恵まれていた。あとは努力である。
 NHKテレビに出たのを機会に、舞台の出演が急速に増えてきた。
 昭和35年5月2日に、やはりNHKテレビの、服部・島田バレエ団とヨネヤマママコと共演の『不思議なパック』。同30日、NHK芸術劇『美しき青きドナウ』。
 10月9日には、初めて他のバレエ団であるユニークバレエ団に招かれ、CBCテレビ(中部日本放送)の芸術祭参加作品『絶望のそばを突っ走れ』に出演した。このときは、3500円というこれまでの最高額の出演料をもらった。
 実は、このCBCテレビへの出演は、団の先輩に誘われ、島田先生には内緒での出演であった。それがテレビあるからすぐばれてしまった。帰ると、
 「何で黙って、よそのバレエ団に出演した。お前たちみたいな未熟者が他の舞台に立つと、何だ服部・島田バレエ団はこの程度かと、服部・島田バレエ団が馬鹿にされることになるんだぞ。バカヤロウ、今後一切俺の許可なしに、他のバレエ団に出てはならん」とこっぴどく怒られ、「申し訳ありませんでした。わかりました」と全員で先生に謝罪した。
 それがプロの世界である。修平は、自分の未熟さを恥じた。
 そして同26日、NHKテレビ「今宵楽しく」で、ニューヨーク・シティ・バレエ団で活躍したロイ・トバイアス振り付けの『卒業舞踏会』。
 同27日、やはりユニークバレエに招かれ、KRテレビ(現TBSテレビ)西武プレゼント劇場『ブルースーツ』。同30日、NHKテレビ芸術劇場、各バレエ団合同出演の『不死鳥』。
 11月2日、産経ホールでの二期会オペラ『ニュールンベルグの名歌手』。これも出演料をNHKの5倍の5000円をもらった。
 同9日、NHKテレビ「今宵楽しく」で、ユニークバレエ団に招かれ『タンゴファンタジー』。
 同18日、産経ホールで澤バレエ団に招かれ『ダフニスとクロエ』に出演。このときも出演料4000円もらった。
 同25、26の両日、NHKオペラの夕べで、二期会の歌劇、シェイクスピアの喜劇『ヴィンサーの陽気な女房たち』など、この年だけで14ステージに出演した。
 しかし、島田先生からは、プロとして他団体への出演の許可は出ていなかった。


 

 「一期一会」、あるいは「人生は選択の連続である」という言葉がある。
 高校を卒業したとき、大学には行けないとわかり、たまたま学校に来た矢吹社長に会い、矢吹社長の会社に入った。
 このとき、父親が探してくれた三沢の会社に入ったなら、現在の野呂修平はなかったであろう。
 また、矢吹社長が、服部・島田バレエ団の服部さんらと友人であったことが、バレエの道に入るきっかけとなった。まさに一期一会であった。
 バレエの魅力に取り付かれた繁雄は、会社の先輩に「バレエをやりたいがどうしたらいいだろう」と相談した。
 気の早い先輩が、じゃ芸名をつけようと、二人で考えたのが「野呂修平」であった。このときの芸名野呂修平が現在まで続いている。
 そうこうしているうちに、繁雄と先輩の二人に、愛知県の小牧基地に行けという転勤命令が下された。
 が、繁雄の、バレエをやりたいという気持ちはおさまらず、休みの日に名古屋市内のバレエ教室を探し、そこでレッスンを受けることにした。
 バレエを知れば知るほど、バレエに対する気持ちが高まってきた。本格的にバレエをやるには地方では駄目だ。やっぱり服部・島田バレエ団に入るしかないと、翌昭和29年(一九五四)の秋に、繁雄は会社をやめ東京に戻ってきた。
 繁雄は、服部・島田バレエ団とそう遠くない、代々木八幡宮近くに、三畳一間のアパートを借りた。
 そして、まず食わなければならない。アルバイトを探した。アルバイトはすぐ見つかった。洗濯屋のアイロンがけの仕事である。
 仕事場は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)本部が置かれている、丸の内の第一生命会館である。ここで、兵士や下士官の上着や下着などを洗濯したものにアイロンをかけるのである。
 周りは、アルバイト以外は皆外人ばかり。このとき、前の会社で覚えた英語が役立ち、重宝された。
 こうして、部屋とアルバイトを見つけ、この年の12月に、服部・島田バレエ団に入団した。
 しかし、繁雄はそのときは、バレエの舞台に魅せられただけで、服部・島田バレエ団が、どんなバレエ団かはよく知らなかった。
 服部・島田バエレ団を率いる服部智恵子は、明治41年(一九〇八)、帝政ロシア時代のウラジオストクで、貿易商の家庭に生まれた。最初は社交ダンスをやっていたが、バレエに魅せられ、ロシア帝室バレエ学校出身のリュージンスキーの門下となった。
 ところがロシア革命が勃発。服部家は全財産を没収されると同時に、父も病に倒れた。
 大正14年(一九二五)、すべてを失った一家は、失意のうちに日本に引き揚げてきた。
 やがて、日本では唯一のバレエ団であった、エリアナ・パヴロワの率いるバレエ団に入団。日本語があまりうまくなかったエリアナ・パヴロワの補佐をした。
 エリアナ・パヴロワは、ロシアの貴族の家に生まれたが、やはりロシア革命から逃れ、母・妹と共に、大正9年(一九二〇)に日本に入国。昭和2年(一九二七)に鎌倉七里ガ浜に日本初のバレエの稽古場を開設した。エリアナ・パヴロワは昭和12年(一九三七)に日本に帰化したが、この七里ガ浜が、日本のバレエの発祥の地とされ、記念碑が建てられている。
 エリアナ・パヴロワの直弟子には、戦後日本のバレエの重鎮、東勇作、橘秋子、間瀬玉子、間瀬楽子、貝谷八重子、近藤玲子、島田廣などがいる。
 昭和18年(一九四三)、服部は、同じエリアナ・パヴロワの門下生だった島田廣と共に服部・島田バレエ団を設立した。
 服部は、ロシア語が堪能だったことから、昭和31年(一九五六)、当時の鳩山一郎の秘書として、日ソ国交回復調印式に随行。そのとき、ボリショイ・バレエ団の来日公演実現に尽力した。
 昭和49年(一九七四)、日本バレエ協会が法人化されると共に、服部智恵子は推されて初代会長に就任している。
 繁雄は、その服部・島田バレエ団に入ったのである。
 服部智恵子、島田廣らが、日本バレエ界の第1世代だとすると、野呂修平は第2世代ということになる。
 繁雄は、昼はアルバイトを、夜に代々木上原にある稽古場に通った。
 稽古は厳しかった。しかし、体力には高校時代鍛えたおかげで自信があった。
 服部・島田バレエ団付属バレエ研究所には、歌手の森山良子や、女優の栗原小巻、ミュージカル女優の木の実ナナ、指揮者の井上道義、現在フランス在住のバレエ指導者工藤大弐などがいた。
 こうして、初舞台を踏む昭和31年(一九五六)まで、昼はアルバイト、夜は稽古の生活が始まった。
 アルバイトも、アイロンがけだけでなく、保険の外交や、宝石の訪問販売、新聞配達、ビルの清掃、高層ビルの窓拭き、映画のエキストラなどを行った。
 映画のエキストラに行ったときである。
 見覚えのある顔がいた。
 「オイ、附田じゃないか」
 「オオ、本間か。久しぶりだな。元気か」
 と、手を取り合い、高校を卒業して以来、久しぶりの再会を喜んだ。
 高校時代、演劇部で活躍した二人。附田は、日大芸術学部の映画学科に入っていた。附田は、映画の仕事を知りたい、少しでも近づきたいと、エキストラに登録していたのである。
 このエキストラは、エキストラ専門の会社があり、各映画会社と契約し、群集シーンなど、映画会社の要望に応じて、派遣する会社である。
 同じ芸術分野で活躍する二人。その後、『竹取物語』や『棟方志功‐わだばゴッホになるじゃ』等、舞台のシナリオを書いてもらうなど、現在まで付き合っている。

 

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