野呂修平バレエ一筋55年

 テレビでは力道山が活躍していた。
 昭和28年2月、NHK東京放送局によって日本初のテレビ放送が開始された。
 その翌昭和29年(一九五四)からプロレスがテレビ放映され、そのヒーローとなったのが力道山である。
 テレビはまだ一般家庭には普及されていなかったが、電気屋などの店頭ではテレビが放映され、プロレスが始まる夕方になると、電気屋の店頭は黒山の人だかりになった。
 力道山が宿敵であるシャープ兄弟を空手チョップでやっつけると、「ウオーッ、やった。行け、力道山!やっつけろ!!」などと、店頭に集まった人々は興奮のるつぼと化した。
 力道山は、戦争に負け、アメリカに劣等感を感じていた日本人の心を鼓舞した。
 そして帰りは、赤ちょうちんで一杯やりながら、力道山の話で盛り上がった。
 戦争が終わって約10年、日本は焼け野が原から復興し、経済が高度成長に向かうその前夜であった。
 繁雄は、矢吹社長が経営する貿易会社に入り、社長の家に住み込みで働いていた。社長の家は、新宿の山の手といわれる落合の一等地にあった。
 会社は、西武新宿線、新宿から3つ目の中井駅を降りてすぐのところにあった。
 貿易会社といっても、社員は20名ほどの小さな会社で、米軍の、立川基地、横田基地、ジョンソン基地(現入間基地)、そしてちょっと離れるが、愛知県の小牧基地と、基地内に売店を持っていた。
 勿論、相手は米軍とその家族である。だから英語が話せなければならなかった。
 入社し、制服となる背広とYシャツ、ネクタイが支給され、繁雄は、立川基地に配属された。
 そこで、先輩の後藤さんは、流暢が英語で話し、アメリカの婦人たちに品物を売りさばく。
 繁雄には、何を話しているのかまるでチンプンカンプンである。
 初めて近くで見るアメリカ女性にも圧倒されたが、それ以上にそんなアメリカ女性に臆することもなく、流暢な英語で話し、品物を売る後藤先輩はすごいと思った。
 繁雄は、同じ入社同期の白川君と、津田英語塾に通い英語を勉強した。
 その英語の先生が、後でわかったことだが、後に第2次鳩山内閣で郵政大臣として入閣した松田竹千代代議士の奥さんであった。
 繁雄と白川は、たまに塾をさぼり、神宮の聖徳記念絵画館付近で、時間をつぶして帰った。
 翌日、社長に呼ばれて、お前たちは昨日塾をサボったなと、こっぴどく怒られた。
 そこで初めて、塾の松田先生は、松田竹千代代議士の奥さんで、矢吹社長と懇意にしていることがわかった。
 これだと、塾をサボるとすぐ社長に通報される。以後、真面目に勉強した。 
 やがて、仕事にも慣れると、休みの日は、新宿に出かけ、喫茶店で時間を過ごす日が多くなった。
 行きつけの喫茶店は「らんぶる」といい、ここでクラシック音楽を聴くのが楽しみであった。
 しばらくして、生活にも余裕が出てきたので、手廻しの蓄音機を買い、レコードを買って、仕事が終わると自分の部屋で聴いた。
 最初に買ったレコードは、ベートーベンの『ヴァイオリン協奏曲』であった。
 これらクラシック音楽は、繁雄が後にバレエをやる音楽的な基礎となる素養を身につけさせた。
 夢中で仕事をし、仕事にも東京にも慣れたころ、高校時代の友人である杉本順二君から、婚約発表のパーティーをやるからという案内状が届いた。
 20歳にもなるかならない若さで早いなと思ったが、相手は、高校時代の男子生徒のマドンナで、繁雄も憧れていた同級生の女性である。これは何がなんでも行かなければならぬと、会社から休みをもらい帰郷した。
 パーティーには、友人である高橋康男君や、伊藤文雄君、杉沢敬三君など同級生も参加していたが、杉本君と婚約した女性は、高校時代に増して綺麗になっていた。
 ともかくも、杉本君の婚約を祝い、同級生たちと旧交を暖め、その日の夜行で帰京した。
 帰りの汽車の中で、高校時代の想い出がよみがえってきた。
 繁雄が上京するとき彼女が、東京に行っても頑張ってねと、古の言葉を贈ってくれた。
 それには、
 「怠らず行かば千里のはても見ん 牛の歩みのよし遅くとも 」という道歌が書かれてあった。
 繁雄は、それを座右の銘とし大事にしていた。
 あの女性が順二君の嫁さんかと、心の中では祝う気持ちと、寂しい気持ちが複雑に交差した。
 そんなことを思いながら、一睡も出来ぬうち上野に着いた。
 ある日の夕方、気品のある婦人と、モダンで垢抜けした紳士が、社長を車で迎えにきた。
 その夫人こそが、繁雄が後に入団することになる第二次世界大戦前からバレエ界で活躍し、後に日本バレエ協会の初代会長に就任することになる、日本バレエ界の中心的存在であった服部智恵子であり、紳士はその夫で、やはり後に新国立劇場舞踊部門初代芸術監督などを務めることになる島田廣であった。
 繁雄はそのときは、格好のいいカップルだなとしか思わなかったが、この出会いはその後の繁雄の人生を変える、まさに運命の出会いであった。
 実は、服部智恵子の娘と、松田竹千代の娘が友だちで、一方、松田竹千代と矢吹社長が友人であった。そんなことから、バレエ公演の誘いに来たのであった。
 バレエというと、高校時代に松島トモ子のバレエを観て、その美しい舞台に魅せられことがあった。
 それから数週間して、例の服部・島田バレエ団の公演があることを知り、観るに行った。
 本格的なバレエを観るのは初めてであったが、そこには、音楽や演劇他、ジャンプや回転などの躍動感ある動き、そして美術と、繁雄が高校時代にやってきたことが全部含まれていた。
 繁雄はいっぺんにバレエの虜になった。

 本州の最北端にある青森県。そのど真ん中に奥羽山脈が横たわり、奥羽山脈の東側、つまり太平洋岸を一般的に南部。西側、日本海側を津軽といっている。
 これは、明治維新以前の幕藩体制、津軽藩と南部藩の名残である。
 しかし、津軽と南部は気候風土が違い、言葉やそこに住む人たちの気質まで違う。
 高校を卒業するとき、進路指導の先生が、津軽では優秀な生徒には県庁や警察に入るよう指導する。
 いわば権力志向である。
 それに対して南部は、首都圏への就職を指導する。
 これは、明治維新のとき、津軽藩は勤皇方につき、南部藩は幕府方について負けたことも影響しているだろうが、100年以上経った今でも、県庁や警察に行くと津軽弁であふれている。
 高校3年になり繁雄は、日体大(日本体育大学)に入り、将来は体育の先生になろうと思い、進学コースに入っていた。
 それが夏頃になり、父が、 「繁雄、お前も大学へ進みたいだろうが、義雄と省三を大学に入れてやりたいと思っている。我が家の経済力では、3人も大学にやる余裕がない。悪いがお前は就職してくれ」といってきた。
 五男の義雄は繁雄と三つ違いで中学3年生、義雄と末っ子の省三は、やはり三つ違いで小学6年生である。
 繁雄は、スポーツ万能で、ヴァイオリンを弾き、歌をうたい、芝居をやっていたが、その分勉強はちょっとおろそかであった。
 それに比べ弟たち二人はいつもクラスで1、2番であった。
 そんな状況をみると、繁雄は行かせて下さいと無理にはいえなかった。
 しようがないかと、繁雄はしぶしぶ承諾し、「わかりました」といった。
 父は、
 「そのかわり、お前の仕事は、俺が責任を持って探す。米軍三沢基地で働きなさい。ここは給料もいいし、将来性もある」といった。
 繁雄は、もし大学にゆけないのであれば、東京に行こうと思い、
 「いや、仕事は自分で探します」と断った。
 繁雄は、これをやりたいというはっきりした目標はなかったが、東京には夢があるような気がした。
 そのことを、先生にいい、進学コースから就職コースに切り替えてもらった。
 昭和28年(一九五三)3月10日、三本木高校の卒業式であった。
 式の途中で先生から、もう一人の生徒と二人、校長室に来いと呼ばれた。
 行くと、50代ぐらいであろうか、背広を着こなした恰幅のいい、会社の社長さんらしい男性がいた。
 就職指導の小笠原先生が、
 「こちらの社長さんは、東京でアートワークスという貿易会社を経営している矢吹社長さんで、本校から社員を採りたいといって、わざわざこうして寄っていただきました。どうだ、行ってみる気がないか」といった。
 「矢吹です。三沢のアメリカの基地にも店があるんですが、青森県人は真面目で、非常に良く働いてくれます。三本木高校の今年度の卒業生から、社員を二人採りたいと思っています」といった。
 講堂からは『蛍の光』が聞こえてくる。
 勿論、就職するつもりではいたが、これまでいいところが見つかっていなかった。
 が、いきなりの面接である。それも卒業式の当日である。貿易会社というだけで、どんな会社かもわからない。どんな仕事をするかもわからない。
 二人は、どきまぎして、返事に困っていると、
 矢吹社長は、机の上にあった書類を指して、
 「これ、読めるかね」といった。
 それは、英語で書かれていた。どうやら、貿易関係の書類らしい。
 二人とも、単語程度はところどころ読めるが、意味はというと全くチンプンカンプンであった。
 社長はいった。
 「ま、読めなくてもいい。君たちは見たところ真面目そうだから、英語は東京に来てから勉強すればいい。先生、二人共真面目そうなので、決めました」といい、繁雄たちに向かって、「よろしくな」といって、有無をいわせず、手を出して握手してきた。
 握手も二人にとっては初めてのことである。
 社長の勢いに押され、二人とも、親に相談することもなく、「あ、は、よろしくお願いします」といった。
 その夜、繁雄は父にそのことを報告し、「東京へ行きます」といった。
 実は、父は繁雄に大学進学を諦めてもらうと同時に、父の上司の紹介で、すでに繁雄の就職先を決めていたのであった。
 父は一言、「困ったな」といい、そっぽを向いてしまった。
 気まずい空気が流れた。が、繁雄の東京へ行くという気持ちはかわらなかった。
 ㈱アートワークスは、貿易会社といっても、米軍基地内のアメリカ向けの売店(PX)を営む会社であった。
 社長は、米軍三沢基地のPXからの帰りに、三本木高校へ立ち寄ったのであった。
 それから一週間後の3月17日、繁雄と、㈱アートワークスに一緒に就職が決まった白川昌幸君は、十和田観光電鉄の三本木駅にいた。
 繁雄たちは、就職組の出発の第一弾であった。
 そんなこともあり駅には、校長先生を始め、担任の長谷川先生や、進路指導の小笠原先生、そして同級生、母、兄弟たちが来ていた。
 が、父は顔を見せなかった。
 出発のベルが鳴った。皆は、「頑張れよ、身体に気をつけろ」、「東京に着いたら住所を教えろよ」など口々に叫び、送ってくれた。
 繁雄と白川は、皆が見えなくなるまで窓から手を振った。
 この電車で三本木に来たのは、昭和21年(一九四六)8月である。それから約7年の三本木での生活であった。
 が、この7年間は、青春時代の最も多感な時期であったということもあり、たくさんの友人が出来、また長谷川先生との出会いは、繁雄の文化的な様々な能力を開花させてくれた地である。
 東京で生まれ、満州に行き、そして三本木で青春時代を過ごしたわけだが、繁雄にとっては、心から思えるふるさとである。
 電車は、三沢駅に着き、ここから国鉄本線で約12時間かけ東京に行く。
 駅には、繁雄たちと同じく、やはり東京への就職であろう。まだ学生服を着た者たちが何人かいた。
 汽車に乗ると、そこには乗客の三分の一を越えるかと思うほど、東京、あるいは東京近郊へ就職する者たちが乗っていた。
 父には、申し訳ないという気持ちを残しながら、昭和28年3月17日、夢と希望、あるいは少々の不安を抱きながら、繁雄はこうして上京した。

 

 高校生活は、繁雄にとって青春そのものであった。
 スポーツは勿論であるが、文化活動も、音楽や演劇、絵画と、雪が溶け、木々がいっせいに芽吹き花を咲かせるように、繁雄にとっては、繁雄のその後につながる花開いた時期でもあった。
 この時期は、日本中がそうであった。
 文化にとっては、まさに冬であった重苦しい軍国主義的な戦争体制から開放され、都市でも農村でも若者たちがいっせいに文化の花を咲かせた時期であった。
 繁雄に、そんな文化の風を吹き込んでくれたのは、音楽の長谷川芳美先生と版画の植田先生であった。
 長谷川先生は、クラシック音楽を聴かせ、声楽やヴァイオリンを教えてくれた。
 クラシック音楽は、『マドンナの首飾り』や『タイスの瞑想曲』、『ヴァイオリン協奏曲』などである。
 これまで、民謡や演歌、浪曲しか聴いたことのなかった繁雄には、夢と創造を膨らますに十分足りる音楽であった。
 植田先生は、絵の構図や色など、絵心を教えてくれた。
 また、学校に石井漠舞踊団が来て公演した。まだ小学生であった松島トモ子の踊りが可愛いく、強烈に心に焼きついた。
 街の映画館では、バレエ映画『赤い靴』をやっていた。
 繁雄はそれらを、乾いた砂が水を吸い込むように、吸い込んだ。
 ただ吸い込んだけでなかった。吸い込んだことを実践する機会もたくさん与えられた。
 三本木町の春祭りである太素祭では、長谷川先生が率いるバンドの一員としてヴァイオリンを担当し演奏した。
 年末のクリスマスには、近くの教会で行われる聖歌隊に駆り出され歌った。
 また、後に松山善三プロダクションを設立し、映画監督となる附田博らと演劇部を立ち上げ、坂田三吉の『王将』をやり、この地域の演劇コンクールで優秀賞を受賞。その凱旋講演を学校の講堂で行い、ヤンヤの喝采を受けた。
 気のいい仲間もたくさんいた。
 先生の息子で演劇を一緒にやった附田博君、高橋うどん屋の高橋康男君、三蔵商店の杉本順二君、むら福菓子店の伊藤文雄君、後に看板屋「杉工房」を立ち上げる杉本敬三君、十和田村から通っている川原清海君らである。
 杉本順二君は、ダンスが得意で、演劇部に入って一緒にやった。
 三本木高校は、もともとは女学校であったということもあり、寮は女子寮しかなく、学校の北側の澄月寺の入り口にあり、男性禁制であった。
 その女子寮に、上級の女生徒に何故か、附田君と繁雄だけが招かれ、炬燵に入りミカンやお菓子などをご馳走になった。
 炬燵の中で女子生徒と手を握ったかどうかは定かではない。
 附田君も繁雄も言葉が標準語で、演劇部で活躍し、ヴァイオリンを弾き、しかもスポーツは万能ときている。女生徒には人気者であった。
 しかし、楽しいことばかりでもなかった。
 開拓に入ったものの、米は獲れず、作付けは、麦やじゃがいも、大豆、菜種などであった。
 幸いに父は塗装の技術を持っていたので、父と三男の義行は、塗装会社に入り、米軍三沢基地で仕事をしていた。長男持は三本木役場に入っていたものの、繁雄をはじめ、五男義雄、六男省三がまだ学校に通っていた。楽な生活ではなかった。
 月末近くになると、弁当には、じゃがいもを擦って搾り、それをフライパンでハンバーガーのように焼いたものが2個入っていた。
 皆はお米の弁当である。繁雄も家の事情は知っている。が、そんな弁当を恥ずかしくて同級生に見られない。繁雄はお昼になると、そっと校庭に出て、隠れるようにして弁当を食っていた。
 形はハンバーグのようであるが、中身は冷めたじゃがいもである。決して美味しいものではなかった。
 昼になると、繁雄が弁当を持ち、教室から逃げるようにして外に出て行く。
 それを察したうどん店の高橋君が、自分も弁当を持ち、繁雄の後を追った。
 繁雄がじゃがいもの弁当を開こうとしていると、後から、
 「俺は今日あまり腹減ってないんだ。これ食じゃ」といって、自分の弁当を差し出した。
 腹が減っていないわけがない。繁雄にはすぐわかった。その友情に感謝して、
 「ありがとう」といって、高橋の手を握り、弁当を受け取った。
 高橋の弁当は、真っ白な米のご飯で、おかずにシャケが入っていた。
 繁雄はその弁当を高橋と半分ずつ食った。
 その時の弁当の美味しかったこと。その味は喜寿を過ぎた今でも忘れない。
 それ以後高橋は、学校の帰りちょくちょく、
 「オイ、ちょっと家に寄って行けヤ」と誘い、夕ご飯を食べさせてくれた。
 また、杉本敬三君も、「オイちょいと寄っていけや」と誘ってくれた。
 そのとき杉本君のお母さん手づくりの、大根をナタで削って、麹と身欠きニシンで漬けた「ガックラン漬け」を食わせてくれた。甘辛いこの味も忘れられない。ふるさとの味である。
 繁雄もそんな友情に甘えてばかりはいなかった。
 春は、山に行ってワラビやゼンマイ、セリなどの山菜を採り、八百屋に持って行くと、結構高く買ってくれた。
 また秋は、山に入りアケビや初茸を採り、やはり八百屋に持って行き、その金で学用品などを買った。
 でも、一番の楽しみは手塚治虫の漫画『ジャングル大帝』を買うことであった。
 開拓集落に入るとりんごを栽培している農家もいた。秋になると、りんごはたわわに実る。そのりんごを一つ、二つ失敬して、丸かじりで食いながら帰ることもあった。
 三本木高校時代の三年間は、長谷川芳美先生との出会いと音楽、演劇、松島トモ子のバレエ、バレエ映画『赤い靴』、スポーツ、そして友情など、後に繁雄がバレエダンサーとなる、基礎的なことをすべて引き出してくれた。
 この三本木高校の三年間がなければ、バレエダンサー野呂修平はなかったであろう。

 三本木に来て1年、繁雄たち本間一家も三本木の生活になれてきた。
 繁雄は、三本木小学校から三本木中学校に進んだ。
 三本木中学校は、小学校よりさらに西へ500㍍ほど行ったところの、街の外れにあった。一本木沢からは遠くなり通学に1時間以上もかかった。校舎は東西に細長く、廊下は100㍍競争できるくらいもあった。それもそのはず、旧軍馬補充部の厩舎、つまり馬小屋を改築したものであった。
 繁雄は、この中学校での思い出は、3年間通ったはずなのに何故かあまり覚えていない。覚えているのは、毎朝、やはり厩舎を改築した体育館で、仲間とバスケットをやったことと、版画の授業だけである。
 繁雄は、三本木中学校から三本木高校に進んだ。
 三本木町は、当時人口2万足らずの小さな町であったが、高校が二つあった。
 一つは、明治31年(一八九八)に開校された歴史ある三本木農業高校。そしてもう一つは繁雄が入った三本木高校(以下三高)である。
 三高は、もともとは女学校であったが、戦後の学制改革で、昭和24年(一九四九)に男女共学の普通高校となった高校である。
 その男女共学となったばかりの三高は、男子より女子生徒の方が多く、学校の東側に女子寮がある、まだ女学校の匂いが抜けきらない高校であった。
 そんな三高に入ってきた男子生徒は、このまちの商家の子息や、親が学校の先生や、役場に勤めているサラリーマンの家庭が多かった。
 馬小屋を改築した中学校とは雲泥の差である。
 女学生といっても、生まれは東北の三本木である。そのほとんどはズーズー弁であった。繁雄は、曲がりなりにも東京生まれである。言葉は、一応標準語である。
 あの人は本間繁雄って、東京から来た人だってよと、女子学生から注目された。
 ちょうどその頃、原節子と池部良主演の『青い山脈』の映画が話題になっていた。
 繁雄にとっては、まさに『青い山脈』で、一気に青春が来たような心持であった。
 ここから、まだ愛までは行かなかったが、スポーツ、文化に打ち込む、繁雄の青春が始まった。
 しかし、子供の多い本間家。生活は決して楽ではなかった。弁当は米の飯ではなく、じゃがいもをすって絞り、それを小麦粉と混ぜ、ハンバーガーにようにフライパンで焼いたものが入っていたときもあった。
 冷めるとモソモソして決して美味しいものではなかった。人に見られないように隠れて食っていると、友だちが「ワの弁当ケ」といって、繁雄にくれたこともあった。
 三高は、小学校のすぐ近くであったから、通学の時間が中学校ときより短くなった。
 繁雄は、靴が買えなかったので高下駄を履き、わざわざガラッ、ガラッと引きずり、音をたてながら登校した。
 またカバンは、商家の子息らは皮の黒カバンだったのに対して、繁雄はさらした帆布の肩掛けのカバンを左肩に掛け、バンカラを気取っていた。
 繁雄たちは、新制の試験を受けて入った男子生徒の第1期生であるが、旧制との関係で2年生に編入された男子生徒たちもいた。
 ということから事実上男子生徒の第2期生となっていた。
 この三高は、もともとは女学校であったから、戦前は男性と話す機会はめったになかった。それが戦後の民主化で、男女平等になったのである。女子学生にとっては、男尊女卑からの開放である。
 三高の全学生は180人ほどであったが、女性と男性の比率は6対4で、圧倒的に女性の方が多かった。
 繁雄たち一つ上の学年に至っては男子生徒は全体で21人しかいなかった。
 高校時代は、1学年違うとずいぶん先輩に見える。2学年も違うものなら、話もできないほどの先輩であった。
 逆に先輩にとっては、新入の男子学生は可愛い後輩である。
 そんな先輩の女子学生に、ひときわ目立つ女子学生がいた。繁雄は、その女性に憧れたが、何も進展のないまま、その先輩は卒業して行った。
 多くの男子学生は、これまで女性と気軽に話したことがない。女性の気勢に押され隅っこで小さくなっている男子生徒もいた。
 男子学生が入ってきたので、新しい部活も出来た。
 繁雄はスポーツが得意であった。
 繁雄がまず入ったのは、中学校のときからやっていたバスケット部である。
 学校の隣りに澄月寺というお寺があった。夏の合宿のときなど、お寺からお盆のお供え物である饅頭などの差し入れがあった。
 繁雄はまた、中学校の時から、毎日1時間以上もかけて通学し、足が鍛えられたということもあったろうが、走ることが得意であった。中学時代からマラソンは負け知らずで、学校のマラソンでは常に第一位。駅伝競走では三高の代表としてアンカーを務めた。
 また、上北郡の青年陸上競技大会の棒高跳びの国体予選で1位になったこともあった。
 そんな繁雄は、母の自慢でもあった。今日はマラソンだというと母は、玄関で「これを飲んで頑張って来い」と、卵を割ってのませた。そのときは必ずといっていいほど校内第一位でゴールできた。
noroshuhei2.jpg 三本木でのでの家族の写真。前列写真左から憲治(小2)、六男省三(小5)、五男義雄(中2)、立っているのは四男繁雄(高2)。中列左より、父甚五郎、持の友人、母ハル、次男博の妻、後列左より、長男持、次男博、三男義行

 繁雄たち本間一家は、東京麻布を出てから、満州一果樹村を経て、ここ青森県三本木町にたどり着いた。満州で戦争に負け、死と隣り合わせしながらも、誰一人欠けることなく、一家は全員無事で、この三本木で再び顔を合わせることができた。
 満州からの帰還中、知っている人たちがたくさん死んだ。運が良かったというほかない。
 三本木に来て、開拓ではあるが自分の土地を持つことができた。寒いといっても、満州と比べたら大したことはない。もう、あっちこっちとは行きたくない。この三本木に落ち着いて、ここを終の棲家にしたいと誰もが思った。
 三本木に来て一段落すると、父や兄たちが仕事を探し、子どもたちは学校に行く準備をした。
 繁雄と弟の義雄は、地元の三本木小学校に入ることになった。
 学校は、町の中心部にあり、この一本木沢から約4㌔、田んぼ道を歩き1時間ほどかかった。
 繁雄は小学校6年に、義雄4年に編入になった。
 繁雄は6年2組であった。学校に行った最初の日、先生が、東京から来た本間繁雄君です。みんな仲良くしてくれと、繁雄を紹介した。
 「本間繁雄です。よろしくお願いします」と頭を下げた。
 すると、
 「おめえ、いいふりこいで、どごの言葉しゃべってんじゃ」と、席の後ろにいた男生徒がいった。
 それに呼応するかのように、もう一人の男生徒が、
 「ほだほだ、東京弁が」といった。
 皆が、ワ、ハハハハハと笑った。
 繁雄は顔を上げて、何か話したその生徒の顔を見た。
 繁雄は、満州から帰るとき、人の死をたくさん見てきているから、怖いものは何もなかった。
 ましてや、腕力なら、同じ年の連中には負けないという自信があった。
 それより困ったのは、二人ともここの言葉、いわゆるズーズー弁である。二人が繁雄に何を話して皆が笑ったのか、わからなかった。
 先生が、「コラッ!騒がしいぞ」といって、
 「本間君の席は、窓際の川村さんの隣りの席だな。川村さん、分からないことがあったら教えやってくれ」といった。
 川村といわれた女の子は、背はあまり大きくないが、オカッパの可愛い子であった。
 また、最初に「おめえ...」といった生徒が、
 「ヒョー、ヒョーいいぞ。お似合いだぞ」と、繁雄を茶化した。
 ともかくも、こうして繁雄は三本木小学校6年2組にの一員となった。
 こんなこともあった。
 体育の時間に、男は外の相撲場で相撲をとらされた。
 相撲は勝ち抜き戦で、繁雄は勝ち進んで、決勝で当たったのは、このクラスの級長であった。
 多くの生徒は、顔が黒く着ているものを見ても、農家の子供だろうとわかったが、級長だけは色が白く、頭がよさそうで、多分給料取りの子供であろうことがわかった。
 一番上の兄の持は、明治神宮で行われた相撲大会で優勝したほど強かったし、家では兄弟で相撲をとっていたというもとあって、技も知っていた。
 そんなこともあって、級長がなんで決勝まで勝ち進んできたのかと思うほど弱く、繁雄は簡単に投げ飛ばしてしまった。
 満州から喰うや食わずの逃避行を続け、三本木に来てからも芋を食っていた繁雄である。背もそんなに大きくもなくガラガラにやせていた。
 級長にしてみれば、都会育ちの、しかもガラガラにやせたやつに負けたとあって、メンツ丸つぶれである。相当悔しかったであろう。
 体育の授業が終わって教室に入ると、級長の子分がまた、「おめえ、何で級長に勝ったんだ。この野郎!!」といって、机のフタで繁雄の頭を叩いた。
 ははー、みんなは級長にわざと負けていたんだとわかった。
 このとき繁雄は何もいわず、頭を叩いたその生徒をにらみ付けた。生徒は後ずさりした。相撲大会で繁雄が強いことがわかっていたから、本当にかかってこられたらかなわないことは知っていた。
 それ以降は、誰も繁雄に対して、あれこれいう者がいなくなった。
 また、こんなこともあった。
 二学期の終わり、冬休みに入る前に、皆に通信簿が配られた。そこで皆が通信簿を見て一喜一憂するわけだが、これまでは級長が一番良かったらしい。
 隣りの席のオカッパの女の子が、
 「本間君のいいでしょう。見せて」といった。
 繁雄は、特別にガリ勉的に勉強をしているわけでもないし、ま、こんなもんだろうと思い見せた。
 すると、女の子は、
 「わーッ、すごい!!本間君が優が七つもある」と叫んだ。
 皆が、どれどれと寄ってきた。
 これも級長のプライドを傷つけたらしい。
 あとでわかったことだが、級長は優が六つしかなかったらしい。繁雄は級長より、優が一つ多かった。
 このときもまた、級長の子分に机のふたで頭を殴られた。が、繁雄は手を出さず、その生徒をにらみつけただけであった。
 冬は大変であった。開拓からの田んぼ道は、朝は道がなくなるのである。
 親たちは、カンジキを履き、道をつけてくれた。
 繁雄も三本木の生活になれたころになると、父と兄の義行は、米軍三沢基地に入っている塗装会社に仕事が決まり、毎日電車で通っていた。
 長男の持は、農業をやるかたわら、東京都開拓団をいろいろと世話をしてくれた、渋沢農場長の水野陳好の計らいで、三本木町役場に入った。
 また、長女以代子の夫も戦地から無事復員し、しばらく二家族が同じ屋根の下で暮らし、一家はにぎやかになった。
 翌年になると、近くの八斗沢という地域の千里平で開拓団の募集があり、三男の博はその開拓に入ることになった。
 また、一人では大変だろうと、嫁を世話してくれる人があり、掘っ立て小屋ながら、博も一家の主となり独立した。
 また、姉の以代子一家も、隣り大三沢町に仕事を見つけ出て行った。
 このころになると、喰うや食わずの生活から、それぞれが仕事につき、生活も安定してきていた。
 しかし、東京からいきなり真冬の青森県である。覚悟はしていたものの、炭倉庫は隙間だらけで、部屋の中まで雪が入ってくる。
 寒くて、とてもここには住めないと、世話をしてくれた三本木農業会会長の水野陳好に話し、三本木農業会の2階に移り住むことになった。
 4月になり、入植地が決まったということで、東京から来た16人は、現地視察に行くことになった。
 場所は、三本木町の北側、渋沢農場の事務所の裏手に当たる一本木沢という地域である。
 ここは、三本木の市街地から意外に近く、平地で、しかも馬の放牧地であったらしく原野であった。
 他の入植地は、木を切った跡で、木株がごろごろしていた。そんな入植地から比べたら天と地ほどの差がある。
 他の入植者は、農家の次三男が多かった。その人たちは、その条件の悪いところに入植させられた。
 それに比べると恵まれた入植地である。
 これは多分、農業もやったことがない東京都開拓団が大変だろうと、東京都開拓団を世話した渋沢農場長で、三本木町農業会の会長であった水野陳好の計らいであったろう。
 その原野を、一人当たり2町5反(2・5㌶)づつ分け与えられた。
 そして家は、払い下げてもらったそれぞれの土地に建てることになった。
 だから、入植する16人は、一ヵ所に集まり集落をつくるのではなく、それぞれ自分の土地にバラバラに建てることになった。
 建物は、旧軍馬補充部の馬小屋を分割して持って来て、それに手を加えたものであった。
 壁は板壁、屋根は杉皮葺き、床は丸太の土台に板を敷いただけである。 
 月日山の炭小屋よりましだが、それでも雨が降るとあっちこっちから雨漏りがした。
 それを見かねた水野は、渋沢農場の山から木を切り出し補強してくれた。
 持は、国営開墾事務所から、馬2頭、牛2頭払い下げてもらった。
 持20歳。こんなあばら家でも、2町5反の土地と、馬2頭、牛2頭の持つ開拓農民の主である。
 あとは家族が来るのを待つだけである。
 繁雄たちは、上野駅から夜行列車に乗ったが、汽車は駅があるごとにすべて停まる鈍行である。走っては停まり、走っては停まりで青森県の古間木駅(現三沢市駅)に着いたのは、午後3時頃であった。上野駅を出てほぼ20時間経っていた。
 そこからまたローカル線十和田鉄道(現十和田観光電鉄)の軽便鉄道に乗り、終点の三本木駅で降りた。
 駅に降りたところに、持が2輪の馬車で、迎えに来ていた。
 母と、姉以代子と赤ん坊は馬車に乗せ、男たちは馬車の後を、これから始まる生活に期待と不安を織り交ぜながら、ただ黙々と歩いた。
 軽便の汽車と平行して流れている川は、澄んでいて
きれいだった。
 これが、後で新渡戸稲造博士の祖父たちが切り開いた稲生川だとわかった。
 三本木から三沢に行く県道から北に折れると、細い馬車道がまっすぐ続いていた。その途中に、繁雄たちがこれから行く開拓地があるという。
 ただだだっ広く、どこか満州にも似ていた。
 西の方を見ると八甲田連峰が見えた。
 1時間ほど歩いたところに、持が東の方を指差し、あれが俺たちの家だといった。
 そこには、畑の中に2間に3間ほどの、小さなあばら家が建っていた。
 どんなあばら家でも、日本に帰ってからの、狭いながらの我が家である。
 長男持、父甚五郎、母ハル、長女以代子とその子供、次男博、三男義行、五男義雄、六男省三、そして四男の繁雄と、一家10人が三度同じ屋根の下で暮らすことになった。
 母は、家に入ると、じゃがいもや、馬の餌として置いてあった豆腐粕(おから)や、食べられるものを探し、料理した。
 なにしろ、上野を出てから一食しか食べていなかった。育ち盛りの子供たちである。みんな腹ペコであった。
 馬の餌の豆腐粕でも、母の手にかかったら一品料理である。
 みんながつがつと美味そうに食っていた。
 しかし、それからが大変であった。
 繁雄たちを一本木沢に世話した水野陳好が、『どろ雛』の中で、東京都開拓団のことを次のように書いている。
 「入植した人々は、どの人々も非常に苦労をしたようです。
 ということは、水田がなく畑だけですから、とうもろこしとか、馬鈴薯とか、大豆とか、そういうものを植えて暮らしておりました。食糧が切迫している頃でしたが、だんだんと雑穀が安く、働いても金にならなかったし、米が不足し、経営が非常に難しかったのです。
 当時の子供さんというのは、大変だったと思うんです。一本木沢小学校でも、その当時の生徒の教育には、非常に努力されたと思います。休む人もあれば、お弁当を持って来ない人もあったろうし、実にその状況はひどかったです。
 藤坂とか、十和田湖町から入ってきた人は、分家ですから、家は割合によかったのです。藤坂なんか大体分家して、家を建ててもらった人もいてよかったけれど、ただ、畑作なので、大豆とか馬鈴薯とか、とうもろこしというような物だけしか作らなかったのですから、生活が非常に苦しかったのです。
 そういうことで、生活面から見た子供たちを、学校で教えることは非常に困難だったろうと私は思うんです」
 この文章を、言葉を変えていうなら、東京都開拓団以外は、地元の農家の次、三男で、分家という形で入植した。そのために家を本家から建ててもらった人もいた。
 しかし、それでも米を作れず、作る作物は安い雑穀ばかりで生活は楽ではなかった。
 東京都開拓団の人たちは、家は軍馬補充部の馬小屋の払い下げ。誰からの援助もない。大変だったろうといっているのである。

 東京都開拓団。青森県三本木町の一本木沢地区に入植した、東京からの開拓団がそう呼ばれた。
 ここ三本木町は、台地であるために、川は30㍍も低いところを流れ、また火山灰土で水がないために、耕作には不適で、わずか馬が自然放牧されていた広大な原野であった。
 それを、安政2年(一八五五)に、新渡戸稲造博士の祖父である新渡戸伝が、十和田湖から流れ出る、この30㍍の落差のある奥入瀬川から、2本の穴堰を掘削し水を引いて開拓した地である。
 三本木台地に水を引いた後、伝の長男である新渡戸十次郎、つまり新渡戸稲造の父が、札幌に先駆けて碁盤の目状の都市計画をつくった。これが発展し三本木町となった。
 東京都開拓団が入った一本木沢地区は、もともとは日本資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一が、唯一所有していた不動産、渋沢農場の一部であった。
 それが終戦で、財閥解体に伴い、開放された土地であった。
 この渋沢農場の農場長をしていたのが、東京大学農学部を卒業して渋沢栄一に仕え、後に三本木市の初代市長・十和田市の名誉市民になる水野陳好であった。
 水野は当時、渋沢農場長の傍ら三本木農業会(農協の前身)の会長をしていた。
 昭和20年(一九四五)11月に、三本木農業会では、食糧増産のために開拓団を募集した。
 本間家の長男の持は、戦争が終わり、10月に復員したものの、親兄弟はまだ満州から帰らず、音信不通のままである。
 持は、とりあえず東京に戻った。が、満州に行くとき家を引き払っていたために、帰る家もなく、親戚の家を居候しながら転々としていた。
 持はもう20歳である。いつまでもこうしてはいられない。何か仕事を見つけなければならない。しかし、手職(技術)のない持には、なかなか仕事が見つからなかった。
 東京に帰って1ヵ月ほど経ったある日、親戚から用事を頼まれ世田谷の区役所に行った。
 そこで、目にとまったのが掲示板であった。
 掲示板には、全国各地の開拓地の紹介と、開拓者の募集要項が貼られていた。
 これだと思った。持は、その一つ一つをむさぼるように読んだ。
 そのほとんどは、来年(S21年)の4月入植とあった。
 が、その中の1ヵ所だけが、12月に行って、その冬は炭焼の手伝いをして、4月に入植させるというのがあった。但し、春の入植までは単身でというのが条件であった。
 それが青森県の三本木町であった。
 青森県の三本木町?、聞いた事もない町であった。青森県か、寒いだろうなと思ったが、満州に比べたら大したことないだろう。この食糧難の時代に、いつまでも親戚の世話になっているわけには行かない。開拓は満州で経験済みである。食えればいい。ともかく東京を出なければならない。そう思い、翌日、早速区役所に行き、開拓希望を申し込んだ。
 11月中旬になり、東京都庁から、開拓合格の通知が届いた。
 出発は、師走も押し迫った12月26日とあった。合格した23人が上野駅に集合した。
 一行は、上野駅から東北本線に乗り、青森県の三本木町を目指した。
 汽車は18時間近くもかかり、ようやく古間木駅(現三沢駅)に着いた。
 雪が降っていた。やはり青森は寒い。
 ここから十和田鉄道(現十和田観光電鉄)の軽便鉄道に乗り換え、終着の三本木駅に着いた。
 その夜は、三本木農業会の事務所の2階に一泊した。
 が、翌日7人が、こんな寒くて、東京から18時間もかかる遠いところでは暮らせませんと、帰ってしまった。
 残ったのは16人のみとなった。 
 メンバーは、16人のうち7人は元将校で、みな大学出である。その他、専門学校や旧制中学を出たひとばっかり。いわばインテリゲンチャである。高等小学校しか出ていなかった持は、ちょっと肩身が狭かった。
 しかし、俺には若さだけがある。子供相撲で誰にも負けたことはない。働くことだったら誰にも負けないという自負があった。
 春までは炭焼の手伝いである。四和という地区の、月日山の麓で、地元の人たちが炭焼をしている。
 炭焼小屋は山の中腹に作られていた。
 この炭焼小屋から、炭俵を2俵背負い、道路のある炭倉庫まで運ぶのが仕事であった。これは持にとっては得意の仕事である。
 力仕事をあまりしたことのないインテリゲンチャたちに、負担のかからない背負いからなどを教えた。本間は若いけれどすごいとほめられた。
 一行は、この炭倉庫の一角で寝泊りした。
 こうして正月を迎え、元旦には、これから大変であろうが、お互いに助け合って頑張ろうと、入植者の一人が持ってきたウィスキーで乾杯した。noroshuuhei1.jpg  写真は、原野を切り開く開墾の様子(『写真集明治・大正・昭和の十和田』より)

 

 コロ島は、2、3万人はいるであろうか。帰還者たちで溢れていた。戦争が終わってすでに1年ほど経っていた。
 これまでたくさんの仲間たちが、餓死や病気、あるいは戦闘に巻き込まれ、目の前で死んでいった。誰もが、死ぬなら日本の土を踏んでから死にたいと思っていた。
 1年経ってようやく帰還船までたどり着いた。日本はもうすぐそこである。
 しかし、すぐ帰還の船に乗船できるわけではない。
 取りあえずは、満鉄の社宅に入れられた。もちろん帰還者たちの乗船までの一時の待機所であるから、他の帰還者たちと一緒である。足を伸ばして寝ることもできない。
 2週間ほどして、ようやく乗船許可が下りた。
 が、病気の者は乗せることが出来ないという。
 病気の者は米軍の病院に連れられて行って殺されたそうだという噂がたった。
 繁雄たち本間一家は、幸いに病気になった者が一人もいなかったので、全員乗船することが出来た。
 帰還の船は貨物船である。帰還者たちは、荷物でも乗せるかのように、一つの船に2000人ほどが詰め込まれた。乗船すると、いい場所を取ろうと我先にと船倉になだれ込んだ。
 船の場所取りが終わると、皆甲板に出た。
 満州での数年間、楽しいこともあった。が、それ以上に苦しいことの方が多かった。
 子供を逃避行の途中で中国人に預けた母親がいた。病気の父を置き去りにした子供がいた。
 夫を亡くした若い未亡人がいた。
 甲板で、子供の名前を呼びながら泣き叫ぶ母親がいた。
 「オトウチャーン」と、泣いた子供がいた。
 もう二度とこの地を踏むことがないだろうと、唇をかみ締め、遠くを見つめる若者がいた。
 悲しいことも、楽しかったことも、苦しかったことも、皆それぞれ大陸での思い出と別れを告げていた。
 出港のドラがなると、ボーボーッと汽笛を鳴らし、船は静かに岸壁を離れた。陸地が見えなくなるまで甲板にいた者もいた。
 船倉は 足の踏み場もないほどの超満員。貨物船であるから、鉄板に筵をしいただけである。硬く冷たかったが、それでも皆は、死と向かい合った生活から開放され、日本に帰れるという希望がみなぎっていた。
 ここには、ソ連兵も満人もいない。誰にも邪魔されることはない。安堵感から疲れが出、皆身体を投げ出しどでっと豚のような格好で眠った。
 何日ぐらい経ったであろうか。船が大きく揺れだした。台風である。
 若い博がこのとき、引揚げ者に食事を配る食事班の係りをやっていた。
 船は大きく揺れ、階段で鍋をひっくり返す者もいた。が博は手すりにすっかり掴まりこぼさず運んだ。
 しかし、食事を持って行っても、船酔いでゲロゲロ吐き食べれない者が続出した。
 また、船に乗って、これで日本に帰れるとの安堵から気がゆるみ、容態が急変し亡くなる者が続出した。
 船には、病気になっても診てくれる医者もいなければ、亡くなった者を弔ってくれる坊主もいない。
 亡くなった者は、毛布に包み船尾から海中に水葬した。
 多少お経の心得があった父甚五郎は、船長に頼まれそのたびお経を唱えてあげた。
 遺体が海に投げられると、船は悲しそうにボ~、ボ~、ボ~っと長緩汽笛を鳴らし、その周りを3周し別れを告げ、再び船首を日本に向けた。
 本土を目の前にして無念であったろう。皆手を合わせ別れを惜しんだ。
 コロ島を経って5日ほど経った昼頃、甲板から、 
 「オーイ、日本だぞうーッ日本だ!日本だ!!」という声が聞こえてきた。
 皆、どっと甲板に出た。
 「オーイッ!、オーイッ!!」と叫ぶ者もいた。
 それは一人や二人ではない。
 日本に着いた。日本に着いた。生きて日本に着いたぞ!!と皆、心の中で叫んでいた。
 引揚げは、舞鶴や博多など6ヵ所の港が使われたが、この船は佐世保に着くという。
 こうして船は、8月中旬佐世保港に着いた。
 久しぶりに見る日本は美しかった。茶色い砂漠のような土はどこにもない。見渡す限りの青い空と緑の山である。きれいだ。これが日本だ。
 船は岸壁に横付けになり、タラップを降り、皆は広場に集められた。そこには、引揚援護局の職員が、皆をズラーッと並べ、DDTを頭から身体が真っ白になるほどかけた。
 DDTは、今は発がん性があり、また環境汚染物質として使用が禁止されているが、戦後、防疫対策の一つとして主にはノミやシラミなどの殺虫剤として、アメリカ軍によって日本に持ち込まれたものである。
 父甚五郎も、母ハルも、姉以代子とその子供も、博も、義行も、繁雄も、義雄も、省三も、爺、あるいは仙人や鬼婆のように皆頭が真っ白である。
 子供たちは、お互いに顔を見合わせて、おっ爺ー、お前こそ爺ーっと大笑いした。心からの笑いであった。
 こんなに笑ったのはいつのことであったろうか。
 戦争が終わってから、食うのと逃げるのがやっとで、笑いが消えていた。
 繁雄たち本間一家は、誰一人欠けることなく無事日本に辿りついた。
 それが、実感として身体の奥底から湧いてきた。
 一行は、引揚援護局のある収容先となっっている元海兵団の宿舎まで、7㌔ほど歩かせられた。
 ここで、引揚げ手続きをすると、当面の食料として乾パンが与えられた。
 さて、日本に帰ったもののこれからどうして生きて行くかを探さなければならない。
 まず長男の持と、祖父の繁三郎を探さなければならない。取りあえず満州に渡る前にいた東京に行くことにした。そこに行けば二人の行方はわかるであろうと、佐世保に2、3日居て繁雄たちは国鉄南風崎駅から東京行きの汽車に乗った。
 毎日2000人、3000人と引揚げ者たちが佐世保港に降りてくる。そしてそれぞれ故郷へ向かうのである。汽車は、窓からはみ出すほどの超満員であった。それでも、ともかく生きて日本に帰れた。一分でも一秒でも早く帰りたい。そんな気持ちから文句をいうものは誰もいない。
 しかし、窓の外には時折空襲で焼け野原となり、まだ復興の進まない町がいくつか見えた。
 東京・上野駅に着いたら一面の焼け野原である。改めて日本が戦争に負けたことを実感させられた。
 引揚げ者たちは、上野の寛永寺に集められた。ここに宿泊しながら、今後どうするかを決めなければならない。
 父甚五郎は、東京都庁に行き、長男持と祖父の行方を捜してもらった。
 数日して二人の行方がわかった。
 祖父は日本に帰って間もなく亡くなり、親戚が弔ってあげていた。長男の持は青森県の三本木町というところに開拓団として入植したというのである。
 父は、東京都庁から連絡をとってもらって、持のいる三本木町に行くことにした。
 青森県の三本木町。初めて聞く名前であった。
 青森県というと、まず雪が多い、寒いというイメージであったが、満州に比べたら、どんなに遠いといっても日本国内である。それに持もいる。
 よし、俺たちのこれからの住処は青森県だぞ。こうして繁雄たち本間一家が、昭和21年8月下旬、新天地への夢を抱き、上野から東北本線の夜行列車に乗り三本木を目指した。
 本間一家が満州に渡ったのが、祖父母、両親、そして子供7人の11人であった。
 うち、祖父はこんなところに住めないと、早々に帰国。祖母は老衰で満州の土となり、長男の持は兵隊にとられ、長女の以代子は満州で結婚をし子供が一人いた。
 が、以代子の夫も兵隊にとられていた。
 しかし、兵隊になっている長男の持も、以代子の夫も戦死したという知らせは届いていなかった。
 この時代、どこの家でも戦死したのが一人や二人いたが本間一家は、運がいいというか、奇跡的に誰一人戦争で死んではいなかった。
 これで全員元気で日本の土を踏むことが出来る。皆そう思った。
 が、軍関係者や満鉄関係者あるいは企業関係者がどんどん帰国して行くのに開拓団にその命令がない。
 8月に入り、開拓団にもようやく引揚げの帰国命令がでた。
 繁雄たちが、帰国の準備をした。しかし、持てるものは限られている。衣類と、何といっても一番大切なのは食料である。売れるものは売って缶詰や乾燥牛肉など食料に換えた。それをリュックに詰め、軽い衣料は両の手に下げた。
 その他、水筒やバケツ、食器などである。
 お金を持ち出せるのは千円までである。靴の底などに隠す者もいたが見つかれば没収される。
 千円というと開拓団にとっては大金である。幸いに繁雄たちにはそんな大金はなかった。
 また、病気などで自力で移動できない人たちは、そのまま残された。
 俺も連れて行ってくれと懇願するものもいたが、皆わが身だけで精一杯である。誰もじゃ連れて行こうという者がいなかった。
 もし、連れて行ったとしても無事日本に着けるかどうかわからない。
 皆、心を鬼にして家を出た。
 繁雄たちが家を出ると、満人たちが家に入り、家財道具などを我先にと持ち去った。
 四平街ノ駅に着くと、何百人という帰国する開拓団の人たちでごった返していた。
 汽車は、屋根もなければ枠もない、木材を運ぶような無蓋車である。
 脇には1・5㍍程度の横棒が渡してあるだけである。この無蓋者に立って乗せられた。
 汽車がゆるいカーブに差し掛かったと子供が振り落とされた。が、汽車は停まらない。日本は戦争に負けた。ああだ、こうだといって、帰国するのが遅れるのが一番怖い。
 誰も汽車を停めろとはいわない。まるで他人事である。
 母親は泣き叫び、半狂乱になって子供の名前を呼んだ。
 父甚五郎は、供養のお経をあげた。
 汽車は、何事もなかったかのようにガッタンゴットン、ガッタンゴットンと心地よいリズムに乗せ、時折ピーという甲高い汽笛を鳴らしながら走っていた。
 こうして、帰国船の待つコロ(葫蘆)島に着いた。
 満州にいた日本人居留民の帰国の唯一の希望の港となったコロ島は、もともと人家もまばらな小さな漁村に過ぎなかった。
 日本が負けたあと、ポツダム宣言に基づき、アメリカとソ連、中国が、日本人の帰国について話し合い、原則的にすべての在華日本人居留民を、出来るだけ早く日本人送還することに決まった。
 原則的にというのは、戦争犯罪人は別としてという意味である。
 そして、ソ連は旅順、大連にいた日本人27万人に責任を持ち、中国は難民を集め、陸路で港まで運ぶことになった。アメリカはそれを船で日本に運ぶのである。
 ところがソ連は、ソ連が支配する大連と営口の港を使うことを拒否した。
 そんなことがあり、港は広く、水深も深く、不凍港で、大型船が停泊できるコロ島が選ばれた。
 しかも、コロ島には鉄道が引かれていた。
 このコロ島から150万人の日本人が帰国することになる。

 抗日のための第二次国共合作は、日本が負けたことにより、その意味をなさなくなり、再び国民党と共産党の内戦となっていた。
 四平街は、この町にどちらも駐留しているわけではなかった。いわば、毛沢東の八路軍と蒋介石の国民党の緩衝地帯であった。が、どっちかというと八路軍の方が優勢であった。
 中国共産党に野坂参三がいたこともあり、捕虜になった日本軍の多くは共産党軍に協力をしていた。
 時折、国民党軍の大砲の弾が街に着弾することがあった。子どもたちは、危険もかえりみず着弾したあとに駆け寄る。弾の破片を拾うのである。そしてその鉄くずを売って金にするのである。
 また兄義行と、廃院となった旧日本軍の病院に忍び込み電球をはずし、それを町に持っていって売り、帰りにお菓子を買ったこともあった。
 一家は、父甚五郎の教会で働く金と、兄博が八路軍から貰ってくる金で何とか飢えをしのいでいた。
 四平街の市街地が、八路軍と国民党軍の市街戦の戦場になったこともあった。
 八路軍が、繁雄たちが住んでいる建物の床下に入り、銃を構えていた。
 繁雄たちは、窓に畳を立てかけ、戦闘が終わるのを待った。幸いに戦闘にならず、家族全員が無事であった。
 数日後、数人の満人たちが八路軍の兵に縛られ、引きずられて行くのが見えた。
 どうも、国民党軍のスパイらしいということであった。
 その満人たちは、郊外の広場で射殺され、縛られたまま横たわっていた。
 しばらくすると、着ていた衣服が剥ぎ取られ、夜になると野良犬が血の匂いをかぎつけ、その死体を食べるのである。数日して、骨だけになり、散らばっていた。
 この四平街にはもちろん学校はない。一果樹村を出るとき、持てるだけもってきたが、それが汽車に乗る段階で、衣類や食料など生きるための最低限のものになり、教科書や勉強道具などは持って来られなかった。
 勉強というほどではないが、繁雄と義男は、紙に九九と覚えた漢字を書いたりして、忘れないようにしていた。
 ソ連の支援もあり、国民党と八路軍の戦いは、八路軍が優勢となり、八路軍はさらに南下していった。
 その後に、再びソ連軍が入ってきた。
 八路軍は、規律がしっかりし、住民や日本の開拓民が困るようなことはしなかったが、ソ連軍は違っていた。
 旧関東軍の倉庫に、砂糖やメリケン粉などの食料がまだ残っていた。それをトラックに詰め込むと皆持って行ってしまった。
 袋が破れたメリケン粉は残して行った。繁雄たちは、それを鍋に入れ持ってきた。
 皆、生きることに必死であった。
 ある時、食事のとき父が倒れた。軽い脳卒中であった。日本にいつ帰れるかわからない。父が仕事が出来なくなると、大変である。ここには医者もいないし、薬があるわけではない。必死に看病した結果、2週間ほどで良くなり、再び教会で働くことができた。 やがて新しい年を迎えた昭和21年(一九四六)になって、夏頃には日本に帰れるらしいという報が届いた。
 やっと生きて祖国の土が踏める。皆喜んだ。

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