野呂修平バレエ一筋55年

  博たちが、銭家店から二日ほど歩いたところに飛行場があった。そこはすでにソ連に占領され、関東軍は武装解除されていた。兵隊たちは、これから捕虜としてソ連に連れて行かれるらしい。
 ここで8月15日に日本が負けたことを知った。
 満州では珍しく雨が降ってきた。博たちの、これからの苦難を暗示するかのように、雲がどんよりと下がり、50㍍先が見えないほどの土砂降りであった。
 飛行場といっても、小さな管理棟が一つあるだけで、雨宿りする場所もない。
 身体も靴もぐっしょり濡れた。靴が重くなり、ぬかるみに入ると足が抜けなくなる。また足が蒸れてくる。仕方なく靴を脱ぎ裸足になった。この方がずっと歩きやすい。
 兵隊の一人が、お前たちは軍人ではないからここにいる必要はない。ソ連兵に見つからないように、早くここを立ち去りなさいといった。博たちは、ここでも食料と水を貰い、再び馬に乗り南下した。 次に着いたのが、日露戦争で激戦地となった203高地とはそう遠くない法庫県である。法庫の市長は日本人であった。その法庫の、城壁で囲まれた小学校に入った。ここにはソ連兵はいなかった。
 ここでも、引揚げの日本人たちがたくさんいた。働き盛りの若者たちは皆軍隊にとられ、ここのいる人たちは、お年寄りと女、子供、あるいは病弱者だけである。
 しかし、軍隊は、引揚げ者たちにはほとんど目もくれず、むしろ邪魔者扱いさえした。引揚げ者をまとめるリーダーもいない。汽車がいつ来るかもわからない。軍隊は当てに出来ない。日本に本当に帰れるのかもわからない。
 城壁の外では、はっきりと組織された集団ではないが、満人たちが騒いでいる。
 戦争に負けたんだ。皆、途方にくれていた。もう日本に帰る見込みがないと悲観し、自決するものもいた。
 あるいは、子供だけでも助けたいと、満人に子供をあずける母親もいた。その子供たちが、戦後いわゆる在留孤児となったのでる。
 ここにはまだ中国共産党を中心とした八路軍もソ連兵も来ていなかった。
 博はこの法庫の市長から、一果樹村の開拓団が朝陽市にいるらしいという話を聞いた。
 満人たちは、博たちが乗ってきた馬を売れという。
 せっかく家族が朝陽市にいるらしいという話を聞いたばかりである。馬がなければまた歩いて行かなければならない。が、売らないといったら何をされるかわからない。
 しぶしぶ馬を渡したら10円くれた。
 当時の軍隊での上等兵の俸給は、上等兵で10円50銭、一等兵で9円であったから、これは助かった。
 法庫から一緒に馬に乗ってきた他の7人も馬を売った。
 夜になった。父たち家族がいる朝陽市はここからそう遠くない。ともかく南へ南へと一晩歩いたら着くだろうと、ここから抜け出し、線路づたいに一人で歩いた。
 空には満天の星。その星明かりが線路を照らしていた。
 朝陽市に、父や繁雄たちがいると思うと、足取りも軽かった。
 昼近くになって、朝陽市の城壁が見えてきた。やった、ようやく皆に会える。博が足早になった。
 と、そのとき、城壁の方から一人の男が歩いてきた。博にはすぐわかった。父甚五郎である。
 父は、博が必ず帰ってくると信じ、毎日城壁の外に出ては、博の来るのを待っていたのである。
 父には、遠くに人影が見えたとき、それが博だとすぐわかった。だから待っていられず歩いて来たのである。
 博は、「お父さん、ただ今帰ってきました」といい、敬礼した。

  父は、「良かった、良かった」と博を抱きしめた。
 こうして、奇跡的に、本間一家は再び家族全員が揃った。
 「良かった、良かった。もう離れないぞ」と皆思った。 そんな喜びもつかの間、ソ連兵がやって来た。
 ソ連兵たちは、ここは開拓団の避難民だとすると、あまり手荒なことはしなかったが、
これが軍隊かと思うほど、ぼろ服を着ていた。
 飛行場で見たソ連兵とは違っていた。
 ソ連兵は、黒光りするルパシカを着て、ぼろを巻きつけたような靴を履き、肩に自動小銃を下げていた。
 当時の日本の兵隊の持っている銃は、パーン、パーンと一発づつ撃つ銃に対して、ソ連兵の持っている銃は、71連発連続して撃てる、マンドリンと呼ばれる自動小銃であった。これでは日本が勝てるわけがない。
 ソ連兵には、荒くれた男たちに混じって、16、7歳と思われる少年兵や、女性の兵士もいた。
 ソ連は、ナチス・ドイツとの戦いで、多くの正規軍を失い、満州に投入した兵士は、刑務所上がりや、志願した少年や女性が含まれるなど、統制の取れたものではなかった。
 関東軍と戦ったソ連兵は訓練された軍隊であったが、ここに来ているソ連兵はどうも違うようである。
 ソ連兵は、避難民の一人一人の身体検査をし、金目のものを持っていると、それを有無言わさず取り上げた。
 抵抗しようものならすぐ自自動小銃を向けた。
 繁雄は、腕時計を二つはめていたが、それも取り上げられた。
 博は、法庫で売った馬の代金を靴底に隠していたので、幸いにそれは取られなかった。
 ソ連兵たちは、間もなく引揚げ、さらに南下して行った。
 それからしばらくして、八路軍がやってきた。
 八路軍は、満州事変(昭和6年/一九三一)によって満州を植民地化された中国で、中国共産党が抗日のために、蒋介石の国民党と提携。このとき共産党の紅軍を、中華民国軍に組み入れ第八路軍とした。この八路軍が後の人民解放軍となるわけであるが、このときはまだ八路軍を名乗っていた。
 しかし日本が戦争に負けたことから、ソ連の後押しもあり、国共合作が決裂。中国の内戦となった。
 八路軍には、後に日本共産党の議長になった野坂参三が、日本人民解放連盟を結成。捕虜になった日本人を、日本帝国主義がいかに中国でひどいことをしているか。これからは新しい時代がくるなど、教育していた。
 そんなこともあり、八路軍は、日本軍と、民衆を明確に分け、寛大な扱いをしていた。
 その八路軍の活動の拠点となった一つが、この朝陽からちょっと北に行った四平街である。
 避難民たちは、今度は八路軍の管轄下に置かれた。
 八路軍から、全員四平街に移るようにとの移動命令がでた。
 全員、汽車に乗り四平街に移動した。
 ここには、旧軍属の家族が使っていたアパートがあった。本間一家は、そのアパートの一室に入ることができた。家族8人では部屋が狭かったが、それでもようやく家族が一つの屋根の下で暮らすことが出来た。 この四平街は、蒋介石の国民党軍との戦いの前線であったが、まちは機能していた。
 そんなこともあり、塗装という技術を持っていた父甚五郎は、塗装の仕事があったし、また博は八路軍に入り、担架隊となり国民党との戦いで負傷した兵士を病院に運ぶ仕事をしていた。
 開拓団の多くの悲劇が伝えられる中で、本間一家は、この四平街で家族全員が揃い、生活にそう心配することもなかった。しかし、いつ帰国出来るのかわからなかった。運を天に任せるしかなかった。

 ようやく一家が揃ったと思った矢先、関東軍の兵隊が汽車に乗り込んで来た。そして、一果樹村の18歳以上の若者は降りろといった。
 博は昭和3年(一九二八)9月生まれだから誕生日までまだ1ヵ月ある。が、そんなことは通用しない。
 父は、まだ18歳になっていないといおうとしたが、体が大きかったこともあり、無理やり降ろされた。
 それが終わると、汽車がゆっくりと走り出した。
 わずか3年ではあったが、思い出をたくさん残した満州一果樹村。繁雄は、後へあとへと景色が流れて行く村を、いつまでも見ていた。
 汽車は、走っては停まり、走っては停まりしながら、銭家店からおおよそ400㌔ほど南下した朝陽市に到着した。400㌔南下したといってもここはまだ内モンゴルである。
 ここが満州からの避難民の一時的な休憩所になっていた。
 一果樹村の開拓民には、その中の土塀に囲まれた集会場が充てられた。
 本間一家は、一番頼りにしていた博が抜け、一体これからどうなるだろうと不安をいだいていた。
 ここに来て1週間ぐらいした8月9日、ソ連が国境を越えて侵攻して来たそうだという噂が広がった。
 開拓民たちはいよいよ不安になった。
 第二次世界大戦は、ナチス・ドイツが、昭和14年(一九三九)に、ポーランドに侵攻したことに対して、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告したことから始まった。
 以後、イタリアがイギリス、フランスに宣戦布告(一九四〇)。ドイツがソ連に侵攻(一九四一)。日本がアメリカに対して真珠湾攻撃(一九四一)。ドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告(一九四一)。
 こうして最終的には、日独伊の三国同盟と、イギリス、フランス、アメリカ、そしてソ連、中華民国等の連合国との世界を二分した世界大戦となった。
 日本は、昭和15年(一九四〇)に、ドイツとイタリア(イタリア王国)とで、日独伊三国同盟を結んだ。
 これは、台湾(明治28年=一八九五)及び韓国を併合(明治43年=一九一〇)すると共に、満州国を設立(昭和7年=一九三二)し、さらに日中戦争(昭和12年=一九三七)を仕掛けていた日本が、アジアにおける日本の権益を守るとともに、ヨーロッパにおけるドイツとイタリアの権益を守ることを確認。その調印国のいずれかの国が調印国以外に国から攻撃を受けた場合には、相互に援助するというものであった。
 一方、三国同盟を結んだことにより、アメリカとの関係が険悪になっていた日本は、アメリカとの戦争が避けられないものと思っていた。
 そのためには、満州の国境でにらみあっていたソ連と、とりあえずは友好関係を結んでおく必要があると考えた。
 ソ連にしても、ナチス・ドイツとの戦いで、極東に配備していた部隊をそちらに投入したかった。
 思想及び考え方が全く相容れない両国であったが、このような両国の思惑もあり、日本とソ連は、昭和16年(一九四一)に、日ソ不可侵条約を結んだ。それは5年という限定的な条約であった。
 三国同盟のうち、イタリアは早々に無条件降伏(一九四三年九月)。連合軍がパリに入城(一九四四年八月)、ソ連がドイツ国境を突破(一九四四十月)するなど、第二次世界大戦の先が見えてきた昭和20年(一九四五)2月に、クリミア半島のヤルタで、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンと、連合国主要三国が、戦後処理について話し合った。
 このとき、ドイツが降伏した90日後に、ソ連が対日参戦すると共に、千島列島及び樺太などの日本領土の処遇についても話し合った。
 それが現在も続く北方領土問題の端緒となった。
 昭和20年5月ドイツが無条件降伏。同8月6日、アメリカが広島に原爆を投下した。
 慌てたのはソ連である。日本が降伏するのは時間の問題だ。このままではソ連が参戦しないうちに日本は降伏してしまい、千島も樺太も手に入らなくなる。
 こうして、8月9日未明、国境を越えて満州に侵攻した。
 一方満州にいた関東軍はというと、兵力の過半数が、南方へ引き抜かれていた。慌てて増強したものの、兵員の半数以上は訓練不足のうえ、小銃が行き渡らない兵士が10万人以上と、ソ連に比べると、戦闘能力は貧弱なものであった。
 そんなことからアッという間に攻略され、満州国から朝鮮北部までソ連軍に制圧されてしまった。
 それから数日経った8月15日、正午近くに重要な放送があるそうだということで、収容所にラジオが流された。ピーピーガーガーと雑音がひどかったが、みんなは聞き逃しまいと、ラジオの近くに集まった。
 何が放送されるかは、大人たちは自分たちが置かれて状況からおおよその見当はついていた。
 正午になった。
 ラジオから天皇の声が流れた。
 「朕深ク世界ノ体勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以ッテ、時局ヲ収拾セムト浴シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。
 朕ハ、帝國政府ヲシテ、米英支蘇四國ニ對シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ...」。
 これが、日本がポツダム宣言を受諾して、連合軍に無条件降伏したことを、国民に知らせる、一般的に...堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び...として伝えられている、天皇の玉音放送の原文である。
 子供たちにとっては、何の意味なのかわからない、かったるい声でしかなかったが、大人たちは、ラジオの前に膝まづき、みんなグスグスないている。
 と、そのとき、塀の外では満人たちが気勢をあげた。
 「...敵ハ新ニ残虐ナル爆弾(原子爆弾)ヲ使用シテ頻リニ無辜(罪のない人)ヲ殺傷シ惨害(むごたらしい被害)ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル。而モ尚交戦ヲ継続セムカ、終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス、延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ...」
 この、無条件降伏が、ドイツが降伏した5月に出されていたなら、広島、長崎の原爆投下も、ソ連の参戦もなかったであろう。
 この段階で日本は、「戦争遂行決意は不変」と声明を発表していた。
 これで、日本の敗戦は決定的となった。
 これから、どうなるのか、日本に帰れるのか全く見当がつかない。
 ここは、開拓民がほとんどであったので、ソ連兵がまだ来ていないのが幸いであった。
 それでも、女性はロシア人に犯されるそうだという噂が広まった。若い女性は頭を丸坊主にし、男服を着て、顔を泥で汚していたのもいた。姉の以代子も、坊主頭にし、顔に泥を塗った。
 そんなとき、本間家に再び奇跡が起こった。家店駅で別れた博が、繁雄たちを探してやってきたのである。
 博は、繁雄たちと別れたあと、全員がまた一 樹村に集められた。そこには、関東軍によって集められた蒙古兵がたくさんいた。これからソ連の国境に向かうという。
 関東軍の将校は、開拓団の若者たちを見て、これは戦争に使えない。お前たちはもう帰れといった。
 帰れといわれても、開拓団を乗せた汽車はもう発っている。軍隊は、開拓団のことは全く考えていなかった。
 博たちは、馬と水と食糧と銃をもらい、この線路沿いを行くと、先に行った開拓団に追いつけるはずだと、開拓団の仲間7、8人と、満人からの襲撃を避けるために、汽車の線路から離れず、近づ歩いた。
 この広い満州の大地。いつ追いつけるか分からない絶望に近い出発であった。 

 昭和19年(一九四四)11月、B29による東京大空襲が始まった。そして20年(一九四五)4月、米軍が沖縄に上陸。沖縄の悲劇が始まった。
 この頃になると、もう日本は負けるそうだの噂が、満州にも届き、撤退の準備をするものも出始めていた。
 同20年5月、イタリア及びナチスドイツが、連合国に無条件降伏した。
 そんなことはつゆ知らない子どもたち。
 夏休みに入った7月のある日、繁雄と弟の義雄、同級生の渡辺君、横山の春ちゃん、高橋の健ちゃんと5人が、いつものように近くの遼河に泳ぎに行っていた。
 この日は朝から太陽がカンカンに照りつけ、気温が40度もあるかと思うほど熱い日であった。
 5人は、高粱畑の道を30分ぐらい歩いて遼河に行った。高粱は2㍍ほどに伸びており、いい日陰にもなった。
 しかし、遼河に行ったものの川は干上がり、川には水がなく、ところどころに泥水が溜まっているだけであった。
 そんなところで遊んでいると、渡辺君の家から、すぐ家に帰るようにとの使いが来た。
 渡辺君の家は、寄宿舎のすぐ近くにあった。
 何だろうと、皆一緒に渡辺君の家に行った。
 しばらくして、渡辺君がナント手に拳銃を手に持って出てきた。
 渡辺君は、父から聞いた話として、日本が戦争に負けるらしい。満人たちが騒いでいる。もう満州にはいられない。そして、護衛のためと拳銃を持たせられたというのである。
 渡辺君が、拳銃を空に向けて一発撃った。
 繁雄は、思わず耳を両手で塞いだ。
 高粱畑から、銃声の音に驚いた鳥が飛び立った。
 渡辺君は、本間、お前も撃ってみろといった。
 繁雄は、恐るおそる拳銃を手にした。ずしりと重かった。繁雄は、渡辺君がやったように、拳銃を空に向けた。見上げると、真っ青で、雲一つなくどこまでも広がっていた。
 繁雄は、拳銃を持った右手を、左手で支えながら、引き金を引いた。
 「パーン」と、乾いた音がした。
 生まれて初めて撃った拳銃である。怖かった。心臓が高鳴っていた。こんなものは要らないよと、渡辺君に返した。 しかし、拳銃を撃って初めて、大変なことが起こっているなと感じ、繁雄ら4人は急いで寄宿舎に戻った。
 寄宿舎には、すでに父が馬車で迎えに来ていた。
 繁雄たちは、寄宿舎にある荷物をまとめ父の馬車に乗った。
 父は、ソ連が攻めて来るらしい。満州を撤退するようにとの命令が出たと話した。
 昭和17年(一九四二)の夏に満州に来て3年、繁雄は10歳、小学校5年生になっていた。
 異国の地ではあったが、満州の生活にも慣れ、食うことも心配することもなく、毎日満州の大地で遊びまわっていた。
 腹を空かしていた東京時代から見ると、天国であった。
 農業をやったことがなかった両親も、苦労しながらも農業をやって行くことに、何とか目処がついていた。
 繁雄は、これからどんなことが起こるのか、全く検討がつかなかった。
 が、途中、満人の集落を通るとき、満人たちは、今までは丁寧に頭を下げ挨拶していたものが、満人たちにも、日本は負けるらしいという噂がすでに流れているであろう、挨拶もせず、睨めつけていた。
 昨日までの雰囲気ががらりと変わっていることに気がついた。次第に、何がどうなったんだろうと不安になってきた。父もそれ以上は喋らなかった。
 集落に着いたときは、すでに陽が西に落ち、とっぷりと暗くなっていた。
 夕べまでは、暗くなっても、それぞれの家から明かりがもれ、煙突からは煙が出ていた。
 それが、集落に着いても、どの家も真っ暗である。
 わずか、隣りの健ちゃんの家だけは明かりがもれていた。
 その異常さに、不安が増してきた。
 家に着いたが、我が家も真っ暗で誰もいない。
 と、思ったが、灯りもつけない暗闇の中で、次男の博が一人、繁雄たちが来るのを待っていた。
 他の家族、三男の義行と、母、姉の以代子とその子供、弟の省三が、早く避難せよという命令に、持てるだけの荷物を持って、駅に行っているのだという。
 満州からの撤退命令は、繁雄たちが寄宿舎からの帰りを待てないほど、急を要していたのであろう。
 家に入ると父はローソクに火を灯した。
 博と繁雄は、何か食べるものがないかと、台所を探した。引出しに腕時計が2個あった。それを腕にはめた。
 食べられるのは、幸いにうどん粉が残っていた。これを水でこね、フライパンで焼いた。うどん粉のパンである。
 日本の開拓団が、1日にしていなくなったのである。これからどういうことが待っているのか皆目検討がつかない。
 ローソク1、2本の薄暗い部屋で、父と、博、繁雄、義雄の4人は、もくもくとうどん粉のパンを食べた。これが、一 樹村南集落での最後の、寂しい晩餐であった。
 翌日、夜が明けるとすぐ、持てるだけの荷物を馬車に積み込み、駅に向かった。
 馬車が銭家店駅に着くと、避難民は皆汽車に乗り、ホームにはもう誰も居ず、北上する汽車と、南下する汽車が出発を待っていた。
 どっちの汽車に乗るかもわからない。ともかくここを離れなければならない。
 父は、こっちへ乗ろうと、手前の北上する汽車に乗った。
 乗ってから父は、繁雄に水筒を渡し、水を汲んで来いといった。
 繁雄は、汽車を降り、あっちこっちと探したが、水道を見つけられず帰ってきた。
 見つけられなかったというと、父が怒り、もう一度探して来いといった。
 繁雄は、再び、水道を探しに走った。
 と、そのとき、反対側のホームから、
 「繁雄ー、繁雄ー!!」と叫ぶ声が聞こえた。
 義行が必死に手を振り、「ここだ、ここだ」と、繁雄を呼んでいた。
 先に来た義行たちは、すでに汽車に乗っていたが、義行だけは、遅れて来る繁雄たちを、ホームに降りて、今かと今かと、気をもみながら待っていたのである。
 繁雄は手を振り、
 「義行ちゃーん、わかった、わかった!!」といって、父に知らせた。
 偶然であった。もし父が、もう一度水を探して来いといわなければ会えなかったかも知れない。
 父は、ともかく汽車に乗ろうといって乗ったのが、実は北上する汽車であった。
 あとで聞いた話だが、繁雄たちが最初に乗っていた汽車は、ソ連との戦いに行く、主には兵隊を乗せた汽車で、ソ連との戦いで全滅したということであった。
 それを知らずに乗っていた避難民もいた。
 あの時、兄の義行と会わず、その北上する汽車に乗っていたなら、繁雄たちも同じ運命を辿っていたのかも知れない。
 運は一瞬である。本間家にとっては、奇跡的ともいえる全家族9人の合流であった。
 こうして、1年数ヵ月近くにも及ぶ、中国での死の逃避行が始まった。

 満州の冬は、零下25度までも下がるが、雪がそんなに多くはなかった。寒いが楽しいこともあった。
 その一つがスケートである。
 冬は、学校のグランドが一面スケートリンクになる。
 冬になると、放課後、生徒はもちろんだが、父兄や満人たちをも総動員して、スケートリンクづくりをするのである。満州の学校でのスケートは、冬の体力づくりとしても大事であった。
 学校のすぐ脇に大きな貯水池がある。そこに手押しのポンプを置いて、ホースでもってグランドに水をまく。
 零下25度の寒さである。翌朝は、グランドに氷が張り、一周400㍍の見事なスケートリンクができあがる。
 天気のいい日は、授業として毎日スケートがあった。
 冬の遊びは少ない。外での遊びはスケートが唯一であった。エッチング(スケートの歯)磨きなど、もちろん自分たちでやる。授業が終わると、生徒は皆スケートリンクに繰り出した。
 しかし、冬の日は短く、4時頃になるともう薄暗くなる。暗くなると、そう離れていないものの、やはりオオカミが怖い。暗くなる前に皆急いで寮に帰った。
 帰る前に、壊れたリンクを削り平らにし、そこにまた水をまいて置く。翌日は再び立派なリンクに仕上がっているのである。
 スケート靴は、本土の子どもたちからすると、子どもにはちょっと贅沢なスピード競技用のスケート靴であった。
 そのころ本土はというと、一般の子どもたちは、下駄の底にスケートの歯をつけた下駄スケートであった。
 スケートは、初心者の6級から1級まであり、時々先生は、進級の試験を行なう。運動神経の良かった繁雄は、ひと冬で1級になっていた。
 寒い朝、食堂で朝食をとっていたときである。明り取りの窓から白い煙が食堂に入ってきた。
 校長先生はすぐに、
 「オイ、本間見て来い!」といった。
 寮は、奥が女子寮、手前が男子寮、そして食堂と、一つの棟の中にあった。
 寮といっても、廊下を挟んで両側が扉のない部屋になっており、部屋の下が粘土のレンガで作られたオンドルになっていた。オンドルは、それぞれの部屋に焚口があった。
 そのオンドルの上に、アンペラの莚を敷き、その上に布団を敷いて寝るのである。
 一部屋に、二人づつ入っていた。繁雄は、兄の義行と同じ部屋であった。
 オンドルは、コウリャンやサトウキビの殻を燃やして温めるのである。
 繁雄は、「ハイ!」といい、寮に行き、寝室のドアを開けた。男子寮はすでに火の海であった。繁雄は慌ててドアを閉めると、
 「火事だ!火事だ!!先生、大変だ、火事だ!!」と、声いっぱいに叫んだ。
 出火は、繁雄と兄の義行の部屋からであった。
 校長先生は、落着いて、皆外へ出ろといって、外に出し、消防に電話をした。
 消防は間もなく来たが、水をかけるでもなし、棒でもって、寮と食堂の間の壁を壊しているだけであった。
 屋根が燃え落ちると、火は自然と消えた。
 満州の住宅は、壁は粘土の+レンガを積み重ねただけで、屋根は草で葺かれていた。雨がほとんど降らない満州では、それでも充分であった。
 だから、屋根が燃え落ちると自然に火が消えるのである。
 消防が壁を壊したのは、食堂に類焼が及ばないように火を断ち切ったのである。
 火事の原因は部屋のオンドルであった。
 粘土のレンガで作られたオンドルが、使っているうちに穴が開き、そこから火が出て莚を焦がし、布団に燃え移って火事になったのであった。
 繁雄はアンペラの下に、母から貰ったお金を隠していたが、それも全部燃えてしまった。悔しかったが、燃えてしまったものはどうしようもない。
 幸いに食堂だけは燃え残った。その夜は、男女一緒になって、食堂で毛布を被り雑魚を寝した。
 ところが偶然にも、繁雄の隣りで寝たのが、繁雄の好きな女の子であった。
 その夜は、疲れていたのも関らず、隣りに寝ている好きな女の子が気になって、なかなか寝付かれなかった。
 繁雄の満州での唯一の淡い恋の想い出である。
 繁雄と兄の義行は、寮ができるまで、学校に近い農家に分宿し、そこから学校に通った。
 寒い冬の日であった。集落の近くの家から、今赤ちゃんが生まれそうなんです。家に誰もいないんで、申し訳ないが産婆さんを呼んで来てくれと、兄の博が頼まれた。
 博は、馬そりを準備し、この一 樹村に一人しかいない産婆さんを迎えに走った。
 産婆さんを乗せて帰る途中、馬が突然に走らなくなった。どうしたものかと馬を見ると、馬の鼻の穴が凍ってしまい、氷になっていた。
 なんと、それによって馬が呼吸困難に陥っていたのである。
 このようなことは、冬の満州ではよくあることである。博は、慌てもせず、馬の鼻に手を突っ込み氷を取り除いた。
 馬は元気を取り戻し、再び走り出し集落に着き、子供は無事に産まれた。
 地元民である満人たちとの諍いはそう多くはなかったが、たまにある。
 ちょうど実りの秋。畑には、コウリャンやトウモロコシが稔り、収穫を間近に控えていた。
 ところが、満人たちが放し飼いにしていた、牛や馬が、畑に入りコウリャンやトウモロコシを食い荒らしてしまったのである。
 開拓団たちは怒って、その牛一頭を捕まえ、殺し、集落民へ分けて食べてしまった。
 満人たちは謝り、二度とこのようなことは起こらなかった。
 しかし、こんな平和な生活は長くは続かなかった。
 昭和19年(一九四四)に入ると、6月にアメリカ軍がグアムやサイパンを空爆。日本軍の航空部隊が壊滅した。さらにマリアナ沖の海戦で、日本海軍は空母3隻、航空機359機を失った。
 7月になると、サイパン島が陥落。4万人余の日本軍の守備隊が全滅。東条内閣が総辞職した。
 これによって、アメリカの日本本土への空襲が可能になった。
 日本政府は、本土決戦を唱え、学童を疎開させた。
 こんな戦況を知らないのは、勝った勝ったの大本営発表のニュースしか聞かされていない日本人だけであった。
 本間一家は、満州へ来て2年の間に、祖父は、満州の気候や食事が合わないと、1年足らずして、こんなところには住めないと本土に帰っていた。
 祖母は亡くなり、満州の土と化していた。
 長女の以代子は嫁に行き、同じ村に分家になっていた。が、子供も出来、幸せをかみ締める間もなく、夫は兵隊にとられていた。
 長男の持は、数えの20歳で、徴兵の年齢に達していなかったが、やはり軍隊にとられていた。
 次男の博は、青年学級で、敵が来たら、たこつぼを掘り、手榴弾を持って待ちかまえ、戦車の下に潜り込んで自爆せよなどという軍事訓練を毎日受けていた。
 満州に来たときは、一家11人の大家族であったが、一人は帰郷し、一人は亡くなり、一人が兵隊にとられたものの、今は新しい家族が一人増え9人になっていた。

 新しく充てられた家は、日本のような木造ではなく、粘土のレンガを積み重ねたもので、部屋にはすべてオンドルが通っていた。
 オンドルは、森林の少ない満州であるから、満人の主食であるコーリャンの殻を燃やしていた。
 トイレは外にあり、外から見えないようにはなっていたが、戸がなかった。あとでわかったことだが、夜になるとその糞便を豚が来てきれいに食べてくれるのである。つまり、糞便は豚の餌であった。繁雄はこれには驚いた。
 満州での生活、鶏の絞め方(殺し方)、豚のさばき方、腸づめのつくり方などは、本間家を手伝ってくれる満人が教えてくれた。
 本間家の隣りの家は、偶然にも、敗戦後繁雄たちが帰還し、開拓に入ることになる青森県三本木町の隣り町、大三沢町の柿本という人であった。
 繁雄たちが入る一果樹村在満国民学校は、開拓団の集落から5㌔ほど離れたところにあった。
 これは、一果樹村に入植した開拓団の子弟の小学校で、第一次で入植した開拓団の子どもたちがすでに通っていた。
 学校は、男女共学で、すべて全寮の寄宿舎生活である。
 というのは、満州にはオオカミがおり、夜に出没し、家畜が犠牲になることも度々であった。
 学校と寄宿舎の距離は、歩いて5分ほどのところにあった。寄宿舎と先生の官舎は、オオカミや匪賊から身を守るための城壁で囲まれていた。
 城壁の外には、冬の暖房の燃料となるコーリャンの殻が積まれていた。
 寄宿舎は、一棟は子どもたちが入る棟で、女子寮と男子寮、そして食堂になっていた。もう一棟は校長先生の官舎である。
 寮の部屋には、粘土のレンガづくりのベッドがあり、ベッドの中にはオンドルが通っており、オンドルの上にアンペラで編んだ筵が敷かれていた。その上に布団をかぶって寝るのである。冬でも結構温かかった。
 春には黄砂の砂嵐に見舞われることもある。砂嵐が吹くと、それこそ一寸先が見えなくなるほどである。
 また、冬になると、零下25度にもなり、馬の鼻にツララがさがり、ション便がそのまま凍ってしまうほど寒い。
 決して住みやすい土地でなない。そんな環境の中、子どもたちだけで通わせるわけには行かない。
 かといって、家族は、仕事に余裕もなくそれをいちいち送り迎えできないのである。
 そんなことから、開拓団の子どもはすべて寄宿舎生活を送るのである。
 先生は、校長先生とその奥さんの二人だけ。
 生徒は、全学年併せて20人ぐらい。本間家からは、繁雄と、繁雄のすぐ上の兄の義行が入った。
 寄宿舎の食事は、先生の奥さんが、満人を使ってこしらえていた。
 皆、月初めの最初の月曜の朝に、父や兄たちが曳く馬車に乗り、寄宿舎まで送られてくる。そして月末の最後の土曜日に迎えに来てもらい、家に帰るのである。
 繁雄たちの、第二次開拓団の集落から学校に行くまでに満人の集落が二つほどあった。途中で、オオカミに尻を噛まれ血まみれになっているロバに出会った。
 多分、このロバは夜になるとオオカミの餌食になるであろう。しかし、今助けて家に連れて帰ったとしても、助かるかどうかはわからない。そのまま置いて行くしかなかった。
 学校での生活は、結構楽しかった。
 時々、満州の学校との交換授業を行なう。その内容は、主に日本人は満州語を、満人は日本語を学ぶのである。
 子ども同士である。言葉が片言しかわからなくてもすぐ友達になった。
 夏になると、満人の村に行き、馬に乗った。
 この地域はモンゴルに近いこともあって、子どもたちは皆馬に乗るのがうまかった。ちゃんとした鞍があるわけではない。鞍の代わりに座布団のようなクッションを乗せ、それを馬の背に縛り付けているだけである。
 鞍がなければもちろん足をかける鐙もない。
 蒙古馬は背丈がそんなに大きくはない。しかも、走るときは側対歩で走る。側対歩とは、人間でいうナンバ走りである。つまり左の前足と後ろ足を同時に出し、同じく右の前足と後足を同時に出して走る。
 このナンバ走り、側対歩は背の揺れが少なく初心者でも乗りやすい。
 日本では、南部馬(どさんこ)が側対歩で走る。
 高いところが好きで、運動神経が良かった繁雄は、すぐ馬に乗れた。
 「キャッホー、エイ、エイキャッホー」と、馬に跨り、満人の子どもたちと一緒に満州の大地を走った。
 時には、満鉄の線路まで、馬に乗り小さな砂丘を幾つか越えて行き、これが日本に通じる線路かと感慨にふけることもあった。
 友だちとなった満人の家に行ったときである。
 居間には大きな柩が置かれていた。柩はきれいに装飾が施されていた。
 満人が亡くなると、死者を大事に弔う思想は日本と変わらない。が、普通の家では、お棺に入れないでそのまま土葬した。この家のように柩に入れて土葬するのは、相当の地位やお金のある家のみであった。柩は見るからに高価なものであった。
 この家の主は、息子の友だちの日本人の子どもが遊びに来ているのを知ると、丁寧にお礼をいい、この柩は働きに出ている息子、つまり繁雄の友だちの兄が私に贈ってくれたものだ。親孝行な息子でねと、身振り手振りを交えて繁雄に説明し、自慢した。
 誰か亡くなって柩があるのかと思ったら、なんとこの柩はこの家の、今柩を自慢した主のものである。
 日本ではこんなことをしたら、俺を死なすきかとカンカンに怒るであろうが、満州では、亡くなる前に自分の柩を準備するのだという。
 この家に来て驚いたことがもう一つあった。
 中年以上の女性の靴が異常に小さく、皆ヨチヨチ歩きをしているのである。
 いい大人がヨチヨチ歩きをしている。見ていて滑稽であった。
 繁雄には、そのとき、何故そんな歩き方をするのかわからなかった。が、あとで、いわゆる纏足であるということがわかった。
 纏足は、今から1000年ほど前の北宋時代から行なわれていたといわれる。それは足の小さな女性は美しいという考え方。もう一つは、ヨチヨチ歩きしか出来ない女性は男性からみると、そのしぐさが可愛いく、また何があっても男性に逆らうことが出来ない。つまり、女性が男性の慰みものでしかなかった当時の風習であった。
 しかし、その纏足の方法は女性にとっては過酷なものであった。
 女性が3、4歳になると、木綿の布で親指以外の4本の指を内側に曲げ縛った。当然夜も眠れないほど痛いし、腫れて熱を持ち化膿する場合もある。これが定着すると、今度は足の甲を縦に曲げて行く。こうして足の奇形をつくるのである。
 しかし、これは上流家庭の子女だけでもちろん働く農民の家庭では行なわれなかった。
 正月は子どもにとっても嬉しいものであった。
 学校が休みとなり、冬は仕事もないから家族が一緒になれるからである。いつものように家は賑やかになった。
 正月になると、開拓団で牛一頭を殺してみんなで分け合った。またそれぞれの家庭では鶏を、家族に人数にもよるが2、3羽絞める(殺す)。鶏の血が結核にいいといわれており首を切ってそのまま鶏の首に口をつけて血を飲むもの。あるいはコップに血をとって飲むものもいた。
 さらには餅もつく。正月は美味しいものを食って、遊んでと、子どもにとってはやはり楽しいものであった。
 正月が終わると、再び学校の寄宿舎生活に入る。

 

 この汽車は、満蒙開拓団及び、満蒙開拓少年義勇軍のために特別に仕立てた夜行列車である。
 東京駅は、見送りに来た少年義勇軍の家族や、開拓団の親族や友人、知人などでごった返していた。
 あっちこっちで、汽車の窓から顔を出し、病気しないようにな、体に気をつけろよなどと固く手を取り合い、涙を流している人たち。頑張れよと万歳三唱する人たち。行ったら手紙くれよなどと、別れを惜しむ人たちで溢れていた。
 汽車は、ボーっと大きく蒸気を吐き、ガッタン、ゴットンとゆっくりと動き出した。
 元気でナー!!、体に気を付けてナー!!の声に送られて、汽車は下関に向かった。
 父や母、長男の持、次男の博などは、満州に行って当座の生活に困らないようにと、衣類や茶碗、皿、箸などの生活用具、あるいは子供の教科書などをぎっしり詰めたリュックやトランクなどを持てるだけもった。
 この汽車に乗っている連中は皆そうである。
 その荷物が通路に、ところ狭しと置かれ、トイレに行くのも大変であった。
 小学生ぐらいの小さな子どもたちは、網棚に乗せられ、それがベッドがわりになった。
 子どもたちにとっては、これから何処へ行くのか、この先何があるのかは、全く関係がない。ともかく初めての汽車の旅である。楽しい旅であった。しかも、網棚に載せられた。子どもは高いところが好きである。嬉しくて、嬉しくて、最初は騒いでいたがいつの間にか、網棚の上で眠ってしまっていた。
 車内が薄暗くなると、ガッタンゴットン、ガッタンゴットンと、車輪が線路の継ぎ目を渡る音が、心地よく、振動と共に聞こえてくる。そのリズムに合わせ、先導をきるように、時おりピーっと、甲高く汽笛が鳴り響く。
 父甚五郎は、見知らぬ土地へ行く不安もある。しかし、それ以上に、新天地で一旗挙げたいという希望が強かった。
 また、長男の持が、悪い仲間たちとの付き合いもあり、喧嘩して帰るのもしばしばであった。それも両親の悩みの一つであった。いずれにしても、日本に居ては、一家11人を養って行けない。あれこれ考えて一晩中眠れなかった。
 汽笛が、本間一家の、あるいはこれから満州へ行く人たちの励ましの進軍ラッパにも聞こえた。
 こうして汽車は、20時間近くかけて下関に到着。ここから船で対岸の門司に渡り、門司港から朝鮮の釜山に船で渡るのである。
 日本から大陸に渡るには、これが一番の近道であった。
 その日の夜に船が出港した。
 貨物船ではあったが、子どもたちにとっては、船に乗るのが、これも初めての経験であった。最初のうちは騒いでいたが、やがて船で酔ってしまいゲーゲー吐いてしまった。
 やがて船は釜山に到着。ここから汽車でソウル、平城を通り、奉天(現瀋陽)に着いたのは3日目であった。ここで汽車を乗り換え、目的地である通遼県に行くのである。
 通遼は、内モンゴルにあり松遼平原の西の端にあった。
 雨は、5年に1回しか降らないというくらいの乾燥地帯の荒原である。
 しかも、冬になると零下20度にもなり、戦車も渡れるぐらいに川が凍り、地面が2㍍凍るという寒であった。
 第二次開拓団が行くのは、この通遼県の一果樹村である。
 一果樹村には、すでに第一次満蒙開拓団の人たちが来ていた。
 汽車が、一果樹村の降り口である銭家店駅に着くと、第一次開拓団や、地元民である満州人たちが、
 見よ東海の空あけて
 旭日高く輝けば
 天地の正気溌剌と
 希望は躍る大八洲
 おお晴朗の朝雲に
 聳ゆる富士の姿こそ
 金甌無欠揺るぎなき
 わが日本の誇りなれ
と『愛国行進曲』を歌い、歓迎してくれた。
 父甚五郎も、母ハルも、第一次開拓団や少年義勇兵の若者たちが満州で、夢に溢れ、希望を持ってやっているのを見て、満州に来るまで持っていた一抹の不安も吹っ飛んでしまった。
 第二次開拓団が入植する予定の南集落はまだ出来ておらず、とりあえずは第一次開拓団が入植している一果樹村の家にお世話になるとのこと。
 本間家は、第一次開拓団の中野さんという家にお世話になることになった。駅から、中野さんが出してくれた馬車に乗って、中野さんの家にたどり着いた。
 東京から、汽車に乗り一関まで、そして船に乗り釜山まで行き、さらに汽車にゆられて3日、体はくたくたに疲れていた。
 皆、中野さんの家に着くなりバタンキュウで、そのまま眠ってしまった。
 何時間眠ったろうか。目が覚めたのは夕方であった。
 窓の外を見ると、真っ赤な大きな夕陽が地平線に沈むところであった。
 日本では見られない大陸に沈むその夕陽を見て、ああ満州に来たんだなと実感した。
 夜は、中野さんの奥さんの手料理でもてなしを受け、父甚五郎はしきりに満州での生活を聞いていた。
 子どもたちは、豊富に出てくる料理を見て、のどをゴクリ。
 中野さんの奥さんは、それを見て「食べるのはたくさんあるからどんどん食べてね」とすすめた。
 子どもたちは、我先にと食べた。
 こんなに腹いっぱい食べたのはいつだったか、忘れるくらいむかしのことだった。
 こうして、本間一家は数日中野さんの家にお世話になり
11月に入植地の南集落が出来るまで、満人の家にお世話になることになった。
 その満人は、これから入植地で、本間家の家畜や農作物を世話してくれる家であった。
 11月になり、入植地である南集落が完成した。
 一家は、それぞれ割り当てられた家に入った。
 家の前は、見渡す限りの荒野で、遠くには満鉄の線路が見えた。
 一家には、土地13町歩(約13㌶)、馬20頭、牛20頭他、豚や鶏などが貸し与えられた。
 また、食料も充分に与えられ母が食事のとき、さあ、腹いっぱいお食べ、満州に来て本当に良かったね。もう、お腹空かすことがないからね。何ぼ食べてもいいよといった。
 皆も、満州に来て本当に良かったと、幸せを感じていた。

noroshuhei5.jpg 満州に行った頃の写真。写真左から繁雄(野呂修平)、長女の以代子、以代子に抱っこされているのが以代子の子、六男省三、母ハル、四男の義雄、後ろに立っているのが次男の博

 *一果樹村の「果」は、本来「木」偏がありますが、パソコンにその文字がないので「果」で表現しています。

 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」アナウンサーが、興奮気味に、忙しく「臨時ニュース」があることを告げた。
 そして人々をラジオに引き付けるように、勇ましく『軍艦マーチ』が流された。
 昭和16年(一九四一)12月8日、午前7時、ちょうど朝のニュースの時間である。
 アナウンサーは、「大本営陸海軍部午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」、「大本営陸海軍部午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と繰り返し、大本営の発表を放送した。
 日本が、アメリカの真珠湾を奇襲攻撃。太平洋戦争の勃発の瞬間であった。
 太平洋戦争は、3年8ヵ月に及び、この戦争での死亡者は日本約310万人、中国約1300万人、朝鮮約20万人、そしてアメリカによる原爆投下など、日本のみならず、中国や東南アジアの国々に多大な犠牲を強いた戦争であった。
 戦争が始まった途端に、父の塗装業の仕事が全く無くなった。わずかある仕事といえば、空襲のとき飛行機から見えないようにと、煙突の文字消しやスレート瓦の屋根を黒く塗るぐらいのものであった。
 また、戦争の勃発と共に食糧事情が急激に悪化してきた。
 それは、米を作る農村では働き手である若者が軍隊にとられ、農業の担い手はお年寄りと女性になってしまったということ。生産された米は、優先的に戦地に送られたということ。そして、戦争でもって欧米からの食糧の輸入が途絶えたことなどによるものであった。
 みんな腹を空かしていた。そんなとき、「欲しがりません勝までは」のスローガンが発表された。
 そこでとられたのが、配給制度であった。
 生活必需品である、みそや醤油、塩、砂糖、マッチなどは昭和15年(一九四〇)4月から。米などの穀類は昭和16年(一九四一)4月から、配給制にされてた。
 このスローガンは、大政翼賛会と複数の大手新聞社、朝日、読売、毎日等が、「国民決意の標語」、つまり戦争を鼓舞するスローガンを募集したものであった。
 大政翼賛会とは、戦争へ突入するために、軍部の方針を追認し、支えるために、反対勢力を抹殺し、国会のすべての政党を、政党の理念を超えてまとめたものである。
 それに入選したのが、10歳の少女が作ったとされる「欲しがりません勝までは」であった。
 これは、国民の不満を、戦争に勝つまでは我慢しろという思想動員のスローガンであった。
 昭和14年(一九三九)にドイツが、ポーランドに侵攻したのをきっかけとして第二次世界大戦が勃発した。
 そのときから日本も、この戦争に参加するだろうことは予測していた。そのために、共産党など国内の反戦勢力を弾圧し、戦争への準備を着々と進めていた。
 そして、日本が真珠湾で奇襲攻撃を加えた後にアメリカに宣戦布告をした。
 こうして第二次世界大戦はヨーロッパのみならず、アメリカ、アジアを含めた名実共に世界を巻き込んだものとなったのである。
 戦争をやり遂げるためには国民にもわかりやすいスローガンが必要であった。
 それが、「欲しがりません勝までは」である。
 米の配給は、一人一日3合(430㌘)とされた。
 それも米が配給されたのは最初だけで、やがてさつまいもに替えられた。本間家には1ヵ月に1俵のさつまいもが配給された。
 育ち盛りの子供の多い本間家。その1俵のさつまいもを一家11人で食べるのである。しかも、学校へ弁当も持って行かなければならない。朝、玄関に母が作ってくれた弁当が5つ、6つ並ぶ。当然、さつまいもは半月しか持たなかった。
 皆、腹をすかしていた。
 父は腕のいい塗装工で人を何人か使っていた。が、肝心の仕事がない。食べるものもない。このままでは一家は餓死してしまう。
 国民がこういう状況に置かれている中で戦争に突入した大日本帝国。戦争を始める前から、負けは決まっていたようなものである。
 しかし、一家を預かるものとして、この状況を何とかしなければならない。父は、悩んだ末、皆を集めて家族会議を開いた。父は悲愴な顔で口を開いた。
 「仕事もない。このままでは一家心中しなければならない。今、東京都で第二次の満蒙開拓団を募集しているんだが、それに応募してみようと思う。皆はどうだろうか」
 「満州に行って何をやるの」
 「農業」
 「のうぎょうー!!」
 農業といわれて皆はエーッと思った。
 「学校はどうするの」
 「多分、たくさんの人が行くわけだから、満州にもあるだろう」など、様々な意見が出された。
 長男の持だけは、「俺は行きたくない」といって泣いた。
 持は、このときは16歳。今でいう高校1年の年齢である。長男であったことから尋常高等小学校まで行かせてもらっていた。
 世の中のことは、多分、父親より理解していた。
 世間では、満蒙開拓は「王道楽土」のように宣伝されていたが、そんなに楽ではないことを、噂や仲間の話から聞いていた。
 しかも、都会のど真ん中で生まれて農業なんて全く経験がない。父だってそうである。
 しかし、この非常時である。出来る、出来ないなんて考えてはいられない。今はともかく11人を食わせなければならない。満州に行ったら何とかなるだろう。
 「欲しがりません勝までは」自分の食い扶持は自分で賄なわなければならない。父も、考えた末の決断であった。
 満蒙開拓は、昭和6年(一九三一)、中国東北部の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。これを中国軍のしわざだと言いがかりをつけ、戦争を吹っかけた満州事変をきっかけに日本は満州を占領した。
 そして昭和11年(一九三六)に、当時の広田弘毅内閣は、満州開拓移民推進計画を決議。以後、満蒙開拓団として、約20万人の、農家の次、三男と、約2万人の家族移住者を送り込んだ。
 農家の次、三男は、満州に行く前に、農業の研修他、軍事的な訓練を受け、自ら開拓しながら、移民団をも守る「満州開拓青少年義勇軍」として送り込まれた。
 なぜ、農民が武装しなければならなかったのか。
 満州事変そのものが、日本が満州を占領するために仕掛けたものであった。
 と、同時に関東軍が日本からの移民団の土地を確保するために、匪賊が横行するという理由で、既存の満州の農民が耕作していた農村や土地を
「無人地帯」に指定し、地元農民を、新たに設けた
「集団部落」へ強制移住させた。
 そして、その無人地帯を安価で買い上げ、そこに移民団を移住させたのである。
 自分たちが耕してきた土地を強制的にとられた地元民は当然面白くない。半日運動も起こってくる。
 その満州の地元民から、日本から行った移民団を守るというのが、満蒙開拓少年義勇軍である。
 日本では、「王道楽土」、「五族協和」など、さも夢の土地であるかのようなスローガンが流され、移民団を募っていた。
 ともかくも、日本にいては11人が食って行くことができない。満州へ行こうということで家族が一致した。
 早速父は、大田区にあった満蒙開拓団の訓練所に行き6ヵ月間の訓練を受けた。
 こうして昭和17年(一九四二)8月、国境を越えて、見も知らぬ土地へ行く不安を抱きながら、祖父母と両親、子供7人の、一家11人は東京駅から汽車に乗った。
 開拓団の一行は、約50家族180名ほどであった。

 

 芸名・野呂修平、本名・間瀬繁雄、旧姓・本間繁雄の先祖は、山形県酒田市である。
 酒田市には、「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に...」と歌われた日本一の大地主・豪商である本間様のあったところである。
 本間様に及びもせぬが、せめて殿様になりたいとは、どれほどの大地主であったろうか。
 今でも酒田に行くと、本間様ゆかりの邸宅や美術館などがあるが、庄内平野一帯に3000町歩の田畑を持っていた。また北前船を持って商売していた豪商でもあった。
 それが、戦後の農地解放で没落したが、そんなことから酒田市には本間姓が結構多い。
 野呂修平(以下本間繁雄)の本間家は、祖父繁三郎の代に、その酒田から東京に出て来た。
 そして、祖父は国会議事堂の守衛をしていた。
 家は、現在の六本木ヒルズからそう遠くない、麻布十番通りの奥まったところにあり、当時バターボールで有名な篠崎製菓の向いにあった。
 父は、人を2、3人使い塗装業をやっていた。家は二軒長屋で、玄関を入って左の四畳半は祖父母部屋で、八畳くらいの居間があり、その奥が六畳の両親の部屋で、中庭にはペンキの缶が山と積まれていた。
 父甚五郎の自慢は、国会議事堂のてっぺんで塗装をやったことであった。また、ある乳業会社に仕事で、熊谷まで行ったと話していたこともあった。
 兄弟が7人で、子どもたちは居間で寝起きしていた。
 つまり、祖父母と両親、そして子ども7人の、併せて11人がこの小さな家で暮らしていた。
 本間繁雄は、父甚五郎、母ハルの四男として、昭和8年(一九三三)11月12日、この世に生を受けた。
 昭和8年は皇太子(現天皇)が生まれた年であり、また、マグニチュード8・1の三陸巨大地震が発生。高さ28・7㍍の津波が襲い、死者・行方不明者3064人を出した年である。
 一方、大正デモクラシーの影が薄れ、『蟹工船』などで人気作家であった小林多喜二が特攻警察に虐殺されるなど日本は軍国主義への道と傾斜していった時代でもある。
 兄弟は、長女以代子、長男持、次男博、三男義行、そして四男が繁雄で、五男義雄、六男省三であった。
 学校は尋常南山小学校である。長男の持は、高等中学校を卒業すると、池貝鉄工所に勤めていた。次兄の博は尋常小学校を卒業すると、父の塗装業を手伝い、夜間中学に通っていた。
 まだ小学校に通っていた、三男義行、四男繁雄、五男義雄の3人は、エネルギーを持て余し、しょっちゅう取っ組み合いをしていた。
 そんなこともあり、今はないが、近くの末広神社の例祭日に行なわれる相撲大会に出ても強かった。中でも長男持は明治神宮で行なわれた相撲大会で優勝したこともあった。
 篠崎製菓では、夕方になると大きな台を外に出して出来立ての飴を小粒に切る作業を始める。たんきり飴である。学校の帰りに寄ると、ホラ、ボウズ食えと飴をくれた。近所の子どもたちにとってはこれが楽しみであった。
 外での遊びは、めんこ(面子)、べいごま(貝独楽)、竹馬などであった。竹馬は2㍍以上もあり、家の庇に上りそこから乗った。
 また、近くに麻布山がありここには善福寺や賢崇寺などお寺が幾つかあった。
 繁雄は木登りが得意であった。麻布山の木に登ると、東京湾が見えた。
 夕方になると、木に登りよく東京湾にむかってラッパを吹いた。ラッパには、突撃ラッパ、行進ラッパ、消灯ラッパなどがあった。
 ラッパには、もちろん充て歌であるが、新兵さんはつらいね、寝てもまた泣くんだよ~という歌がついていた。しかし、それが新兵の本音でもあったろう。
 むかしはのどかである。ラッパを吹いても、誰もうるさいなどというものもいなかった。
 また、お寺には桃や枇杷、杏、そして柿の木があり、秋には柿の実がたわわと稔る。
 それを盗るのがガキどもの楽しみの一つであった。
 が、見つかると、コラーッと和尚が追いかけて来た。皆は、クモの子をちらすようにそれぞれバラバラに逃げた。もちろん、つかまったことなど一度もなかった。
 が、繁雄は、逃げるとき、鉄条網に左腕ひっかけて20㌢もの傷を負って、血だらけで帰り、母親にこっぴどく叱られたこともあった。そのときの傷が今だに5㌢ほど残っている。
 和尚は、悪戯する子どもたちが憎くて追いかけたのではなかった。
 実は、柿の木は非常に折れやすくて、柿の木に登り、枝が折れ、死んだという例が昔から数多くあった。もし、柿の木に登り、枝が折れ怪我でもさせたら大変なことである。
 だから、子どもたちに、あの和尚は怖い。つかまったら大変だと、わざと憎まれるように追いかけたのであった。
 また、雨が降る夜は、いたずらガキ同士で肝だめしをやった。お墓は、雨が降ると人魂が出るとの、もっぱらの噂であった。そのお墓に、べいごまを置いて来るのである。
 幽霊がまだ信じられていた時代である。一人でお墓に行くのは相当勇気がいった。しかし、意気地なしとはいわれたくない。
 唐傘を差し後ろを見、辺りほとりをキョロキョロ見ながら、一歩また一歩と進んで行く。手にはべいごまがかたく握りしめられている。カサッとでも音がするものならドキッと一瞬立ち止まり、辺りを振り見る。もう心臓がドッキンドッキンと高ぶる。そしてまた、一歩一歩足を進める。こうして無事お墓にべいごまを置いてくると一人前として認められた。
 また、十番通りには芸者の置屋があった。夕方になるとお風呂道具を抱えて風呂に行く姿はどことなく色っぽく、一つの風物詩でもあった。子どもたちにとって芸者は、天女でも見るように美しかった。
 この十番通りには、当時喜劇王として人気絶頂であったエノケン(榎本健一)の豪邸があった。神社の祭礼日などには、エノケンの名前でたくさん寄付をしてくれた。
 繁雄の母ハルは歌がうまかった。機嫌がいいとき歌うのは『まっくろけ節』である。
 『まっくろけ節』は、大正時代に活躍した演歌の添田唖然坊の作詞・作曲によるものである。
 唖然坊は、『ノンキ節』や『ゲンコツ節』など、社会を風刺する歌をたくさんつくり文化の面から大正デモクラシーを推し進めた人である。
 貧乏ながら、麻布での生活は楽しいものであった。しかし、それも長く続かなかった。 

noroikka.jpg 東京・港区麻布にいたころの本間一家。中央は祖父繁三郎、祖母たみ江。祖父の隣りが父甚五郎。甚五郎の後ろが長女の以代子父の斜め後ろが三男の義行。祖母の隣りが母ハル。ハルに抱かれているのが六男省三。その後ろで抱かれている子どもは、後に二代目ジャニーズで活躍した中谷良。前列右端が五男の義雄。左端が四男の繁雄(野呂修平)。後列左端が長男の持。右上のベースボールの形をしたのが次男の博。7人兄弟の11人家族であった。その他は従兄弟。

noroshuhei1.jpg 会場の熊谷市立文化会館は開演1時間前というのに、ロビーは人でごったがえしていた。
 ホールの入口には、新国立劇場舞踊芸術監督牧阿佐美、クボバレエアカデミー久保栄治・陽子など、よく名の知られたバレエ団の大きな生花や花篭が、五つ、六つ華やかに飾られていた。
 来場者の女性は年配の人が多いが、いいところの奥様であろう、品良く着物を着こなし、男性も一見文化人的な風貌をした人、あるいはこのまちの名士であろうと思われるような紳士淑女で溢れていた。
 その中に、ちょっと雰囲気のちがう10人ほどの集団がいた。野呂修平のふるさとである三本木高校の同級生、昭和27年度の卒業生たちである。
 彼らは、同級生である野呂修平の今日の晴れの舞台のために、首都圏から、あるいは盛岡、和歌山、そしてふるさとである十和田市から駆けつけたのである。
 今日の舞台は、野呂修平のバレエ生活55周年及び喜寿を記念しての、野呂修平創作バレエリサイタルである。
 聞くと、バレエダンサーで77歳で舞台に立っているのは、野呂修平を含め数人であるという。
 創作バレエは、棟方志功『わだばゴッホになるじゃ』である。
 その脚本は、やはり三本木高校時代の同級生で、映画作家・製作者の附田博である。附田博もまた、映画作家・製作者として現役で活動している。
 十和田市を遠く離れた熊谷で、青森県を題材にした創作バレエが、しかも十和田市出身者二人の手で行なわれる。
 勿論、主役の棟方志功及び振付・演出は野呂修平である。
 だからこそ、同級生たちも応援に駆けつけたのである。
 棟方志功は、野呂が高校時代、美術の時間に板画をやった。その板画の魅力に取りつかれた。その後、棟方志功がヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展で国際板画大賞を受賞した。
 その年は、野呂も服部・島田バレエ団で初舞台を踏んだ年であった。
 郷土の先輩が、世界で評価された、すごいな。俺も頑張らなくちゃと、一つの目標として深く心に刻んだ名前であった。
 それが数年前に、偶然に志功の作品を観る機会に恵まれた。改めて志功のすごさを感じた。昭和31年(一九五六)自分が初舞台を踏んだとき、志功が世界で評価された、そのときの想いがふつふつと甦ってきた。
 noroshuhei2.jpgよし、55周年、喜寿でやる作品は棟方志功だと決めた。
 野呂は、棟方志功記念館などを訪れ、作品を観、志功の生き様に触れ、益々志功への想いを強くした。
 早速、脚本を、同級生であり、友人でもある附田博に依頼した。
 附田は、三本木高校で同じ時クラスで、しかも二人とも演劇部に入っていた。卒業後は二人とも上京し、附田は映画の道、野呂はバレエと、それぞれの道を歩んでいた。が、二人とも文化の道に進み、野呂はこれまでに十和田湖を題材にしたバレエ『湖畔の乙女』を創作し、弘前、八戸で公演をしている。
 一方附田は、青森県民文化祭で、十和田湖伝説フォークローレミュージカルの脚本・演出を担当。当然野呂は、舞踊シーンを担当するなど、幾つかの舞台を共に創ってきた最も信頼できる仲間である。
 今回の棟方志功『わだばゴッホになるじゃ』の脚本を野呂から頼まれたとき、バレエには言葉がない。踊りと音楽での表現である。映画のシナリオより難しかった。
 附田も脚本を書くために青森に何度か通い、志功の作品を観、志功が生きた時代に想いを馳せ、脚本を書いた。
 こうして今日、発表の運びになったのである。
 もうそろそろ始まりますので会場にお入り下さいというアナウンス。
 会場は600名ほどのキャパシティであったが、満席である。二ベルが鳴ると同時に会場の照明が落とされた。
 真っ暗闇の中に、志功が最も好んだベードーヴェインの荘厳な音楽が響く。緞帳がゆっくりと上がってゆく。
 舞台では、板木に顔を摺りつけるようにして板画を彫る志功(野呂)。その姿が映像として、バックの幕に映し出される。
 観客を、一瞬にして舞台に引き付ける演出である。
 その周りを板の精や木の精たちが踊る。志功の心の葛藤を幻想的に表現した「幻想の場」である。
 志功の父は鍛冶屋であった。第二場は「鍛冶屋の場」である。父幸吉、母さだ、志功、そして炎の精が踊る。
 第三場「母さだの死」。志功の一番の理解者であった母が亡くなった。母さだの最後の励ましの言葉に、志功は決意を新たにし、舞台で3回もでんぐり返しをし、「わだばゴッホになるじゃ」と心の中で叫ぶ。
 でんぐり返しは、俺は生まれ変わるぞという、志功の決意の表現であった。
 第四場「志功の旅立ち」。こうして志功は上京する。
 15分の休憩に入る。
 noroshuhei4.jpg第二幕は、上京して、油絵を描くが、落選が続く。志功を信じ、そしてどんなときでも志功を支えた妻チャコの愛。やがてその愛が実る
 第一場、第二場、第三場と展開し、ついにヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展で大賞を受賞する。第四場は、郷土のねぶた祭りで幕が閉じる。
 フィナーレは、感動の拍手が鳴り止まず、引っ込んでは出引っ込んでは出、そして最後の最後に脚本の附田博も舞台に登場する。ますます高まる拍手。
 野呂修平のバレエ人生55年喜寿を記念した舞台は、こうして幕を閉じた。
 野呂は、幕が下りた後もしばらく舞台に立っていた 思えば、青森県三本木町一本木沢に一家で開拓に入りいつも腹を空かしていた少年時代。三本木高校の恩師で、音楽の長谷川芳美先生。附田博や木村ミヨら同級生、そして演劇の仲間の顔が次々に浮かんでは消えた。
 俺は自分の好きなことを77年間精一杯生きてきた。俺の人生に悔いはなし。
 野呂は顔を上げると、「ヨシッ」と自分に気合を入れ、急いでロビーに走った。
 ロビーには、舞台の興奮覚めやらぬ観客たちが、「ああ良かった。すごかったね」などと、興奮のるつぼである。
 その中に、鎌倉の志功記念館近くに住む野呂の知人もいた。野呂は、その知人を見つけると、「今日は良く来ていただきました。ありがとうございました」と、握手し、多分久しぶりに逢ったであろうハグしていた。
 さらに残っている人たちに握手し、「ありがとう、ありがとう」と、一人ひとり心からのお礼を述べた。
 その夜は、同級生たちと、高校時代の頃の話に花を咲かせながら、自分たちがもう喜寿だというのも忘れて、夜を徹して飲み明かした。

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