首都圏とふるさとをつなぐ 東京=十和田

 子どもjの成長に合わせた人間教育を行う

masubutosatoru1.jpg 「それでは皆さん、隣り同士が向き合って、一人は手を餅をつくようにペッタンペッタンと上下に叩いて下さい。もう一人は、その杵に叩かれないように、こねてください。ハイ、それでは始めますと」と、『うさぎのもちつき』の歌をうたう。
 百数十名の参加者が一斉に、ペッタン、ペッタン、ハイこねて、ハイこねてと、動き出す。どっと笑いが起こる。一瞬にして会場が和やかになる。
 8月5日、十和田市民大学「未来を拓く人を育てる~シュタイナー学校の授業から~」(講師/シュタイナー学園中等部校長増渕智)の一コマである。
 増渕さんはこの日、一般にはまだあまり知られていない、シュタイナー教育を理解してもらうために、小学1年生から中学までの授業内容を、市民大学の参加者に、実際に動いてもらいながら講演した。
 今、日本の小中学生の不登校者数は12万2432人(文科省平成21年度調査)いる。
 不登校には、学校の授業について行けない、先生や部活でのトラブル、いじめなど様々な理由があろう。いずれにしても、学校が面白くない場所であるからである。
 シュタイナー教育には教科書がない。子どもの成長に合わせた人間教育である。もちろんテストもない。だから、シュタイナー教育には落ちこぼれもない。
 幼児から、小中学までの教育を含めた生活体験が、その人のその後の人生を大きく左右する。
 市民大学への参加者は、なるほど、現在の日本の教育には、こういったことが欠けていると感じた人が多かったに違いない。
 増渕さんは、
 「シュタイナー教育は、人間の成長を7年おきにとらえます。
 第一期は、生まれてから7歳まで。この時期は、遊ぶことを基本とした人間の成長に合わせた体験的な教育。
 第二期は、7歳~14歳まで。この時期は、心に豊かな動きが出てきますから、心をわくわくさせるような、驚きや喜びを喚起するような教育。
 第三期は、14歳~21歳まで。この時期になると、思考に問いかけ、思考が生き生きとする教育を行なっています。
 このようにして、頭と心と手足が調和することを目指した教育、これがシュタイナー教育です。
 シュタイナー教育には教科書がないんです。ですから、なにより教師の質が問われます。子どもには通信簿もありません。通信簿のかわりに、教師がその子どもの人間成長の記録を書くわけです」と語る。
 シュタイナー学校は、いわば人間教育の学校である。
 シュタイナー学校は、オーストリアの哲学者ルドルフ・シュタイナーの提唱に基づく学校であるが、シュタイナー学校は欧米を中心に約800校、日本に8校ある。
 増渕さんは、その日本のシュタイナー学校、シュタイナー学園中等部の校長先生である。
 増渕智。昭和43年(一九六八)7月、十和田市に生まれる。三本木高校、北海道教育大学を卒業。大学時代に、『ミュンヘンの中学生~シュタイナー学校の教室から~』子安美知子著(朝日文庫)に出会った。この一冊の本が増渕さんの人生を決定づけた。こんな素晴らしい学校があるんだと感動。大学を1年間休学し、ロスの郊外にあったシュタイナー学校に隣接する、大人のためのシュタイナー教育を学ぶセミナーに留学した。
 大学を卒業すると、シュタイナー学校の教師になるべくイギリスに2年間留学。帰国後、東京シュタイナーシューレ(現シュタイナー学園)に勤務。平成23年(二〇一一)より、同中等部校長として、現在に至る。

 市民大学の参加者が一瞬にして増渕さんの生徒になってしまい「ペッタン、ペッタン」と、一斉に動き出してしまった。

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77歳現役のドキュメンタリー映画作家ふるさとを撮る
このほど『もうひとつの奥入瀬~雑木林12年の軌跡~』を完成させた

 tukudahirosi2.jpg 平成6年(一九九四)に、重度の情緒障害の子供を抱えた、北九州市出身の若い夫婦が、十和田市に障害を持った子どもと健常者を一緒にあずかる保育園があるということを聞いて、夫は勤めていたコンピューター関連会社を辞め、十和田市に移住。
 そして平成10年(一九九八)、自ら障害を持った子どもと健常者が一緒に生活する「子どもの自由空間‐雑木林」を開設した。
 その12年間の軌跡を綴ったドキュメンタリー映画『もうひとつの奥入瀬~雑木林12年の軌跡~』がこのほど完成した。
 それを製作したのが、十和田市出身のドキュメンタリー映画作家附田博さんである。
 「文化新聞で、障害を持った子供のために、大手の会社を辞めて十和田市に移住し、ついには自分で障害を持った子供と健常者と一緒に生活する施設をつくったという記事を見て、これはふるさとを題材にした映画になると、映画作家としての血が騒ぎました。
 これを撮るために10年間東京から通いましたけれど、残念なのは、それを最初から撮れなかったということです」と語る。
 附田博。昭和9年(一九三四)9月、十和田市に生まれる。三本木高校、日大芸術学部映画科卒業。同研究室勤務。昭和33年(一九五八)ドキュメンタリー映画製作の日映科学映画製作所に入社。昭和35年(一九六〇)、劇映画『鮮人の死』でシナリオ誌新人賞受賞。昭和38年(一九六三)、『日本の城』(脚本・演出)で芸術祭奨励賞、日本紹介映画金賞受賞。昭和41年(一九六六)、『日本誕生』(脚本・演出)でキネマ旬報賞を受賞した。この2本は今でも日映科学の映画史に刻まれている。
 時代は、映画からテレビに移ってきた。
 昭和44年(一九六九)、友人と二人で、テレビ映像製作会社松山善三プロダクションを設立、製作部門の責任者となる。
 以後、ドキュメンタリーテレビ番組『音楽の旅はるか』(製作・演出)30分、170話(毎日放送)。毎日放送開局30周年記念特別番組『万里の長城』(製作・演出)90分。『世界名画の旅』(製作・演出)30分、55話。テレビ東京開局25周年記念特別番組『日米戦うべからず』(脚本・演出)90分、テレビ東京局長賞受賞。『極める』(脚本・演出)30分、7話、APT賞(全日本テレビ番組製作社連盟)受賞。などを製作。
 フリーになってからは、NHKBSスペシャル『妻たちが語る思い出の作家たち』(製作・脚本・演出)15話、NHK衛生放送局長賞受賞。ハイビジョンスペシャル『雪の夜の微塵となりて眠るかな』(製作)60分(関西テレビ)、カンヌハイビジョン国際フェスティバル入賞など、テレビ番組制作で数々の賞を受賞するなど、これまで制作したテレビ番組は500本を越えている。
 また、舞台では、昭和63年(一九八八)、長峰ヤス子前衛舞踊『黒いオルフェ』の脚本。平成11年(一九九九)、青森県民文化祭総合フェスティバル‐創作フォークローレ・ミュージカル‐『炎らの森と湖』の脚本及び演出。平成22年(二〇一〇)、野呂修平創作バレエリサイタル『棟方志功』の脚本なども手がけている。
 平成元年(一九八九)日本のドキュメンタリースト20傑の一人として評価される。

ringonohana1.jpg 食でもって十和田市を元気にしたいと、青森県の食材にこだわったアンテナショップ的な居酒屋「リンゴの花」が、このほど東京・新宿にオープンした。
 居酒屋「りんごの花」をオープンしたのは、十和田市出身の坂本真奈美さん(39)である。
 坂本さんは、昭和46年(一九七一)十和田市に生まれた。三本木中、三本木高校、静岡県立大学を卒業。
 大学では、栄養学を専攻したことから、卒業後、漬け物会社に勤務。ここでは品質管理及びコンビニ向けの惣菜商品開発を担当。続いてスーパーに入り、惣菜売り場の製造を担当。続いて冷凍食品の問屋に入り、企画・開発を担当するなど、一貫して食品関係の仕事に携わってきた。
 幾つかの会社を渡り歩いたが、この時期はいわば自分探しの期間である。その中で見つけたのが、青森県の良さである。いつしか、青森県の素材を使った店をやりたいという想いが強くなってきた。
 そして、勤めながら、女性企業塾に通い、起業のノウハウを勉強。その中で、自分の強みが何なのか、そのキーワードを見つけた。
 そして、同じ会社で働いていた小池政晴さんと、(株)地方の宝物を設立。代表取締役に就任。1年間の準備期間を置いて、今年1月6日にオープンした。

 店は、ねぶたの暖簾に、天井には金魚ねぷたが飾られ、カウンターには鳩正宗やスタミナ源タレなど、一見して青森県だとわかる。
 メニューは、シャモロックの溶岩焼き、奥入瀬ガーリックポーク、馬肉のスモーク、海峡サーモン刺身、十和田おいらせミネラル野菜、ねぶた漬け、長いも焼酎、にんにく焼酎、日本酒は青森県の12蔵など、オール青森県の食材である。
 坂本さんは、
 「食べる青森県の物産館を目指したい。ここで十和田市及び青森県をアピールし、それなら十和田市に行ってみようという人が、一人でも二人でも増えてくれれば嬉しいです」と語る。
 事実、十和田市及び青森県出身者たちも訪れ、ブログには「起業女子会でお会いしました。十和田こまち(坂本さんのブログ名)は、青森県を愛していらっしゃいます。強い郷土心と、ちょっとした洒落っ気を併せ持った女性です」などと、ファンも出始めている。
 場所は、都営新宿線曙橋駅下車・A1の出口ないし、東京メトロ四ツ谷三丁目下車・A4番出口から、外苑通りに出て、一心ラーメン近くにある。
 

ringonohana2.jpg住所:新宿区荒木町11‐24荒木町エーシービル1階
電話:03-6380-6724
ホームページ:http://www.ringonohana.com/
201103-05.jpg 東京同窓会には必ず顔を出す八重さん。いつもニコニコ元気である。
 元気の秘密は?と聞くと、
 「私はね、長男夫婦と孫2人の5人家族。それでね、私の部屋はね、二階なの。だから毎日階段を上り下りするわけ」ワッハッハと声高に笑う。
 電話をして、「おばあちゃんおりますか」というと、「おばあちゃんって誰ですか」、「八重さん...」、「八重は私です」
 とても95歳の女性と話しているとは思えない。

 見目八重さん、旧姓木田。大正4年(一九一五)6月、三本木町(現十和田市)に生まれる。昭和七年(一九三二)三本木実科高等女学校(現三本木高校)卒業。東京都教育界付属教員伝習所修了。
 以後、小学校の教諭40年間勤め、退職し現在に至る。
 「ともかく、自分でできることは自分ですることです。若いころは踊りをやっていました。今はカラオケです。それと、会合には必ず顔を出すようにしています」と語る。

 【元気の秘密】
 二階に住んで、毎日階段を忙しく上り下りしている。見目さんにとってはバリアフリーなんてクソくらえだ。会合にはおしゃれをして必ず出、カラオケを歌う。95歳の元気ばあちゃんだ。

matuhasi2.jpg 主役の管野美穂さん
「いつか自分も赤ちゃんを産みたい」と挨拶
 十和田市立中央病院は、総合病院でありながら産婦人科の先生がいない。少子化といわれる昨今だが、十和田市の若い母親たちは子供を産むためにわざわざ八戸市に行かなければならない。これは十和田市のみならず全国的にそうである。つまり医療崩壊である。その医療崩壊に、大学病院と地域医療を通して厳しく迫った海堂尊の小説医療ミステリー 『ジーン・ワルツ』。
 『ジーン・ワルツ』は、十和田市出身の映画プロデューサー松橋真三によって映画化された。
 その『ジーン・ワルツ』の完成試写会が、1月30日、東京・帝国ホテルで行なわれた。
 試写会には、原作者である海堂尊、監督の大谷健太郎、そして主役の天才的女医役の管野美穂他、片瀬那奈、白石美帆、南果歩、桐谷美玲が出席した。
 また、試写会には本物の女医65人が応援に駆けつけた他、現役女医で構成するen女医会の杉本由佳会長が、『ジーン・ワルツ』の試写会のこの日、1月30日が「女性医師の日」に登録されましたと報告。会場を沸かせた。
 涙なくしては観られない、話題性の多い映画である。

 写真は、十和田市出身映画プロデューサー松橋真三さんと、映画『ジーン・ワルツ』の試写会の応援に駆けつけた「en女医会」の65人の美人ぞろいの女医たち。医師不足の地方には羨ましいかぎりである。

 前列中央は、左から監督の大谷健太郎さん、片瀬那奈さん、白石美帆さん、管野美穂さん、南果歩さん、桐谷美玲さん、原作の海堂尊さん

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sagawa.jpg 東京十和田会に出て、元気のいい声で乾杯の音頭をとる佐川さん。今年90歳になる。写真で見てもわかるように、とても90歳には見えない。60歳代といっても、元気ですねといいたくなるくらい若い。
 佐川さんに、元気の源は何ですかと聞くと、
 「今、僕はね、ボランティアで身障者の介護をやっているんだ。それとね、体が余ってどうしようもないから、毎日1万歩あるいているんだ」という。
 佐川さんの元気の源は、ボランティアと、毎日の1万歩の歩きである。
 佐川孟三。大正9年(一九二〇)9月、三本木町(現十和田市)に生まれる。三本木農業高校、麻布獣医専門学校(現麻布大学)卒業。昭和17年(一九四二)2月召集。中国に渡る。昭和21年(一九四六)6月帰還。昭和22年(一九四七)北里研究所三本木支所入所。昭和38年(一九六三)北里研究所三本木支所閉鎖に伴い、柏市の家畜衛生研究所勤務。昭和55年(一九八〇)定年退職。以後、嘱託で70歳まで勤め、現在に至っている。
 埼玉県白岡町在住。 (獣医師・医学博士)
 【元気の秘密】
 毎日1万歩あるき体を鍛え、ボランティアという生甲斐を持っている。

 祖母が七戸町出身

koizumisinya.jpg 祖母が七戸町出身という小泉真也さん。このほど、香港で大ヒットした『空の唄』を日本語カバーした。
 この『空の唄』は、香港の人気タレント、アレックス・フォン(方力申)が歌い大ヒットした曲。
 アレックスは、水泳の元香港代表選手で、2000年のシドニー五輪で活躍したあと芸能界入りし、「飛魚王子」として人気を集めた。
 小泉さんが、このアレックスと友人であったことから、今回の日本語カバーが実現したもの。
 小泉さんの祖母が七戸町出身で、小泉さんは青森市で生まれた。昭和音楽芸術学院ミュージカル科を卒業後、ミュージカルスターとして4212回のステージを踏んだベテラン。ダンスでは、松任谷正隆による、最優秀賞等を受賞。現在は、ボーカル、ダンサー、司会者として活躍している。

 世田谷の高級住宅地で安さと地域密着で伸ばす。十和田市出身、創業15年で年商158億の住宅建築会社をつくる
 nakanowataririhatiroui.jpg十和田市出身で、創業わずか15年で年商158億円の住宅建築の会社を作った社長がいる。㈱東京組会長の中野渡利八郎(62)さんがその人である。
 中野渡利八郎さんは昭和20年(一九四五)10月、十和田市に生まれた。昭和39年(一九六四)三本木農業高校土木科を卒業。1年間父のやっていた土木建設の会社に勤め、昭和40年(一九六五)に上京し、工務店に勤めた。昭和42年(一九六七)、家の事情で帰郷、父から引継いでやっていた兄(中野渡利彦)の会社に勤めた。が、兄の会社が倒産したために再び上京。昭和48年(一九七三)にミサワホームに勤めた。ミサワホームに20年ほど勤め、平成5年(一九九三)に、住宅建築会社㈱東京組を設立し現在に至っている。
 ㈱東京組の、その成長ぶりは凄まじい。
 ちなみに平成11年(一九九九)からの住宅の完工棟数及び売上高をみると、平成11年の完工棟数は133棟で、売上高は約19億5千万円(百万以下は四捨五入)だったものが、翌平成12年度は145棟、約39億円と倍増。平成13年度141棟、約40億5千万円。平成14年度160棟、41億9千万円。平成15年度194棟、約64億円と50億円を突破。平成16年度305棟、約96億円。平成17年度333棟、約105億5千万円と100億円を突破。平成18年度290棟、約158億円と150億円を突破。平成19年度283棟、約101億3千万円である。平成19年の売上が落ちたのは、平成17年(二〇〇五)に発覚した姉歯事件を受けて、建築基準法が改正され、建築確認の申請が滞ったためである。
tokyougumi2.jpg なぜ、短期間にこのように伸びたのだろうか。
 まず、住宅建築会社の常識を破り①営業を置かず、展示場も作らず、中間経費を徹底して削減。その経費分、建築費を安くし、建物で差別化してきた。そのため、坪単価で他社より10万~15万安くできた。
 ②それではどこから注文を受けたか。不動産屋である。東京組は安くていい家だよという評判が、不動産屋から火がつき、不動産屋が紹介してくれた。こうして15年間に約2600棟建築している。
 ③エリアを高級住宅地である世田谷区に絞り地域に密着した。そのために、きめ細かいサービス及び経費の節減ができた。
 ④ドアやガラス戸、タイルなど建築資材を独自に開発。中国やイタリアに外注しているなどである。
 創業15年で、従業員約80名、年商158億円の住宅建築会社を作った中野渡利八郎さん。今度はふるさとのために何か仕事がしたいと語る。

 写真は、東京の住宅建設・設計関係者では知らぬ者がいない㈱東京組代表取締役会長の中野渡利八郎さん。創業わずか15年で年商158億の会社を作りあげた。十和田乗馬倶楽部会長の中野渡利彦さんは実兄

 山谷吉輝さん73歳今だバリバリの現役だ
 yamataniyositeru.jpg「動物は、匂いでいい人かどうか感じることが出来るんです。動物がそう感じたとき、どうにでも動かせるんです」と語る山谷吉輝さん。
 当時、「馬に初めてお座りさせた男」として、テレビなどでも紹介されたが、ポニー(背丈148㌢以下の馬)を、手綱と鞭一つで、子犬のようにお座りさせたり、二本立ちさせたり、横歩き、スキップなど、馬を自由に操る日本一のポニーの調教師である。
 東京・世田谷の日本中央競馬会(JRA)馬事公苑退職後も、各地の乗馬クラブで、ポニーの調教・指導、そして軽乗の普及など、73歳になった現在でもバリバリの現役として活躍している。
 山谷吉輝さんは、昭和9年(一九三四)12月、七戸町で生まれた。実家は同町山屋の薬師神社の別当であった。七戸町の西野小、七戸中学校を卒業。東北牧場、奥羽種畜牧場を経て、昭和28年(一九五三)、18歳のとき、「俺は馬をつくる人になりたい」と、数日分のおにぎりを持って上京した。
 そして、当時世田谷区にあった、清風会乗馬クラブに入り、ここで、『七人の侍』で三船敏郎が乗った木曽馬を調教した。
 そこでの実績が認められ、昭和29年(一九五四)に中央競馬会・馬事公苑に引き抜かれ勤務した。
 昭和31年(一九五六)、ポニーの世話を任された。
 山谷さんは馬に親しんでもらおうと、当時、馬事公苑長であった津軽義孝氏の提案もあり、ポニーの調教を行い、試行錯誤を重ね、苦労の末、前述したようなこれまで誰もやったことのない芸を仕込み、昭和34年(一九五九)の国体を皮切りに、各種馬術大会や、天皇賞など競馬のレースでポニーの演技を披露。
 また、子どもたちに軽乗を教えると、共に普及してきた。
komakkokurabu.jpg 「軽乗は、むかしはオリンピックの種目にもありました。軽乗は、手綱も鐙もない馬の背の上で、バランスよく様々な動きをする騎乗の基本技術で、これをマスターすることによって、恐怖感が取り除かれ、障害馬術や馬場馬術の素地が出来上がります」と語る。
 昭和47年(一九七二)にJRA功労賞、平成7年(一九九五)に日本馬術連盟功労賞。また今年(二〇〇七)は七戸町文化賞を受賞した。
 これまで100頭を超えるポニーを調教。これからの夢は、「軽乗」の全国組織をつくることだという。
kudoutomomi1.jpgkudoutomomi2.jpg 今年の駒フェスタの会場の一角に、沢山の人たちが集まっていた。何だろうと行ってみると、ジャグリングをやっていた。
 技術的には決してうまいとは云えないが、その未熟さを笑いでカバーしていた。オッ、これは違うぞと、終わってから話を聞いてみると、ナント、十和田市出身の大道芸人で、バイクにジャグリングや曲芸の道具を一式積み込み、全国を駆け巡ってるということであった。
 工藤さんは、昭和53年(1978)、十和田市に生まれた。三本木中、三本木高校を卒業。と同時に上京。フィットネススポーツクラブに、インストラクターとして入った。同クラブで九州に転勤になったとき、たまたま大道芸人を見た。
 感動した。子どもたちに、このような非日常的な、ドキドキ、ワクワクするようなものを見せたい。工藤さんは、スポーツクラブをやめ、群馬県にある沢入国際サーカス学校に入った。ここは4年制だが、自分は年齢的にも若くないからと、2年で卒業させてもらい、今年9月に、修業の旅に出たということであった。
 また来年もくるという。その成長が楽しみである。
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