カオルのざっくばらん対談

大谷真樹(八戸学院大学学長)&小笠原カオル(BUNKA新聞社編集長)

 大谷真樹/昭和36年(1961)八戸市に生まれる。父が転勤族であったことから、父の転勤に伴い学校も、岡三沢小、三沢一中、三本木高校を経て五所川原高校卒業。学習院大学からNECに入りコンピューター関係の仕事に携わる。平成9年(1997)に市場調査会社㈱インフォプラントを設立。業界第2位の企業に成長させる。いわばIT成功者の一人である。
 その後、ふるさと八戸に戻り若い起業家を育てる「起業家養成講座」を開設。平成24年(2012)八戸学院大学学長に就任し現在に至る。

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 IT企業の成功者大学の学長となる

 小笠原 新年あけましておめでとうございます。
 大谷学長 おめでとうございます。
 小笠原 前回お話ししたのが2011年でした。
 大谷学長 あれから4年経っているわけだ。
 小笠原 早いですね。あのときは八戸大学総合研究所教授という立場でしたけれども100人の起業家を育て、青森県を日本の理想卿にしたいと語っておられました。
 そして2012年に学長に就任した。わっすごいなと思いました。まず若い、しかも教授からあがったというより、IT企業の成功者をよそから招いたという形なわけですよね。
 大谷学長 僕がすごいというより、僕を学長にした理事長の判断はすごいと思います。
 小笠原 確かにそれもあると思います。大谷さんを学長に招いたということは大学を変えたいという理事長の強い思いがあったからだと思うんですが、大学をどの様に改革したんですか。
 大谷学長 学長の任期は一期3年で今年の3月で一期目終了ということになりますが、3年の割にはいろいろできましたね。
 小笠原 どんな改革をなさったんですか。

 大学を改革する

大谷学長 まず最初にやったのは学校名変更です。
 前は八戸大学でした。その八戸大学と同じ学校法人の中に光星高校という全くイメージが合致しない高校がある。これを八戸学院にすることによって、八戸学院大学と八戸学院光星高校にした。これには諸先輩方、OBなどから相当反対意見がありました。
 小笠原 光星高校というと野球では全校的に有名ですからね。
 大谷学長 最初は八戸学院大学、八戸学院高校にする予定だったんですけれども、光星の名前を何故消すんだという猛烈な反対がありました。
 そこで光星という名前がテレビとか新聞に出たものをコマーシャル効果として計算してみたら23億ぐらいになったんですね。
 ところが光星高校に地名がついていない。全国のひとにはどこにある高校なのかわからない。八戸の名をあげたいのでということで説得して八戸学院光星高校にしたんです。
 全国のひとには八戸をはっととかいってはちのへと読めないひとが多い。八戸せんべい汁もそうですけれどもお陰様で八戸の知名度があがってきました。
 野辺地西高校も八戸学院野辺地西高校にした。
 小笠原 野辺地西高校から私たちどんぐりの森・山楽校では毎年熱気球を借りて打ち上げています。
 大谷学長 あ、KGマークのね。
 小笠原 そうです。
 大谷学長 僕は真っ先にやりたかったのがこの校名の変更だったんです。これが改革の第一段階です。
 第二段階は教育改革です。
 これまでの大学はうちだけじゃありませんが大学の教育ってむかしながらの研究者中心の世界だったんで、もっと実学というんでしょうか、地域が求める人材、地域に貢献できる人材を育成していくという方向に変えました。もちろん先生方は研究するのは構わないですよ。ですが私たちはどんなに頑張ったってノーベル賞を狙うような研究機関ではないですから、そういうことでカリキュラムを見直したんです。
 三つ目の改革は輝く女子をたくさん出そうです。
 それまでうちはサッカー、野球という男子スポーツが中心でした。ま、強いからいいですけれどね。中学校や高校で活躍している女子スポーツ選手が本格的にやりたいとなるとみんな中央に行っちゃうんですね。もったいないですよ。そこで女子スポーツを強化しようということで、一昨年から女子サッカー部をつくりました。
 小笠原 そうですよね。昨年なでしこジャパンに選ばれた十和田市出身の小原梨愛選手は地元の中学校を卒業すると、女子サッカーの強い常盤木高校(仙台)に行きましたからね。
 大谷学長 女子サッカー部は県内ではうちと弘前大学だけです。監督はスペインのプロを呼びました。
 小笠原 すごいですね。本格的ですね。
 大谷学長 女子サッカーは千葉学園とかにやっているひとがいるんだけれども、いい選手は東京に行っちゃうし、そうでないひとは折角高校までやっていながら大学にないからやめちゃうんですね。
 あとは陸上部はあったんですけども、その中に女子駅伝チームをつくりました。これは全国を狙っています。今短大を含めキャンパスが学生1000人のうち半分の500人が女子となり、だいぶ華やかというか活気がでてきました。
 同時に行ったのがマスメディア戦略です。かなり意識的に新聞に載せていただきました。その他地域でサッカーや野球教室もやりました。地域貢献ですね。校名変更のあと「八戸学院」という名前が結構新聞に出るようになりました。以前よりかなり増えていますね。
 これまでは光星高校が新聞に出ても大学とはつながらなかった。今では光星高校はもちろんですが大学も幼稚園もすべて頭に八戸学院とつきますから、中身が変わっていなくても露出度がすごく増えたようなイメージになりますよね。ニュース、イコール信頼ですからね。フェースブックも各部活ごとに設けて、試合結果はリアルタイムで発信するようにしています。これがマスメディア戦略です。
 それともう一つ僕が所長をやっていた総合研究所がありましたよね、あれを地域連携研究センターに改組しました。
 それまでは行政の委託、役所から仕事をもらって調査とか請負の事業が多かったんですが、それを提案型、問題解決型の組織に変えた。産学連携の窓口ですね。そのセンター長を僕が兼務している。
 その中の成果として大学発の健康プログラム。運動メニューとか、食事指導、生活習慣メニューなどを行っています。
 これはハーバード大学で開発した着ているだけで代謝が上がって痩せるというハイブリッドウェアです。これをモニターで1ヵ月実験したら4・4㌔体重が減った。体脂肪も3・5㌫落ちた。その中での食事メニューは、夜は炭水化物を軽めにしましょうとか、朝はなるべく生の野菜や果物にしましょう、白米でなく玄米にしましょう、肉よりは魚、魚よりは野菜にしましょう、1日たくさん水を飲みましょうとか、そういうアンチエイジング的なアドバイス、指導も全部入っている。

 アンチエイジング

 小笠原 このハイブリッドウェアは熱を逃がさないようにするとか?
 大谷学長 これは遠赤外線を出す塗料が塗ってあるんです。これを運動のとき着ると汗がすごいです。
 このハイブリッドウェアと食事メニューのプログラムを組み合わせで販売している。これまでは大学は研究機関で商売するということは考えられなかったんですが、近大マグロ(近畿大学)とか、大学がサービスを開発する時代です。青森県でいえば短命県返上のサービスとかね。それに関係するものをやろうということで、この前、五戸まきば温泉で断食プログラムを行ったんです。
 小笠原 ハイ、新聞で見ていました。
 大谷学長 三泊四日でこれまで3回やったのかな。平均2・3㌔落ちて、ま、落ちるのは水分だけだと思いますけれど、食習慣とか運動習慣とか気づきが出てくれればいいと思います。
 来年は禁煙プログラムをやろうと思っています。
 小笠原 今日ね、先生からお聞きしたいこと幾つか準備してきたんですけれどね、
 大谷学長 僕が勝手に一方的にしゃべって、
 小笠原 いや、そうじゃなくてね、私が今日ここに来て先生から聞きたかったこと、お話ししたかったことが全部含まれています。
 まず一つは発信力ね。さすがIT企業の成功者だと思いますね。こんなに発信している大学の学長なんて少なくても県内ではありませんよ。ヒルクライムっていうんですか学長自ら自転車に乗ってね。
 大谷学長 あれも体を張った広報です。
 (笑い)
 小笠原 私は新聞に載った先生の記事を切り抜きしているんですが結構多いですね。私はそれを見て勉強させていただいているんです。
 それから健康の面では、私がBUNKA新聞社の30周年記念に出したこの『実践的アンチエイジングの法』ですね、
 大谷学長 ハイいただいております。
 小笠原 私もアンチエイジングで、先生が今おっしゃった玄米と野菜を中心として1日一食で、
 大谷学長 一食ですか、
 小笠原 ハイ、でも酒が好きで、夜は晩酌しますからね。
 大谷学長 僕もね、我慢はストレスになるから良くないから、禁酒はやめてお酒はほどほどにしています。
 小笠原 でも、飲むといっても、納豆とか野菜、ヨーグルトを肴にして、赤ワインを健康飲料として飲んでいます。
 大谷学長 ポリフェノールですね。
 (笑い)
 小笠原 そうです。常にアンチエイジングを意識した食生活をしています。
 大谷学長 僕もね日本抗加齢医学会に入っているんでいろんな情報が入ってきます。本当は青森県ってアンチエイジングの食っていっぱいあるんですね。
 小笠原 そうなんですよね。それなのに全国一の短命県である。何故?今は長寿日本一になった長野と、かつて長寿日本一であった沖縄と比較してみるとわかるんですが、沖縄が日本に返還される国政参加選挙(昭和45年)のとき私は1ヵ月間パスポートを使って仕事で沖縄に行っていました。そのとき沖縄が女性も男性も寿命は日本一でした。それが今は女性は何とか第3位に留まっていますが、男性に至っては平均以下の第30位(平成25年)です。これは確実に食生活の変化です。結局は健康に対する意識の問題なんですね。
 大谷学長 本当の沖縄料理を食べると塩がほとんど入っていない。それと海藻類ですよね。今はアメリカ化して肉類が中心です。それが短命の原因ですよ。

 青森県の豊かさを発信する

 小笠原 それと私は先生からぜひご教授いただきたいと思っていたのは、BUNKA新聞社がお陰様で一昨年(平成25年)創立30周年を迎えました。と同時にこれからは新聞もネットの時代だと思いまして平成24年(二〇一二)に「ネット新聞夢追人」を発刊しました。そして満3年経った昨年暮れのアクセス数が23万4000件を超えました。それもアクセス数の一番多いのは東京で全アクセスの約32㌫と三分の一を占めています。
 大谷学長 それは県出身者ですか。
 小笠原 いやそうじゃないと思います。何故なら第2位は青森県ですが第3位は大阪、第7位は北海道、第11位は福岡、第12位は兵庫、第13位は京都ですからね。その中で、東京、埼玉、千葉、神奈川のいわゆる首都圏で約42㌫と全アクセス数の約4割を占めています。
 こ「のネット新聞夢追人」は、十和田という東北の片田舎から発信して、それを全国のひとが見てくれている。そのネット新聞を今後どのように発展させて行けばいいのか、先生にぜひご教授願えればと思います。
 大谷学長 むかしは地方は物理的な距離とか情報格差とか不利な要素がたくさんありました。が、今は地方も首都圏も情報の格差がほとんどない。地方に得られる情報と首都圏に得られる情報に時間差はない。むしろ地方の方が有利な要素がいっぱいある。今、逆転現象が起きている。
 ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)とか、生活面で首都圏で暮らすより地方の方が豊かに暮らせる。豊かさの基準が変わってきてる。むかしは県民所得や月収だという基準から変わってきている。
 特に青森県の豊かさは群を抜いている。海あり、山あり。海も4つでしょう。太平洋、日本海、津軽海峡、陸奥湾と、4種類の違う海を持っているというのは日本では青森県だけです。海から1時間も行けば山がある。海の幸、山の幸がある。津軽は米とりんごしかないけれど、県南、十和田地域には多種多様な野菜や果物がある。全国の地方都市を歩いているんですが、こんなに環境的に恵まれている地域ってそうないですよ。それを青森県人は気づいていない。あと温泉だってすごいでしょう。八甲田を中心に20㌔県内に様々な泉質の温泉がある。
 小笠原 そうです。十和田市の中心部から15㌔圏内、車で10分~20分のところに街中温泉が50ヵ所ある。これらは公衆浴場料金の390円で温泉に入られる。私も家に風呂はあるんですけれどもほとんど温泉です。
 大谷学長 そうでしょう。そういう食、観光、環境などの地域資源がたくさんあるということです。
 小笠原 なるほど、青森県のそういう豊かさを発信するということですね。

 4年間で17社誘致1200人の雇用を生む

 大谷学長 あと人材そのものもいいです。今日も午前中ヤフーが来ていて、今ヤフーの社員が250人ぐらいですが、それくらいの雇用が生まれている。みんなまじめでいいと本部長が来てお誉めいただいたんですけれども、人が良くて食が良くて環境が良くて、発信できる情報ってなんらひけをとらない。これらは圧倒的に地方が有利です。
 僕は4年前に「青森県を日本の理想郷にしたい」と話しましたよね、
 小笠原 ハイ、そうです。
 大谷学長 そのとき僕が雇用したのは20人でした。それが今は1200人です。
 小笠原 というと?
 大谷学長 僕がまだ大学に関わる前に自分の会社のIT事業部門を20人でスタートしました。それが今は250人になっています。それが引き金になってそれから17社を企業誘致したんです。僕が第1号になってその他ヤフー、マネックス証券とかいろんなカタカナのIT企業を誘致して、そこで働く社員が1200人ということです。
 小笠原 それがここ4年で八戸市に誘致した企業ということですか。
 大谷学長 そうです。
 小笠原 すごいですね。
 大谷学長 みんな口を揃えていうのが、青森県人はみんな真面目で優秀ですというんです。
 小笠原 こういうIT関係の仕事はどこにいてもできますから、大切なことはいい人材がいるかどうかということですね。
 大谷学長 そうです。僕が目指したことがやっと数字に表れて、実績になって今日来た企業も大学と提携したいということでした。大学と連携、産学連携して地域の人材を育てる、そういうことを企業も今考え始めている。それが今後の大学の在り方だと思っています。
 小笠原 私もネット新聞で人や環境など、十和田のいいものを発信してきた。それが「ネット新聞夢追人」のアクセスが首都圏がトップであるという理由がわかりました。
 大谷学長 これからは青森県の時代ですよ。ヤフーのトップニュースってヤフーの頁があるんですが、これは八戸にニュースカンパニーという部署があって、そこで作っているんです。
 小笠原 えっ、八戸から発信しているんですか。
 大谷学長 そうです。
 小笠原 それはすごいですね。先生とお話ししてBUNKA新聞社の今後の方向も見えてきたような気がします。私は今年73歳になりまして、今年度からBUNKA新聞社の代表を息子に譲りました。
 来年は十和田湖の国立公園指定80周年なんですが、県からの要請もあり、そちららの方にも関わることになりました。奥入瀬渓流の道は明治36年(一九〇三)に開かれたんですが、それまでの十和田湖へ行く道大変険しい山道を通って行ったんですね。今年はその古道を復活しようと思っております。
 それともう一つ、十和田市が新渡戸伝による稲生川の開削によって発展してきたんですが、伝の息子十次郎がもう一本開削しようとして未完に終わった穴堰があるんです。今年はそれをも復興しようと思っています。
 大谷学長 そりゃ楽しみですね。
 小笠原 それらを含め今後とも先生のご教授を願いたと思っております。今日はお忙しいところ貴重な時間を大変ありがとうございました。


黒沢一郎&小笠原カオル(下)

私たちはまだまだこれからだ

kurosawaitirou2.jpg 小笠原 私もね、この新聞を始めるとき似たような経験があるんです。40歳になるまで新聞を出すなんてこれぽっちも考えたことがなかった。
 私が40歳になったとき、我が家はほとんど80歳まで働いていたから、じゃ私も80歳、あと40年働かなければならない。そんなことを考えていたとき、学校の先生をやっていた知人が、新聞をやるから手伝ってくれと声をかけてくれたんです。
 新聞を発行するたって、書けるわけじゃないし、私はヰセキ農機でセールスをやっていましたから、広告とったり、新聞を増やすぐらいならできるだろう。これが人生を変えるきっかけになるかも知れないと、後先も考えずに会社をやめた。
 黒沢 一大決心だね。
 小笠原 ところがその知人、新聞を発刊する前に頓挫してしまった。それから1年後に自分で新聞を出して、今があるわけです。
 その知人が私に声をかけてくれなければ、新聞なんて全く考えも及ばなかった。だから今はその知人に感謝しています。
 黒沢 まさしく、人生出会いが大事ですよね。自分にとって、悪い出会いも、良い出会いも全て人生の肥やしですよ。
 以前編集長がいいましたよね。Y氏がいたから今のクロさんがいるんだと。
 小笠原 出会いだよなー。
 黒沢 ほんとうにそう思います。僕もY氏に感謝しているんです。
 僕が市議会議員をやっていたとき、十和田観光電鉄の出身ということで、観光議員と言われていた。
 Y氏は、当時、市商工観光課の課長だった。そんなことから、4年間十和田市の観光がどうあるべきかなど、議会で質問をしたり、意見をぶっつけあったりしていた。それからの付き合いだった。
 小笠原 クロさんたちがファックス情報紙をやるって聞いたとき、地域新聞が8社もあるまちとして「ズームイン朝!」(日本テレビ)にも取り上げられたほどの十和田市だから、また新しい新聞ができるなとぐらいにしか思っていなかった。
 しかし、タウン誌のアドバー社を買うということを聞いて、雑誌は印刷代が高いから、こりゃ大変だなと思ったわけ。それでBUNKA新聞社を買わないかとクロさんに電話したわけだ。
 黒沢 勿論タウン誌だけでは大変で、その他チラシとか求人広告なんかやって、トータルで経営をして行こうと考えていた。
 その他、相撲の星取りビンゴゲームとかもやった。
 しかし、二人で始めると、時には経営方針で意見が合わなかったりして、僕は独立したんです。
 初め「月刊ファミリー」という情報誌を発行したんだが、その頃になるとバブルも崩壊し、3K、すなわち雇用、広告、交際費を抑えるという時代に入っていて、広告収入もなかなか伸びない。それで新聞をあっさりとやめて、デザインに方向転換したわけだ。
 実は僕は東京ではデザインをやっていたんですよ。大学は電気専攻だったんですが、アルバイト先が広告の企画会社だった。
 小笠原 広告代理店ではなく?
 黒沢 制作ですね。松下電器(当時)とか、大手の企業の宣伝物を作っていた。これが今のデザイン会社のベースになっている。
 僕が十和田に帰ってきたのは昭和42年(一九六七)2月です。そして十和田観光電鉄に入って、2年間はバスの車掌をやった。
 小笠原 えっバスの車掌。
 黒沢 当時の杉本社長体制の時は、新入社員は全員路線バスの車掌をさせられた。それから2年ぐらいして自動車部管理課に配属された。そのとき十和田湖の双胴船名のロゴをデザインしてくれといわれたのが、十和田観光電鉄での最初のデザインの仕事でした。
 そして私鉄史上に残る十和田観光電鉄の大ストライキが勃発した。それがきっかけとなって労働組合の専従になったんだけれど、僕の根にあるのはやっぱり絵、デザインだな。
 実は、小学校6年生のとき図画で文部大臣賞をもらったんですよ。
 小笠原 凄いね。当時ですから新聞にも書かれたでしょう。
 黒沢 僕にとってそれがベースかもしれないね。大学受験のとき千葉大学の工学部デザイン学科を第一志望にした。なぜかというと、あそこは建築デザインで有名な大学だったんですよ。残念ながらその道には進めなかったけれど、心の中に常にデザインがあったね。
 時代の変化に合わせデザインにも変化があり、今でも毎日がデザインの勉強と考えています。
 小笠原 いや、凄いですよ。クロさんにはデザインの部分では主に本の表紙もやってもらっているわけだけれど、いつも凄いと思っています。これは、クロさんに備わった感性だね。それと、「とわだ夏おどり」「十和田市民大学講座」のポスターなんかね。
 「夏おどり」というと、クロさんとはまちづくりで一緒にやってきました。
 黒沢 最初は「まちづくり塾」でしたか。
 小笠原 私は、東京に2年間通い「まちづくりコーディネーター」の資格を取るための勉強をした。そして平成12年(二〇〇〇)に、北里大学名誉教授の和栗秀一先生を塾長に迎えて「まちづくり塾」を開講した。
 黒沢 そこから、北海道から道産子を6頭買い、生きた馬でのまちづくりが始まった。それがNPO法人十和田馬主協会と発展し、今では馬事公苑駒っこランドを運営している。
 小笠原 そして次に立ち上げたのは「NPO法人どんぐりの森・山楽校」と、「とわだ夏おどり」です。
 黒沢 すべて「まちづくり塾」が原点ですからね。
 小笠原 実はね、話し合いでなかなか前に進まないとき、私はチラッとクロさんの方を見るんですよ。そうするとクロさんは適切なアドバイスをしてくれた。ほんとうにいいパートナーとして、ずいぶん助けられてきました。改めてありがとうございました。
 黒沢 いやいや僕たちは、まだまだ夢がありますからこれからですよ。
 小笠原 本当にそう思います。まだまだこれからです。夢を持ち、お互いに頑張りましょう。ありがとうございました。

 【黒沢一郎】
 現在は、仕事の他、ボランティアでは、十和田湖ライオンズクラブ会員、十和田馬事振興協会事務局長、NPO法人十和田馬主協会副理事長、十和田馬事公苑副苑長、十和田駒フェスタ副実行委員長、とわだ夏おどり実行委員長などを務める。

黒沢一郎&小笠原カオル(上)

私は人に恵まれている
kurosawaitirou.jpg 小笠原
 私が新聞を発行して30年になるんですけれど、本当に人に恵まれて来たなと思っています。多くの人たちに教わり、助けられてきた。
 だってそうでしょう。40歳になるまで、文章さえ書いたことのなかった人間が、無謀にも新聞を発行して、色んな人たちに出会い、教えてもらい、助けてもらって、気がついたら30年経っていた。
 黒沢 30年って、一言でいうけれど長いですね。
 小笠原 その30年の中で私は黒沢さん(以下親しみを込めてクロさん)との出会いが大きかったと思っているんです。
 黒沢 ありがとうございました。
 小笠原 何故かというとね、一つは本の出版ですね。
 本の出版は、設立当初から考えていて、1周年のとき『シャモ馬鹿』でオール読物新人賞をとった森一彦さんの『女軍鶏師マサ』を出版していましたからね。
 その後要望があるたびに出版していたんです。それは、私が原稿をワープロで打って版下を作っていたんですね。ところが新聞を出しながらですから時間がなかなかとれない。
 ある方が、「早く出さないとオレ死んじゃうよ」といっていたんですが、本当に出版する前に亡くなってしまった。そんなのが2件ほどありました。
 「あッそうだ。クロさんがパソコンをやっていた筈だ。パソコンで版下を作れないんだろうか」と最初にお願いしたのが多分『教えるは学ぶの半ば』(橋本清著)だったと思うんです。
 以来、宣伝もしていないのに、BUNKA新聞社出版部の「文化出版」で、年2、3冊コンスタントに出版していますからね。これはクロさんのお陰ですよ。
 黒沢 出版では大変お世話になっています。
 小笠原 もう一つはパソコンです。ワープロの時代は私は一歩も二歩も進んでいたと思うんです。ワープロで新聞の版下、本の版下を作っていましたからね。
 ところがパソコンの時代になった途端、横文字に弱く全くついて行けなくなった。
 私は、中学校1年生のときは英語が大好きだったんです。1年生の冬に骨隋炎という骨が腐る病気になって半年学校を休んだ。それから英語の授業について行けなくなった。
 ワープロからパソコンに切り替えるとき全部クロさんにセットしてもらった。わからないことがあればすぐ電話をして、ここどうするのと聞く。そして今は、ネット新聞まで出せるようになった。本当にこれはクロさんのお陰だと思っています。30年の歴史の中で、クロさんとの出会いは、私にとっては大きな出会いでした。改めてありがとうございました(笑い)。
 黒沢 いやー、俺も息子がIT産業に勤務しているので、息子から学びましたよ(笑い)。ところで『教えるは...』を出したのは何年ですか。
 小笠原 平成9年(一九九七)3月ですね。
 黒沢 そうすると16年ということですか。現在編集中の出版物で40冊近いでしょう、ずいぶんかかわってきたなと改めて感謝します。
 小笠原 ですからクロさんとの付き合いは、BUNKA新聞社の歴史の半分ですよ。
 私が最初にクロさんに電話したのが、BUNKA新聞社の10周年のころですから、多分平成4年(一九九二)ころだったと思います。
 何故電話したかというと、私は20代は東京の劇団にいて、30代は帰って来てサラリーマンをやった。40代は新聞をやったというように10年ごとに仕事が変わっていた。じゃ50代は小説家になろうと馬鹿なことを考えていた。今でもその夢は捨てていないんですがね。
 そんなときクロさんたちがタウン誌のアドバー社を買うという情報が入ってきた。借金さえなくなれば何とかなるだろう。タウン誌は印刷代が高くて大変だというのを知っていたからね。だからアドバー社を買うよりBUNKA新聞社を買わないかと電話したわけだ。
 そのときまで私はクロさんとは一度も話したことがなかった。でも何故かクロさんに電話をした。その後の長い付き合いの始まりです。
 黒沢 その電話をもらった記憶があります。
 俺も自由奔放で、Y氏と会社作るかといって、当時『県南新聞』に、「黒沢十鉄辞める。Y氏も商工会議所専務を辞める。二人で何をやるのか」と大きく書かれました。
 そして二人で辞めて、俺たちにはペンとアイディアしかないと情報新聞十和田タイムリー社を立ち上げた。
 当時の福万組の社長に挨拶に行ったら、社長が、「お前たちね、資本もないのに商売やるなんて考えられないよ」といわれたんです(笑い)。
 小笠原 本当だよね。BUNKA新聞社も資本ゼロから始めたからね。
 黒沢 そうこうしているうちにタウン誌のアドバー社の売却問題が出てきて、商売にイロハも知らない俺たちが、有限会社だったアドバー社に役員として入って、社長が代わり、社名も変えるという手法をとった。
 それでY氏が社長で、私が専務となった。が、実際にやってみると経営に関してはY氏も私も素人だし、経営方針の違いから平成6年(一九九四)に、俺が独立したわけだ。
 考えて見ると、それから19年、来年20周年だね。
 小笠原 早いね。
 黒沢 廻りではY氏に対して厳しい見方もあったが、私にとってサラリーマンから自営業に導いてくれたと、今では感謝しています。        

 黒沢一郎プロフィール
 
一九四三年東京都中野区に生まれる。父の実家である岩手県を経て、母の勤務地であった十和田市に移住。
 三本木高校、東京電機大学卒業。広告デザイン会社内外企画(東京)勤務。昭和43年(一九六八)十和田観光電鉄㈱入社。平成4年(一九九二)十和田タイムリー社創業。平成6年(一九九四)独立しアイクリエイト創業。平成23年(二〇一一)法人化。

伊藤一允&小笠原カオル(下)

あなたは退職して地域のために何をしますか

itoukazumitu.jpg 伊藤 私が歴史研究の道に入るきっかけは、下切田小学校にいたとき、小学校の100周年記念誌をつくるその担当になった。
 そのときPTAの役員のひとたちが私を引っ張り廻してくれた。
 今でこそ古文書を読めるけれども、そのときは全く読めなかった。そのとき感じたのは、地域の歴史がこのように古文書として残っている。しかし俺たちは読めないから、お前勉強して読んでくれよという、地域のひとたちの痛切な願いだったんです。
 そのことが私を歴史の道に向わせてくれたと思っています。もちろん私は、歴史教育者協議会という教師の会のサークルに入っていたので歴史に関心があったことも確かです。
 だけどそれは、日本という大きな枠の中での歴史であって、地域の細々とした歴史まで知るということまで目がいかなかった。それを見開かせてくれたのが下切田地域の父兄だったんです。
 小笠原 人生の転換期には、何かのきっかけなり、出会いがあるんですよね。
 伊藤 そうです。下切田でいろんな史料を集めたり、写真を撮った。そのころ『十和田市史』の編纂室があって、そこに工藤佑先生がいた。その史料を工藤先生に提供した。それでさっき話したように、『七戸町史』の教育編をやっていた和田四郎先生が倒れたから、代わりにやってくれといわれて盛田稔先生を紹介されたわけだ。
 小笠原 そのとき初めて盛田先生に会ったんですか。
 伊藤 盛田先生の講座は何回か聞いていたけどね。話をするのは初めてでした。それが『青森県地名大辞典』を書くきっかけになったわけだ。だから、そこまで行く道筋なり、きっかけがあるんだよね。
 小笠原 「ふるさとを歩く会」を10年間やって、延べ会員にすると100人ぐらいになるかね。その100人の中から、1人でも2人でも歴史に興味をもって、研究してくれるひとが出てくれればいいと思っていたが1人も出なかった。
 そんなこともあり10年でやめたけれど、今考えてみると、続けていれば良かったのかな。
 伊藤 あれはあれでよかったと思います。10年ひと昔といいますから、多分違った形でやって行かなければならなかったと思いますよ。
 私自身その後、古文書の解読会をやってきたし、歴史の十和田市民講座、これも8年目になる。これには40人ぐらい参加しています。
 小笠原 それは、「ふるさとを歩く会」からの発展と見ていいんですよね。
 私もね、「ふるさとを歩く会」の10年間を何らかの形でまとめたい。しかし、あまりにも範囲が広くてまとめようがない。そこで、70回の中から松浦武四郎が歩いた道にテーマを絞って、東正士さんと二人でもう一度松浦武四郎の道を歩いてまとめたのが『十和田湖はむかし信仰の湖だった 古道を歩く』(文化出版刊)なんですね。
 伊藤 だから一つの区切りがついたんじゃないですか。実はこの前(平成25年3月17日)南部町で、第1回南部学研究会というのが開かれたんです。
 小笠原 ハイ、新聞で見ていました。
 伊藤 斎藤利男先生(弘前大学教授)が記念講演をやったんですけれど、大変盛況でした。あの小さな町で400人集まったからね。
 十和田市から行ったのは私と、中野渡武信さんの二人だけだった。ところが(旧)天間林から皆で誘い合ってバス一台で来たというんです。それから七戸からも来ていたしね。十和田の2人はちょっと寂しかったね。
 地域で何かやろうとしたとき、皆に誘いかけ組織するだけの力量を持っているひとがいるかどうか、それが大切だと思うんです。
 あなたがやっているどんぐりの森・山楽校の川村清市先生(北里大学名誉教授)とか、小林裕志先生(北里大学名誉教授)なんかそうでしょう。
 小笠原 まさにそうです。「ふるさとを歩く会」をやめたあと、生涯学習まちづくり協会の福留強先生(聖徳大学教授)を知って、まちづくりのノウハウを学ぶために2年間東京に通い、まちづくりコーディネーターの資格をとったんです。
 じゃ、何をするかと考えたとき、北里大学の先生方はこの地域では最高の知識人である。変ないい方ですけれど、そのひとたちが、定年退職して悠々自適なんてもったいない。地域のために活用できないか。そう思って最初に声をかけたのが退職したばかりの和栗秀一先生(北里大学名誉教授)だったんです。
 それで和栗秀一先生に塾長になっていただいて「まちづくり塾」を立ち上げた。そのまちづくり塾で、生きた馬でまちづくりをしようということになって北海道から6頭の道産子(和種馬)を買って来て馬主協会をつくった。それが駒っ子牧場を管理することになって、今は指定管理者として駒っこランドを運営している。
 次にやったのが「どんぐりの森・山楽校」ですね。これも退職したばかりの川村清市先生に声をかけたら快く引き受けてくれた。今年で8年目になりますけれど、今はNPO法人として自然環境分野で様々な活動をしている。
 そして昨年、小林先生が退職した。小林先生もやはり、自然環境を守る「蒼星の森」を立ち上げ活動し始めた。
 退職して悠々自適ではなく、この地域のために何をするかだよね。
 伊藤 そこなんだよね。小林さんだってもともとここのひとじゃないんでしょう。
 小笠原 岩手です。
 伊藤 今あなたが話した北里大学の先生方って全部よそから来たひとでしょう。
 小笠原 そうです。
 伊藤 私だってもともとはここじゃないからね。
 小笠原 伊藤さんとは30年近いお付き合いになりますけれど、80歳という歳を聞いて正直なところびっくりしているんです。だって30年前と、ちょっと太ったかなと思う程度であまり変わっていない。むしろ先生をやっていた頃より忙しく活動している。
 伊藤 だからね、人生において大事なのは晩年で、退職して地域のために何をするかなんだよね。
 小笠原 全く大賛成です。盛田稔先生は今96歳。伊藤さんも80歳といっても盛田先生から見るとまだ16年ある。私は25年もある。
 伊藤 私は、これまで研究して来たことをテーマごとにまとめて出版したいと思っているし、まだまだやりたいことはたくさんあります。
 小笠原 伊藤さんとか盛田先生から見ると、私なんてまだまだ若造です。そういう先輩がいるから私も頑張れる。今後ともご指導よろしくお願いします。

伊藤一允(地域史研究者)& 小笠原カオル(本社編集長)

「ふるさとを歩く会」10年間で70ヵ所探索する

 itouozsumitu.jpg小笠原 BUNKA新聞社は、おかげ様で30年になりました。
 伊藤 もう、そんなになるのか。早いね。
 小笠原 ハイ、40歳まで全く書いたことのなかった私が、無謀にも新聞を出すことになって、なんとか30年間やってこられたのは、色んなひとからの応援やアドバイスがあったからだと思っています。
 BUNKA新聞社は、昭和58年(一九八三)11月に創刊。創刊の社是に、「ふるさとの歴史・文化・人の掘り起こし」掲げた。そういうことから伊藤さんに昭和60年(一九八五)1月号から「十和田歴史散歩」を書いていただいた。それが伊藤さんとの付き合いの始まりです。以来30年近く、本当にべったりと(笑い)、様々なアドバイスをいただいてきました。
 伊藤さんと出会って一番大きかったのは、伊藤さんの提案で、足で歩いて、地域の歴史を知り、掘り起こそうということで、「ふるさとを歩く会」を立ち上げて、10年間で70回やったことですね。
 伊藤 まあ、よく歩いたね。
 小笠原 私は、伊藤さんと出会ってから、書き方が変わった。物事を表面だけ書くのではなく、時代の流れの中で、あるいは歴史的背景を見ながらに書くようになった。だから私の物の見方の基礎をつくってくれたと思っています。
 伊藤 私もね、そのころから歴史に本格的にかかわるようになったんです。
 それまで私は教育史を中心にやっていた。
 あるとき工藤祐先生から、『七戸町史』の教育編をやっている和田四郎先生が病気で倒れたから代わりにやってくれないかといわれたんです。
 それで、盛田稔先生(当時青森大学学長)とお会いして、良ければ引き受けますといったんです。
 それで盛田先生のところに行ったら、そのとき盛田先生は『七戸町史』のことは何にもいわず、『地名辞典』を手伝ってくれっていわれて、実はびっくりしたんです。
 それまで七戸では、明治5年(一八七二)に七戸小学校が開校したということになっていたんですが、私が調べたところでは明治6年(一八七三)なんですね。
 そういうことをはっきり書いていいんですかといったら、盛田先生は、歴史というのは当然調べて正しいことを書かなければならないんだから、それでいいということになって、『地名辞典』にかかわることになったんです。
 小笠原 それは何年ですか。
 伊藤 『地名辞典』が出る1年ちょっとぐらい前かな。
 小笠原 『地名辞典』の出版は昭和60年6月ですから、58、59年ころですね。
 伊藤 それで、私一人じゃ出来ないですから山崎栄作さんに東北町を、現代地名のうち八重樫盟さんに十和田湖町、松浦勉さんに六戸町、高木陽一さんに百石町をお願いし、神社仏閣を苫米地繁雄さんにと、多くのひとの協力でできたんです。
 これが私が、教育史以外で本格的にこの地域史にかかわった最初なんです。
 小笠原 それで、『地名辞典』が出版されたあと、伊藤さんが、上北地域を書いたひとたちだけでも集まって祝賀会をやろうじゃないか。新聞社をやっているんだからお前が事務局をやれっということで、昭和61年1月に祝賀会をやった。
 そのとき盛田稔先生に初めてあったし、それが縁となって盛田先生から様々なアドバイスや原稿を書いていただいた。
 一期一会というけれど、出会いが大切ですね。
 それともう一つ、そのとき伊藤さんから「ふるさとを歩く会」の提案があった。
 伊藤 自分が調べて本になったことには達成感があったけれど、それでもって他のひとを案内して歩けるかというと、頭の中ではわかるけれど実際には知らない。
 そこに後沢良太郎さん(地域史研究家)と東正士さん(地域史研究家)がいた。
 それで、後沢さん、東さんに案内人になってもらって、勉強したいという気持ちがあって、やろうと提案したわけだ。
 それが大変評判がよくて10年間続け70回もやった。
 私にとって、良かったのは、あんたと二人で下見したことでしょう。
 小笠原 やる前には必ず下見したからね。
 伊藤 だから他の人の倍見ているわけだからね。「歩く会」をやって一番勉強したのが、あんたと私なわけだ。
 その下見をする中で、あんたの歴史を見る目が養われたと思うし、私もみんなを案内しながら、地域の中であんまり考えてこなかったことが、こういうような物の見方もあるんだなと、本当に学ばされたね。
 小笠原 BUNKA新聞社の30年を振り返ってみたときね、最初の10年は、今話したように、「ふるさとを歩く会」を中心に、地域の歴史の掘り起こしを行なった。
 次の10年は、文化協会の事務局をやっていたんで、「市民ミュージカル」とか「野外文芸館」などの文化でのまちづくり運動を行なった。
 そして次の10年は、「馬でのまちづくり」や「どんぐりの森・山楽校」など、いわゆるまちづくり運動に携わった。BUNKA新聞社の30年は、このように10年ごとに区切られるんですね。

 伊藤一允プロフィール
 昭和8年(一九三三)2月、三重県出身。上海を経て中学3年生のとき十和田市に移住。昭和27年(一九五二)4月、三本木高校卒業と同時に小学校の助教諭として教壇に立つ。その後通信教育で大学を卒業。
 昭和50年(一九七五)、下切田小学校「百周年記念誌」の編纂に携わったことから歴史に興味をもち、昭和60年(一九八五)に出版された『青森県地名辞典』(角川書店刊)に執筆。また、同年1月号より本紙に「十和田歴史散歩」を執筆。
 昭和61年(一九八六)「ふるさとを歩く会」を立上げ10年間で70ヵ所神社仏閣や歴史的地域を訪ねる。
 平成16年(二〇〇四)に発刊された『十和田湖町史』編纂委員長。
 現在、北東北古代中世史の見直しと、ヌカノブの馬史にとりくんでいる。

 小林裕志(北里大学名誉教授)小笠原カオル(本社編集長)

 孫世代に循環型社会の構築を

kobayasihirosi.jpg 小笠原 孫世代に負の遺産を残すな。その通りだと思います。それでは具体的にはどうしたらいいんでしょうか。
 小林 私が長くやってきたのは循環保全型農業なんですね。それを、農業だけでなく、社会全体を循環型社会にして行くというのが私のテーマです。循環型社会を構築して行くには、食育という言葉がありますけれど、子どもたちを巻き込んで行かなければならない。
 たとえば十和田市の人口は6万ちょっとです。この6万市民を循環型社会に取り込むということが大事です。取り込むために誰の力が必要かというと、女性、お母さんです。お母さんが身体を張って守るのは子どもなんです。
 福島の原発事故を見てごらん。子どもを放射能から守るために、旦那と別居してまで避難しているお母さん方がたくさんいるでしょう。
 産業には転入型と内発型がありますよね。内発型は地場産業の育成です。地場産業は十和田市の場合は農業です。
 しかし、循環型という観点から見ると、農業と地域の消費社会が結びついていない。
 どうすれば結びつけられるか。農家で採れるお米や野菜を、都会に出荷するのも大事ですが、まず学校給食で100㌫地元の食材を使う。そして残飯が出るでしょう。いわゆる生ゴミです。それを堆肥化して農家に還元する。
 ここで大切なのは、堆肥化できる生ゴミと、そうでないものの分別です。
 この学校教育としてやっていることを、今度は家庭に広げて行く。そして家庭で出る生ゴミも堆肥化して農家に還元して行く。子どもが学校でやっている事ですから、「お母さん生ゴミは堆肥にするんだからちゃんと分別しなければ駄目ですよ」と、子どもにいわれると、大概のお母さんは、「ハイわかった」といいますよね。だから、循環型社会を創出するためには、子どもを巻き込んでいかなければ駄目です。
 小笠原 それって意識の問題ですよね。
 小林 そうです。だからね、ゴミの分別についての正しいノウハウを教育委員が、学校に通達すればいいんですよ。これは行政の仕事です。
 そうすれば学校ではそれを子どもたちに教育する。その教育を受けた子どもたちが家庭に帰って、お母さんがいい加減に分別していると、子どもに注意される。そうすればお母さんも子どもに従います。
 こうして6万人が食べた残飯が肥料になったら、ものすごい量が循環するわけです。
 その有機肥料を使って農家が、低農薬の安全な野菜をつくる。その安全な野菜を最優先に学校、あるいは市民に食べてもらう。これが循環型社会ですよ。
 小笠原 それは江戸時代から昭和30年代まで行なわれていたことでしょう。
 私は、昭和35年(一九六〇)の春、三農を卒業したんですが、学校のトイレから大きな柄杓で糞尿を下肥樽に汲み、担いで畑に運んで肥料として使っていたんです。いやー臭くて大変でしたよ。でも、それが当たり前だった。
 小林 その人糞には面白い話があってね、徳川家康が江戸に幕府を開いたとき、あそこは火山灰地でしたから不毛の地だった。
 しかし、たくさんの人たちが集まってきた。その排泄物が出る。その人糞を使って野菜をつくる様になった。こうして江戸の真ん中で作物が採れるようになった。それが終戦後まで続いた。
 小笠原 今、先生がおっしゃったように、日本には循環型社会のそういう下地があるんですね。
 現在でも、生ゴミまではいっていませんが、プラスチック、カン、ビン、粗大ゴミなど、分別してゴミの収集をやっていますよね。
 ですからこれは意識の問題で、行政なり農協が、生ゴミから堆肥をつくる施設をつくったら、案外出来るんじゃないですか。
 小林 だから意識なんですよ。原発の問題もそうです。私がいつもいっているように、経済はもちろん大事ですよ。しかし、経済より大事なのが生命なんです。
 小笠原 私が、昨年9月号の「へそ曲がり編集長のおもしろ本紹介」で、『給食で死ぬ』という本を紹介したんですが、これはね、いじめ・非行・校内暴力で大変だった学校が、学校給食を日本食に変えたとたんに、それが一切なくなったという実話の記録なんです。
 子どもの将来を考えてもやっぱり一番大切なものは食なんですね。
 それと、沖縄がかつては寿命日本一だったものが、この前の厚生省の発表では、女性が第3位、男性がなんと30位に転落した。沖縄の医師会が慌てているんですね。これはすべて食生活です。
 小林 そうなんです。なんで有機農業がいいかというと、有機野菜にはミネラルがたくさん含まれています。ですから、一番大切なのは、循環型教育です。

 BUNKA新聞社次の30年にアドバイス

kobayasi2.jpg 小笠原 私はおかげ様で30年やってきました。それも小林先生をはじめ、たくさんの方々のアドバイスや教えがあったからこそやってこれたと思っています。
 私はあと30年やって行きたいとの夢を持っています。次の30年に向かっての、BUNKA新聞社の課題はなんでしょうか。
 小林 人間なんのために生きているかというと、最終的は「心身共に、健やかな生活の持続」(上記図)です。そのためにはまずHealth。健康ですよね。医食同源という言葉がありますが、健康の原点は食です。
 二つ目は、Arts,Culture&Sports。芸術、あるいはスポーツを楽しむ。これは心の豊かさの問題です。
 三つ目は、Nature&Ecology、自然との共生ですね。
 これを束ねて、十和田市の地域資源にして行く。それをどのようにして全国発信して行くか。それがBUNKA新聞の仕事ですよ。
 小笠原 あ、そうなんですね。ネット新聞「夢追人」を見ていただければわかりますが、実は、私が30年間やってきて、行き着いたのがそれなんですよ。
 ヘルスでは、現在「実践的アンチエイジング講座」を書いているように、それを追求してました。
 カルチャーは、BUNKA新聞はもともとそこから出発しています。また、スポーツでは十和田の休日乗馬クラブなどを行なっています。
 エコロジーでは、どんぐりの森・山楽校をやり、そして蒼星の森にも参加し、それらを全国に発信しています。
 そのアクセス数がすでに8万件を越え、10万件はもうすぐそこです。今後さらにそれをおう盛に進めて行く。BUNKA新聞の次の30年先が見えてきたような気がします。ありがとうございました。

小林裕志(北里大学名誉教授)小笠原カオル(本社編集長)

北里大学とBUNKA新聞社

kobayasihirosi.jpg 小笠原 おかげ様で、今年(平成25年)無事30周年を迎えることができました。
 「文化」を標榜した新聞として、曲りなりにも30年間やって来られたのは、小林先生との出会いが大きかったと思っております。
 私が新聞を始めたのは昭和58年(一九八三)でした。小林先生と最初にお会いしたのは、その翌年の昭和59年(一九八四)なんです。
 その頃、北里大学と市民とあまりしっくりといっていなかった。町内会からは、学生はゴミ出し日を守らないとか、夜遅くまで騒ぐとかね。
 小林 そう、いろいろいわれましたね。
 小笠原 私は、ちょっとおかしいんじゃない。北里大学には学生が約1500人、教職員が約150人いる。
 人口わずか6万程度の地方の小都市に、大学院まである大学あるというのがそう多くない。しかも、大学の先生というのはその地域の最高の知識人ですよ。そして1500人の若者たち。
 経済的にみても、ざっと計算してみると、学生、大学当局と併せ年間約60億円の経済効果がある。
 北里大学があるということは、十和田市の都市の価値を高めている。ということで、「創設18年‐十和田市にとって北里大学とは何か!!」というテーマで、北里大学獣医学部の全学科、全研究室を取材させていただいたのが最初なんです。
 小林先生の畜産土木工学科を取材したのはその夏ころでした。小林先生が、不耕起草地の実験牧場ということで、田代平に行っているときでした。
 そのとき先生が、誰もこんな山奥に取材来た記者はいないよといいました。
 それをきっかけとして先生は、BUNKA新聞に、市民講座「『農業は地球を救う』か?」というテーマで連載していただきました。
 その後、小林先生以外にもたくさんの先生方に書いていただきましたが、北里大学の先生も書いている新聞ということで、BUNKA新聞は、「文化」を標榜しても恥ずかしくない新聞になったと思っています。

 日本の稲作農業は文化だ 

 小林 カオルさんは、BUNKA新聞に農業問題も取り上げて来た。
 小笠原 ハイ、私自身も農家の長男坊ですし、この仕事をやる前は農機具会社に勤めていましたから。
 小林 農業の問題では、私もBUNKA新聞に色んな意見を書いてきたよね。
 農業問題で、今差し迫った問題はTPPですけれども、基本的にはアメリカのいいなりになっているということです。
 日本の農業は、勿論食べものを作るわけですけれど、それだけじゃなくて、その中に文化とか生き方とかの問題を内包している。
 アメリカは歴史の浅い国ですから、地平線の彼方まで飛行機で種を蒔いたり、農薬を蒔く農業です。要するに、収穫して売ればいい、金が儲かればいいという農業です。
 日本の農業、特に水田稲作というのは弥生時代から今日までずうっと連綿と続いてきているわけでしょう。そこに共同体があって、お祭りや様々な行事が生まれてきている。日本の文化の根源です。
 一方、TPPは経済問題です。昨年だったか。JA(農協)が主催してのTPP反対の決起集会があったんです。そのとき講師として東京から来た先生の講演は、最初から最後までお金の話だけだったんです。
 日本の農業をお金の立場で見るのであれば、経済学の論理でいうと、日本の農業をやめて、オーストラリアとかアメリカの安い農産物を買った方がいいですよ。
 地平線の彼方まで飛行機をとばして種を蒔いているアメリカ農業と、日本では一番大きい農地の八郎潟を比較しても、コストの面では絶対かないません。
 日本は昭和20年(一九四五)の敗戦直後から、アメリカに追いつき追い越せと、ただひたすら経済の高度成長をすすめ、とどの詰まりは原発に行ったわけだ。
 そして不幸なことに、3・11があり、原発の事故が起き、未だに16万人が難民になっています。
 難民なんですよ。私の教え子で難民になっているのが何人もいるんです。
 彼らが故郷を捨なければならなかったという現実は、私が一貫して申し上げているように、「過ぎたる工業社会は人類を幸せにできない」の典型ですよ。
 カオルさんが知っているように、私は20年前から21世紀は環境の時代だといってきたんでしょう。 
 小笠原 ハイそうです。20年前のBUNKA新聞にもそう書いています。
 小林 私は20年前から、21世紀は環境が大変な時代になりますよと、警告を発して、本当の幸せとは何か、何を持って発展とするかということを考え直しましょう、といってきました。
 しかしながら、3・11の悲劇がおきて、16万人の同胞を難民にさせてしまいました。
 そして、あれからわずか2年しか経っていないのに、16万難民の悲劇は、二度と起こさないような、「真の豊かさ」を求める日本社会にリセットしましょうと本気で主張する政治家、財界人、マスコミ人は、ほとんどいなくなってしまった。
 私の教え子の家庭なんか、子どもの放射能の影響は20年後でなければわからない、子どもだけは放射能から守りたいと、奥さんと子どもを別居して放射能の影響の少ないところに住まわせているわけです。家庭崩壊ですよね。
 それが全く解決していないのに、ぐちゃぐちゃ理由をつけて、再稼動を唱えるのは、同じ日本人なのですかといいたい。悲しいことです。

 「原発難民」を生み出した過ぎたる工業社会

 小笠原 今、先生がおっしゃった原発事故で故郷を離れている人たちを、一般のマスコミは避難者といっていますけれど、これは先生のおっしゃるように、原発事故難民ですよ。
 私たちは、難民というと一般的には中近東やアフリカで内戦とかで、それから命を守るために逃げている人たちが難民だと思っていたんですけれども、これは戦争と放射能の違いだけで、そこから命を守るために逃げている人たちですから、原発事故難民というのが正しい表記ですよね。
 それを「避難」という言葉を使って、原発事故を曖昧にしているような気がするんですね。
 小林 中近東とかアフリカの方々は戦争難民です。福島の方々は、「過ぎたる工業社会は人類を幸せにできない」といったでしょう。「過ぎたる工業社会」の工業難民、あるいは原発事故難民ですよ。
 小笠原 まさに先生のいう通りです。これは、今起こっている事実をどうとらえるかという意識の問題だと思うんですね。
 具体的な事実を客観的に見ると、先生のいう工業難民、あるいは原発事故難民ですよ。今まで先生のような表現した人はいませんでした。初めて聞きました。原発事故難民、あるいは放射能難民だというと、こりゃ大変なことだと、その言葉に緊迫性が出てきますよね。
 小林 福島原発のある双葉町、大熊町、20㌔圏内の南相馬市、浪江町、富岡町楢葉町などは、自分の生まれ故郷がなくなるわけですからね。村の人たちがばらばらになる。家族がばらばらになる。家庭崩壊ですよ。
 その難民に、汚染解除したから帰れといっても、子どものいるお母さんは帰れませんし、帰らない方が正しいですよ。
 チェルノブイリの原発事故の例を見てわかるように、20年後に放射能の影響で異常な子どもが生まれて泣いたって誰が責任をとるんですか。
 ですからね、私は原発事故現場周辺全部を国有地にして、放射能廃棄物や汚染物を全部集めて、永遠にあそこには人が住めないようにしたらいいと思っています。
 小笠原 そしてそこは、先生のいう「過ぎたる工業社会」の負の遺産遺跡にしたらいいですね。国民が忘れないようにする。どうせ何万年もあそこには人が住めないわけですからね。
 小林 政府は除染といっていますけれども、正確にはあれは放射能で汚れたものをAからBへ移した移染ですよ。
 その移染の場所が見つからないのでもめているでしょう。ならばいっそうのこと、福島原発事故で発生した放射性ガレキや廃棄物の国設巨大ピラミッドを造成して、「昭和と平成に生きた日本人の証しです」と負の世界遺産登録をしたらどうですか。

 一番大切なのは「生命(いのち)」、そして食べものだ

 小笠原 先生がお話した日本の文化、その一つに清貧の思想というのがありましたよね。昭和時代までは財界でも、経団連会長の土光敏夫さんとか清貧の思想を持った方がおりました。
 日本は戦争に負けてアメリカの文化がどんどん入ってきた。いいものもたくさんあったでしょう。
 アメリカ文化が入ってきて壊された一つは、今先生がおっしゃったように、農業を文化として考えるか、金儲けの一つとして考えるかですよね。
 戦争が終わって、もうそろそろ70年になります。今もう一度、日本の文化とは何か考えなくてはならないときかなと思います。
 小林 あのね。私がずうっとカオルさんにいってきていることは、どんな人にも等しく大事なのは「生命」なんです。「生命至上主義」これを外しちゃいけない。
 天皇家に生まれても、農家に生まれても、あるいは中国に生まれても、アフリカに生まれても、一番大切なのは生命なんです。
 生命の源は何ですかといったら、お金でなくて、私たちの身体を作っている「食」であり、その食を保障する「環境」なんですよ。そして「医療」にちょっとお手伝いしてもらう。
 ところが、その「食」が金で犯され、「医療」も金の世界になってきて、「環境」も工業でもって犯されている。結果として、我々の子孫の生命は、ぼろぼろになっていく。
 私がまとめた『エコヘルス学のすすめ』(八甲田自然塾発行)を見ていただきたいんですが、昭和20年(一九四五)に日本が戦争で負けた。そしてアメリカに追いつけ、追い越せということでやってきた。昭和39年(一九六四)に東京オリンピックが行なわれた。同時に、東海道新幹線が開通した。昭和43年(一九六八)に、日本はGNP世界第2位なった。
 昭和35年(一九六〇)を境にして、日本は工業立国になりました。
 だけど、昭和35年を境にして、空気が悪い、水が悪い、食べ物が悪い。赤ちゃんが生まれながらにして暖房、冷房完備の中で育ってきた。そしてIT社会でしょう。これは、全部身体に悪いことですよ。
 平成2年(一九九〇)『41歳寿命説』(西丸震哉著)という本が出ました。
 これは、昭和35年以降に生まれた人は、今いったような環境の中で育ってきたために、41歳で死ぬということではなく、身体のパーツが駄目になってくるということです。
 昭和35年から41年というと、平成13年(二〇〇一)でしょう。昭和35年から平成13年までどういうことが起こっているかというと、例えばがんでの死亡者がそんなに多くなかったものが、年々うなぎのぼりに増えて、昭和55年(一九八〇)頃に死亡原因の第1位になって、今では死亡原因の半分はがんでしょう。
 これは、生命の元である食べものや、空気、水が劣化してきた結果なわけです。『41歳寿命説』はそういうことをいっているわけです。
 小笠原 その経済一辺倒、お金さえ儲かれば何をしてもいいという、その一番いい例は中国だと思うんですね。中国の経済及び大富豪がアメリカに次いで世界第2位になった。
 一方では、子どもが車に轢かれて苦しんでいるのに、誰も助けようとしない。貧富の差が激しくなり、子供を育てられない親が増えてきている。しかし、そういう子どもたちに国は手を差し伸べようとしない。ごみ箱で生活していた子どもたちが、暖をとるためにゴミを燃やして一酸化炭素中毒で死んでしまった。
 また、大気汚染が深刻化して、呼吸器疾患を発症する人が急増している。
 貧乏だったというと語へいがありますが、昔の中国では考えられなかったことですよね
 小林 儒教の国でしたから、本当はそういうことがあるはずがなかった。
 今は、金、金、金になって、片や政治家の子どもは、アメリカとかヨーロッパに留学して、みんな母国の中国にはいないんです。
 ですから、私が最初にいったように「過ぎたる工業社会は人類を幸せにできない」、中国は今、その実験室のようなものですよ。
 もういちど話しを農業に戻しますけれど、人間は何がなくても食べなければ生きてゆけない。食べものは生命の元なわけです。
 そのためには、安全安心な食べものを持続的に供給していかなければならない。
 持続的に食料を供給して行くためには環境が大事になってくる。その環境は、土地空間の保全、生物多様性の保全、物質循環調整、水循環制御をしていかなければならない。
 そしてもう一つ大事なものが地域社会の形成及び維持です。それは、人間教育、人間性の回復、伝統文化の保全、地域社会の振興なわけです。

 孫世代に負の遺産を残すな!!

 小笠原 私が十和田に帰ってきた昭和48年は、田植機やバインダー、コンバインなど、農業が機械化され始めた時代ですから、農業に活気がありました。
 だから、盆踊りも祭りも盛んでした。
 小林 私は学生時代を含め、約半世紀にわたって農学を専攻してきたんです。時代でいうと1960~2010年代ですね。工業の途上国から先進国への遷移期を、農に軸を置いた視座で、現代日本を生きてきたことになります。
 十和田市を拠点に、国内だけでなく、工業先進国も、工業途上国もたくさん調査研究に訪問し、現地の人々交流もいっぱいしてきました。
 その結果として「過ぎたる工業社会は、決して人々を幸せにしない」に至ったわけです。
 ヒトは哺乳動物です。哺乳動物のエサ(食料)は、動物植物の細胞、つまり生命をいただいているわけです。工業製品じゃないんです。その生命が安全で安定的に生産されるためには、生命環境が健全であることが大前提となります。
 だから、生命環境の劣化や破壊を惹起しない程度の工業発展に止めるべきで、これが賢い人類の選択です。
 この原理原則を実践した生命循環型社会の構築こそが、21世紀の最先端総合科学だと私は思っています。
 私たちの子孫が生きる日本は、この先端科学を駆使して、「心身ともに健康が持続できる、真に豊かな生涯」を全とうできる母国になって欲しいと願っています。
 この現実を、人生の戻り途にたどり着いた私の、ライフワークにしようと思っています。今なら未だ、生命の終焉は防げる、と信じています。

 小林裕志プロフィール
 昭和19年(1944)京都市出身。岩手大学大学院修了。農学博士。専門は緑地環境学。日本草地学会賞、農業土木学会賞などを受賞。早くから、「21世紀は環境保全の時代」を唱えて、「中国内蒙古荒漠草原の緑化研究」や、「環境保全に配慮した草地開発工法の創出研究」など、国内外での多くのフィールド研究業績を残している。
 一方で、青森県や十和田市の公共事業や、都市計画策定に関する審議委員を多数委嘱され、「子どもが自慢できる故郷づくり」を原点にした「地域開発の在り方」についても多くの提言がある。
 現在は、八甲田自然塾を主宰し、真の豊かさを求める「エコヘルス学」を提唱すると共に、自ら実践している。

 

大谷真樹(八戸大学・同短大総合研究所教授)小笠原カオル(本社編集長)

青森県を日本の理想郷にしたい

ootanimaki.jpg 生涯顧客をつくる

 小笠原 どうも、しばらくでした。昨年12月4日、新幹線が青森まで開通しました。大宮‐盛岡間が開通したのは昭和57年(一九八二)、バブルの真っ盛りのころでした。それから28年。八戸まで開通したのが平成14年(二〇〇二)、それから8年目にしてようやく青森まで開通した。
 開通したのは嬉しいんですけれど、青森県の本当の良さを売り込むための受け入れ準備が出来ているだろうかというと、私は甚だ疑問なんです。
 先生は、青森県を日本の理想郷にしたいということで、若い起業家を育てる「起業家養成講座」を開校しているわけですけれど、まずその可能性についてお聞きしたいと思います。
 大谷 私は神奈川県の藤沢市にいるんです。JR藤沢駅を通るわけですけれど、あっちもこっちも青森だらけです。青森のポスター、青森のチケット、青森のキャンペーン、青森の放送、もう一日中青森だらけです。
 これは藤沢に限らず、東京駅に行っても、上野駅に行っても、青森のキャンペーンです。旅行会社のポスターもチラシも皆青森だらけ。
 これから、九州新幹線が鹿児島まで開通したなら、やはり同じことになるでしょうね。
 新幹線に乗ると、大人の休日クラブという安いチケットなんかありますから、ほぼ満席ですよね。でも、これは一過性です。何故かというと、キャンペーンで来るお客さんというのは、キャンペーンだから来るんです。これらの人たちは、安さとかイベントに引かれて来る人たちなんですね。
 八戸も開業のときはワッと客が来たんですけれど、ワッといなくなった。あれと同じ現象なんですね。
 本当に青森を好きなお客さんをつくってゆく。そういうお客さんに青森の良さをアピールして、1回ではなく、2回、3回、あるいは毎年来ていただく。つまり生涯顧客をつくっていかなければならない。そういう戦略を考えなければならない。
 そうなると、安さとか、日帰りではなく、観光資源であったり、温泉であったり、自然であったり、それらを通した健康増進であったりと、それを理解してもらうお客さんを掘り起こしてゆかなければならない。
 やっとインフラは整いました。確かに東京から3時間で来ることができます。それは始めの一歩です。利便性だけでは生涯顧客をつくることが出来ません。ですから、これからが勝負だと思っています。
 小笠原 利便性というのは、JRなり観光業者がつくったものであり、私たちがつくったものではない。
 大事なのは、今先生がおっしゃった生涯顧客をどうつくるかですよね。それが、我々がやらなければならないことである。
 これから日本は、人類が経験したことのないほどの長寿社会を迎えます。
 ちょっと休みたいな。リフレッシュするに青森県に行って来ようか。要するに癒しの場ですよね。
 大谷 そうなんですね。安らぎの場であったり、リセットする場であったり、年に何回か行ってホッとする場所になってゆかなければならない。
 これは、たとえば首都圏に近い箱根や那須では出来ないんです。何故なら、近すぎるからです。便利過ぎるからです。
 僕らは東京で働いて、リフレッシュするのに熱海に行きますか。熱海に行ったら逆に疲れるだけです。宴会に行くならいいんですけれどね(笑い)。
 本当に一人になりたいとか、家族とゆっくりしたいとなったら、むしろ不便さを楽しみたい。これからは、不便なところに行けるようなゆとりを持ちたいというのが目標になります。
 僕たちが子供のころの憧れはハワイでした。
 同じような感覚で、カミさんとのんびりしたいねというときは、軽井沢に行こうとか、青森に行こうということにならなければならない。
 セカンドライフは青森にしたいねとか、青森に別荘なり、小さな家を建てる人が出てくると本物だと思います。

便利さ不便さ

 小笠原 その不便さですけれども、私はどうしても駅を降りてからの2次交通を考えてしまうんですね。
 たとえば私は、どんぐりの森・山楽校という、大人と子どもの自然塾をやっているんですが、七戸十和田駅を降りて、目的地に行くには、タクシーかレンタカーを使わなければならない。
 これも不便さの一つですか。それともここは何とかしなければならないですか。
 大谷 むずかしいところですね。この前も新幹線は満員でも、蔦温泉はガラガラでした。浅虫は満員でした。それは在来線があるからですよね。
 確かにそれでワッとお客は来るんですけれど、ツアーであったり、チケットと一緒の宿泊券ですから、一泊4000円とか5000円と、来るお客の単価が低いんですね。
 それでは、受け入れても疲れるだけですよね。
 むしろ、タクシーでもレンタカーでも、来られる人たちをきっちり受け入れる受け皿をつくって、ゆっくりしてもらう方がトータルでの経済効果が高いです。
 小笠原 長期的にみれば、移動の不便さより、そこに何があるかということの方が大事ということになりますか。
 大谷 冬は、さらに不便になりますからしょうがないということもありますけれど、どうしても行きたいと思う人は、レンタカーでも来ると思います。
 岩手県の湯川温泉だったかな、この前行ってきたんですけれど、ここに10部屋ぐらいの高級旅館があるんですけれど、昨年オープンしてからずうっと満室です。
 川沿いで、静なんですが、すっごい山の中ですよ。宿泊料も高いんです。でも満室なんです。そういう豊かさを求める人たちがいる。
 不便だから人が来ないということはないです。
 小笠原 そうですね。やっぱり大事なことは、そこに何があるかですよね。
 実は、八甲田の麓、湯ノ平に約60町歩(60㌶)のブナの二次林がありまして、ここを癒しの森にしようという計画が今進んでいるんです。ブナの二次林はきれいですね。

癒しの森ブナの二次林

 bunano.jpg大谷 蔦から谷地に行く途中、あれもブナの二次林でしょう。あれを見ていて芸術だなと思いますよ。四季折々も好きですけれど、特に僕が好きなのは、雪が溶けてすぐ、緑の新芽が出始めるでしょう。
 小笠原 根元にはまだ雪が残っていてね。
 大谷 そうそう。エネルギーを感じますよね。生きてるなと思いますね。あれを見ると、都会でストレスで心が病んでいる人たちは、多分希望を感じると思うんです。すごい癒し効果がありますよね。
 馬は、ホースセラピーという言葉があるくらいですから、馬に触っただけで癒されるわけでしょう。
 さらに馬に乗って、ブナの二次林の中を歩いたら、絶対人間性を回復しますよ。
 小笠原 馬でのトレッキングですね。実は私、ブナの二次林で、昨年2回ほど馬でのトレッキングをしました。最高でした。 
 大谷 そういう人間性を回復するメッセージを出して行ったらいいですよね。そうすると季節が関係ないですからね。
 新緑がいい、紅葉いいというと、そのときしか来ない。
 目的が違う。青森に行く理由が変って来る。健康とか、癒しであれば、週末でもいいし、年中自分が行きたいときに行けばいい。
 小笠原 そうです。今のところ湯ノ平に冬は行けないですけれど、でも除雪は以外に簡単なんですよ。谷地側の上から除雪すればいいいんです。
 私も昨年乗ったんですけれど、あの牧場でスノーモービル乗ったら最高ですよ。牧場ですから、障害物がない。しかも高田大岳が目の前に見える。最高ですね。そして冷えた体はすぐ、蔦なり谷地温泉で温めることができる。
 ですから、焼山、湯ノ平周辺は、冬でも結構楽しむことができます。

観光の国際化図れ

 大谷 それと、ノースビレッジが作った歩くスキーとかね。天気次第ですけれど、冬こそ、他では体験できない楽しみがあるんじゃないですか。八甲田がきれいに見えますからね。青森県はいい財産を持っていますよ。
 で、僕はね、これからやるべきことは観光の国際化ですよ。
 今、話したような観光資源を一番理解するのは、団体旅行客ではなく、富裕層というか、ゆとりのある人、つまり、時間も、お金も、考え方もゆとりある人を連れて来なければならない。首都圏もいいですが、首都圏は皆一所懸命にやっているでしょう。これから目を向けるのが香港ですよ。今、青森から羽田経由香港行きというチケットがちゃんと売っているんです。そこに皆はまだ気づいていない。
 三村知事も台湾とか韓国にセールスに行っている。違うんです。香港に行くべきです。香港には雪がないですから、雪の青森の冬をアピールすべきです。
 小笠原 実は1月末にも、グリーンツーリズムということで台湾から中学生が二泊三日で訪れたんです。これは農家で宿泊して、農作業とか雪遊びなど様々な体験をして帰ったんですが、大人を受け入れる体制はまだ出来ていないのかなと思うんですけれど。
 大谷 ゴルフ場もある。温泉がある。大人の場合は体験よりも、美味しいものを食って、ゴルフして、馬に乗って、それでいいんですよ。
 香港は雪がないでしょう。冬は逆に有利で、スキー、ソリ体験、それだけでも充分なんです。
 小笠原 そうすると、そういうプログラムをこちらで組むということですか。
 大谷 いや駄目です。お金持ちはパッケージ化されると逆に来ないです。
 お金を払うから個人行動にしてくれというんです。
 小笠原 そうすれば、それをどこでやればいいんですか。
 大谷 青森空港で、そういう個人旅行を受け入れる、ランドオペレーター(現地手配)というんですけれど、それが必要ですね。
 極端な話をすると、青森空港からヘリコプターで大間にマグロを食いに行きたいという場合、それを手配するとかね。中国や香港にそんなお金持ちもいるんですよ。
 小笠原 そんな方たちがどんどん青森県に来るようになったらすごいですね。
 そういうランドオペレーターの起業家を育てる。それも、先生の起業家養成講座の一つの目標になりますね。

英語で発信しよう

 大谷 今はいないですけども、そのうちに出ると思いますね。
 たとえば、東京で旅行会社に勤めていた人が帰って来て、ヘリコプターの手配は別にしても、通訳ができる人を社員として抱える必要がないんで、登録して置く。また、リムジンでなくていいからタクシー会社と契約して、黒塗りのハイヤーを回してもらうとかして、こういうことが出来ますと、香港や中国に発信する。
 小笠原 そういう点では私も会員ですけれども、十和田市には国際交流協会ってあるんですね。ここには、十和田市在住の外国人や、また日本人でも英語が堪能な人たちもたくさんいます。
 大谷 ですからね、行政がやるべきことは、香港にアピールするとか、外国人の受け皿の会社をサポートするとか、その方が経済効果が高いです。
 そのためにはまず、海外の検索や、メディアのリサーチに引っかかるようにコンテンツを英文化しなければならない。
 県とか色んなホームページを見ると全部日本語ですよ。最低は英語ですよ。出来ればハングル語、中国語、この辺の言語にするだけで、相手が勝手に調べてくれますからね。
 この前、山梨県が武田信玄の祭りをホームページに英語で説明を書いたんです。そうしたら、アメリカのABCがスタッフ50人を連れて取材に来たんですよ。
 小笠原 それはすごいですね。
 青森県って、特に観光面では全国、あるいは世界に発信できるニュースが結構多いんですよね。
 世界に発信できる内容であれば、行政なんかでも英語での説明も必要ですね。
 大谷 そうですよ。今は英語ができる人がたくさんいると思うんです。そういう人を活用すればいいんですよ。
 小笠原 そうですよね。観光は。これからは首都圏に限らず、世界に発信しなければならない。
 先生とのお話しで、青森県の未来が見えてきたような感じがします。ありがとうございました。 

 大谷真樹/昭和36年(1961)八戸市に生まれる。父が転勤族であったことから、父の転勤に伴い、学校も、岡三沢小、三沢一中、三本木高校を経て、五所川原高校を卒業。学習院大学からNEC(日本電気)に入り、コンピューター関係の仕事に携わる。しかし、サラリーマンには飽き足らず、平成9年(1997)に、インターネットを使ったマーケッテングリサーチ会社㈱インフォプラントを設立。これが大当たりした。いわばIT成功者の一人である。
 現在は、若い起業家を育てる「起業家養成講座」を開設。100人の起業家を育て、青森県を理想郷にしたいと活動している。

 

がんで痛みがとれれば入院する必要がなくなる

 asinoyosikazu2.jpg蘆野 極端にいうなら、がんで痛みがとれれば入院する必要がなくなるわけです。
 病院では、痛みが取れれば基本的には退院していただくことになります。
 そして、この時点で、介護者がいないとか、私たちでは解決できない問題が表面化してきます。
 私たちが一番困るのは、病気の問題よりも、家族の問題とか、社会的な問題に直面することです。
 逆に、痛みがとれなければ退院を迫られないことで、家族にとって都合のいい場合があるわけです。
 緩和ケアに於いて、痛みを取ることは初歩の初歩で当たり前のことです。
 様々な職種の人々が一緒になって、痛みなど苦痛をとって、その人の生きかたを支える、家族を支えるのが緩和ケアの基本姿勢です。
 小笠原 今、先生がおっしゃったこと、一般の方はわからないですよね。
 蘆野 現実にはがんの痛みで苦しんでいる人は多いので、今、がん対策基本法に基づき、医師たちに痛みの取り方の教育が行なわれています。
 十和田市民は、中央病院を受診するか、当院のがん支援センター相談員に相談してもらえば、痛みがとれて自宅で生活できる環境が保障されています。

緩和ケア病棟を設置

 小笠原 中央病院では最近緩和ケア病棟を設けたということですが、これは看るひとがいないとかで在宅でケアできない人たちのための病棟なんですか。
 蘆野 そうです。痛みなどの苦痛がとれたとしても、自宅でケアして下さいといっても様々な事情で看たくても出来ない家族もいます。あくまでも急性期病棟ですので長期の〃療養〃はできませんが、本人や家族の都合のいいように、自宅と同じ感覚で使ってもらう病床です。
 10床ですが全部個室になっており、16平方㍍が8床、32平方㍍が2床です。
 この他、この病棟には、特殊浴室や、付添家族のための控え室、談話室、調理室、ボランティア室なども備えています。
 小笠原 ということは、在宅で看れないという場合でもケア病棟で受け入れるということができるということですね。
 ひとむかし前までは、がんになると死を宣告されたと同じだ、八割方は死ぬというイメージがあったんですが、最近私の周りを見ていると、がんで胃を全部摘出して元気でいる人が結構いるんですね。
 がんの治療技術も進歩しているんですか。

がんの治癒率は55㌫

 蘆野 今は、がん患者全体では、日本の治癒率は約55㌫になっています。ということは半分は治らないことも事実であるわけです。
 ただ青森県の場合は、相当進行してから見つかる場合が多く、八割方死ぬというのは正しいかも知れないです。
 小笠原 たとえば長野県は沖縄を抜いて平均寿命が全国一ですよね。
 これは元諏訪中央病院長の鎌田實さんらが、歩け運動とか、集団検診などを提唱して、県民に健康に対する意識を高めて来た結果だということがいわれていますよね。
 ある健康調査で、健康に関する本を持っているかというアンケートをとったところ、長野県は確か5冊で、青森県は一冊だったんです。それから、青森県の喫煙率が非常に高く、結果肺がんの率も高い。
 つまり、青森県人は健康に関する意識が低い。それががんの早期発見が遅れているということでしょうね。
 蘆野 そうですね。がんになる人が多くなっていますが、人間ドックや集団検診を受けることで、見つかった瞬間にもう駄目だということは少なくなっています。
 それと、歳をとるとがんの発生率が高くなります。がんが多くなったのは、食生活や生活スタイルの影響もありますが、高齢化社会になったということもあるのです。

 日本一の高度医療を目指して

 小笠原 十和田市中央病院は、日本に12台しかない、がん治療の最先端医療機器が設置されているということですが、具体的にはどういうものなのでしょうか。
 蘆野 トモセラピーと呼び、がんに放射線を集中照射できる高精度放射線治療装置です。
 これは、通常の治療装置に比べ、ピンポイントに照射できること、複雑な形のがんや複数のがん病巣に対応できること、そして正常組織への影響(副作用)が少ないことが特徴です。
 脳腫瘍、頭頚部がん、肺がん、前立腺がんなどが主な治療対称となっています。
 それと今導入したいと思っているのが、がんの画像診断装置、PET(ペット)で、「陽電子放射断層撮影(ポジトロン・エミッション・トモグラフィー)」の略語です。
 がんは体に変化が起きてから見つかることが多く、がん細胞が増殖して大きな塊にならないと発見できませんでした。
 しかし、がん細胞自身が光ってその位置を知らせれば、もっと早い段階で見つけることができます。
 「がん細胞に目印をつける」のがPET検査の特徴です。
 PET検査は、がん細胞が正常細胞に比べて3~8倍のブドウ糖をとりこむ、という性質を利用します。ブドウ糖に似た物質FDOに目印をつけて注射し、しばらくしてから全身をPET装置で撮影します。するとFDOが多く集まるところがわかり、がん発見の手がかりとなります。
 従来のレントゲン(X線)やCT・MRIなどの検査は形からがんを見つけますが、PETはこのように細胞の性質を利用してがんを探しだします。
 がんの位置がわかればそれを狙い撃ちして治療ができるわけです。
 小笠原 それはすごいことですね。
 ということは、そのPETが入れば、十和田市中央病院は、がんの治療では日本の最先端を行くわけですね。
 蘆野 もう一つ最先端を行くのが、看取りのシステムです。
 今、十和田市では進行したがんの方の四分の一は自宅で亡くなっています。この看取りのシステムを全国のモデル地区として紹介できればと思っています。
 今後、地域の皆さんが看取りについて考える機運が高まることを期待しますが、これは一つも文化です。
 小笠原 大変よくわかりました。と同時にいろいろと考えさせられました。
 先ほど先生がおっしゃいましたPOTですか、資金を集めるにふるさと納税という方法もあるそうですから、毎年2月に東京十和田会の総会もありますから、ぜひそこでも呼びかけてみたいと思います。今日はお忙しいところ大変ありがとうございました。

看取りは日本の文化だ

asinoyosikazu3.jpg 小笠原 今、簡単に人を殺す事件が多いですよね。今先生のお話しを聞いていて、日本では死と向き合う場面が少なくなってきているということも影響しているんじゃないかとフト思いました。
 蘆 野 それはあると思います。
 小笠原 人間は、生まれて必ず死ぬ。生まれたときはお祝いし、家族の絆が深まります。それと、私の母のときもそうだったんですが、死んだときも家族をもう一度結びつけますよね。
 蘆 野 そういう点で看取りというものを皆でもう一度考えなくてはいけない。
 たとえば、ニュージーランド近くの島の人たちは、人が生まれたときは悲しむ。
 何故かというと、この子はこれから色んな試練に立ち向かっていかなければならない。大変な試練を背負って生まれてきた。それは悲しいことであると考えるからです。
 逆に人間が死んだとき、これからもう試練に直面することはない。楽になったということで、皆で盛大にお祝いをする。
 今、日本でも、自宅で看取り、「良かったね。長い間ご苦労様でした」ということもあります。
 息を閉じた後の穏やかな顔、そして息を閉じるまでの過程を、見取りの場に集まった家族や地域の人たちに見てもらい、一緒に学んでもらうことも重要なことと考えています。
 その看取りの場を中央病院では、地域の様々な職種の人と一緒になって支えています。
 その職種の人たちが、地域での看取りに慣れてくると、臨終を迎え家族の相談相手にもなり、家族の不安も少なくなります。
 私たち医者も、看護師も、大学では治すための教育は受けても、看取りの教育を受けていません。だから、本来治すこと以外知らないし、看取り方は知らないのです。
 したがって、医療者に看取りを託すということはおかしなことなのです。
 たとえばがんで亡くなる人は、機能がだんだんに衰えてきますが、これは老衰同じと考えていいでしょう。痛みなどの苦痛がとれ、自宅で看ることができれば、必要なのは、医療ではなくて介護の支援なわけです。

がんの七割は痛みをともなうが、そのほとんどが痛みを取り除くことができる

 小笠原 大変良く分かります。
 私は先生の話を聞くまでは、緩和医療、緩和ケアというのは、がんという病気はものすごく痛みを伴う病気である。そのがんの痛みをとるための医療であるというイメージを持っていたんですが、実際にがんという病気は痛みを伴うものなんですか。
 蘆 野 実際にがんが進行すると、七割の人に痛みが出てくるという統計が出ています。逆に痛みのない人も三割はいることになります。
 痛みがある人は、その痛みをとってしまえば大変楽なんです。そして、その痛みの九割はとることができます。
 たとえば中央病院のがん総合診療部門に、痛みがとれないと受診すると、多くの場合一週間以内に痛みはとれます。
 非常に強い痛みで、痛みが完全にとれない人も一割弱いますが、そういう人でも自宅では痛みがもっと楽になります。
 病院にいると様々な苦痛が出てくるのですが、自宅では苦痛がすごく少ないんです。
 それはわかるでしょう。病院だと、眠れないとか、傍にいつもいる人(たとえば奥さん)がいないとか、いつもいる場所じゃないとか、心が不安定になってきますよね。精神的要素が苦痛を強くするわけです。痛みがあっても楽しいことをやっていると痛みが感じないということもあるのは、この逆に現象です。
 小笠原 それはあります。痛みではないんですけれど、50代のとき過労ぎみになったとき耳鳴りが始まったんですね。医者に行ったら治りませんといわれたんですけれど、仕事をしているときとか、活動をしているとき耳鳴りがしているのを忘れているんですね。多分、痛みもそれと同じじゃないかと思います。
 蘆 野 そういうことです。自宅にいると、痛みをコントロールしやすくなります。ともかく痛みをとればいい。
 ところがその痛みをとるという簡単なことができない。
 小笠原 日本の医者がですか。

日本の多くの医者は痛みのとり方を知らない

 蘆 野 そうです。痛みをとることは簡単なことです。関心がないんです。関心があればすぐ覚えられることです。
 小笠原 それは何故ですか??
 蘆 野 患者が痛みを持っているということを医者が大変なことであると感じないわけです。
 そういうお医者さんに対して、本人も家族も、痛みがとれないものとあきらめ我慢しているわけですが、我慢する必要がないのです。
 小笠原 それは薬ですか。
 蘆 野 モルヒネを含めた医療用麻薬(オピオイド)です。
 中央病院では、各病棟で痛みがとれていない患者の痛みをチェックし、病院全体で痛みで苦しんでいる患者がいないよう監視しています。
 終末期の医療に於いて痛みとの問題が最重要課題であると思っています。痛みがとれてくると、次の段階に入れるんですが、痛みで足踏みしている状況があるわけです。痛みがとれないからずうっと病院に入院したままになっている。
 痛みがとれれば、家族の問題と、介護の問題、今後の生活の問題などが出てくるわけです。

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