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 十和田市出身のオペラ歌手加賀ひとみさん、日生劇場オペラ『カプレーティ家とモンテッキ家』で、主役のロミオを見事に演ずる
 kagahitomi2.jpg十和田市出身のオペラ歌手加賀ひとみさん(メゾソプラノ)が、11月10日、11日の両日、東京・日生劇場で行われた、ベッリーニ作曲のオペラ、一般的には「ロミオとジュリエット」で知られる『カプレーティ家とモンテッキ家』で、林美智子とダブルキャストで、主役のロミオを演じた。
 加賀さんはこのうち、11日の舞台での出演であった。
 今回の「ロミオとジュリエット」は、若手演出家の田尾下哲によるもので、激しい殺陣シーンが取り入れられ、物語に起伏があり、展開はハイテンポで、観客を最後まで引き付けるものであった。
 加賀さんは、歌や演技のうまさと相まって、その大役を見事にこなした。
 私はオペラなんて観たこない。難しいでしょうと、これまで思っていた人でも、十分楽しめた「ロミオとジュリエット」であった。その中で、また一回り成長した加賀ひとみを感じることができた舞台であった。

日生劇場オペラ「ロミオとジュリエット」で、十和田市出身のメゾソプラノ歌手加賀ひとみさんが主役のロメーオ役で出演決まる!!
 kagahitomi.jpg十和田市出身のメゾソプラノ歌手加賀ひとみさんが、11月11日(日)に行われる、日生劇場オペラ『カプレーティ家とモンテッキ家‐ロミオとジュリエット』で、主役のロメーオに抜擢された。
 オペラ『ロミオとジュリエット』は、ベッリーニ作曲の、誰でもが知っている許されぬ恋の物語。主役のロメーオ役は、男性が歌うのが一般的だが、今回の田尾下哲の演出はメゾソプラノが歌うのが特徴。そこで白羽の矢が当ったのが加賀ひとみさんである。
 今回の『ロミオとジュリエット』の解説には、「新国立劇場公演『ヘンゼルとグレーテル』ヘンゼル役を始めとして、数々のオペラ公演に出演している加賀ひとみ」と、加賀さんを紹介している。
 十和田市出身では初めての、中央で活躍するオペラ歌手の誕生である。
 音楽は、新日本フィルハーモニー交響楽団。
 日生劇場オペラ『カプレーティ家とモンテッキ家‐ロミオとジュリエット』は、
 ▽日時/11月11日(日)午後2時~

 ▽会場/日生劇場

 ▽入場/S席13000円、A席11000円、B席9000円、C席7000円、D席5000円。チケットはすでに販売されている。

 新劇女優から講談師へ、45歳で前座、そして文化庁芸術祭賞を受賞

takaraikinryou1.jpg 扇子で机をパパンと叩き、威勢よく語る講談。その起源は、江戸時代の辻講釈から始まるという、日本で最も歴史の古い話芸の一つである。
 講談は、江戸末期から明治時代にかけて全盛期を迎えたが、漫才や落語など大衆芸能に押されて衰退。特に戦後、その語りの内容が封建制度の擁護や仇討ちなど、復讐の賛美の要素があるとして、一部の演目がGHQによって禁止されたこともあった。
 しかし、男性中心だった講談界に女流講談師が登場すると共に、再び人気を取り戻している。その先陣を切った一人が宝井琴嶺さんである。
 宝井(本名=塚田善子)さんは、昭和13年(一九三八)東京都に生まれた。戦争が激しくなり、一家は父の故郷である黒石に転居。宝井さんはそこで、黒石小、同中、同高を卒業。小学校のときの同級生では女優の小山内美那子がいた。
 宝井さんは、父の影響もあり、小学校の頃から地方巡業に来る「前進座」などの舞台を観て育った。そんなことから、人前に出て演ずることが好きで、中学校、高校は演劇部で活躍。卒業と同時に上京、中央芸術劇団を経て東京芸術座に入座。劇団女優として舞台に立ち、全国を廻った。
 やがて同じ劇団員と結婚、子供が生まれた。全国公演のときは、子供を従妹や友人にお願いし舞台に立っていた。が、二人目の子供が産まれたとき、子育てと劇団の活動が両立できなくなり退団した。
 しかし、生来の舞台好き。そんなとき出会ったのが講談師の宝井馬琴であった。もともとしゃべることを商売にしてきた宝井さん、講談だと、一人でも稽古ができ、子育てと両立できる。早速馬琴に弟子入りした。昭和54年(一九七九)、宝井さん41歳のときである。
 こうして昭和58年(一九八三)45歳で講談協会で前座として初舞台。平成2年(一九九〇)、名も琴嶺と改め真打に昇進。平成5年(一九九三)には、女流講談師としては初めて文化庁演芸部門芸術祭賞を受賞した。
 また、平成8年(一九九六)に、文化功労者として青森県褒章を授与している。

 プロデュースした映画『きみにしか聞こえない』がヒット中
 matuhasisinzou.jpg日本は今、空前の映画ブームである。日本映画製作者連盟(映連)の調査によると、平成18年(二〇〇六)に公開された日本映画は417本。その興行収入が前年比132㌫増で、洋画を上回った。
 その417本のうち興収10億円を越えたのが28本。松橋さんが映画製作会社を立ち上げ、その第一作目として、プロデュースした『ただ、君を愛してる』(新城毅彦監督/玉木宏・宮崎あおい主演/昨年10月公開)が9億円の興収を上げ、ベスト30位以内に入っている。
 そして2作目、今年6月16日に公開された『きみにしか聞こえない』(荻島達也監督/成海璃子・小出恵介主演)が、6月28日発売の『ぴあ』、最新映画満足度で、100点満点の91点で、第2位にランキングされるなど、順調な滑り出しを見せている。
 映画プロデューサーの仕事は、映画の表面にはあまり出ないが、映画の企画から、脚本家、映画監督、キャストの選定、資金の調達、ロケ地の選定など、映画を商品化して行く全てを担う。
 したがって、まず企画が悪ければ、脚本家も、映画監督もついて来ないだろうし、赤字がでれば全部自分で背負わなければならない。映画に対する感性から、経営能力まで、総合力が要求される。
 その中で、松橋さんが製作した映画は2本とも続けてヒットを飛ばしている。
 松橋さんは、昭和44年(一九六九)8月、十和田市に生まれた。三本木高校、早稲田大学卒業。もともと映画が好きだったことから、大学を卒業すると、衛星放送のWOWOWに入社。BS5チャンネル及びBSデジタル放送で製作を担当。映画も何本かプロデュースしてきた。
 そして、平成12年(二〇〇〇)12月に公開された、深作欣二監督の『バトル・ロワイアル』に、協力プロデューサーとして参加。この『バトル・ロワイアル』が大ヒット。このときのプロデュースが評価され、独立の話が持ち込まれた。
 こうして平成17年(二〇〇五)に独立。映画製作会社㈱STUDIO SWANを立ち上げた。そしてその第一作目として制作したのが前述した『ただ、君を愛してる』。二作目は『きみにしか聞こえない』。三作目は、ホラー映画『エクスクロス‐魔境伝説』(深作健太監督)もすでに製作。今年12月に全国東映系で公開。四作目はこの夏から撮影に入るという。
 松橋さんは、将来は十和田市を舞台に映画を創りたいと夢を語る。十和田市出身の、新進気鋭の映画プロデューサーの誕生である。

 

「健康こそ人生の最大の喜び」と健康推進に東奔西走する
 kawamurakenji.jpg「病気の79㌫は後天的なものです。つまり食習慣、生活習慣によって、病気になりやすい身体になるか。病気になりくい身体になるかが決まってくるわけです。食習慣・生活習慣で大事なのは、身体の冷えと過食、そして水なんです。
 身体の冷えでは、体温が35℃以下のひとはガンにかかる率が非常に高い。
 過食は肥満につながり、肥満は糖尿病をはじめ万病のもととなる。
 水は、年齢によって違いますが、大体身体の60㌫を占めている。人間の身体の半分以上は水で出来ているわけですから、当然身体に良い水を補給することが大事なわけです。
病気がちな人、慢性的疾患でなかなか治りにくい人は、食習慣・生活習慣をかえなければなりません。
 それと、身体づくりは、安全で有害物質が入っていないもので、身体の機能を高めるものでなければなりません。健康こそが人生の最大の喜びです」と、とうとうと健康について語る川村さん。NHKの「ためしてがってん」など、健康関連のテレビ出演や講演などで、東奔西走している。
 川村賢司さん、昭和15年9月、野辺地町に生まれる。弘前大学付属野辺地中学卒業。北里衛生科学専門学校(北里大学の前身)、東京理科大学と二つの学校を並行して入る。
 県立野辺地高校のとき、生物クラブに入って、3年生のとき、全日本理科研究発表会で最優秀賞、実に読売科学賞も最優秀賞をとった。それが、北里衛生科学専門学校へ進むきっかけになった。
 卒業後、北里大学薬学部に助手として入り、国内留学で、東京医科大学薬理学講座研究生となる。ここで学位(医学博士)を取得。北里大学に戻り准教授となる。
 北里大学では、東京医薬専門学校の講師も兼任し、主にはバイオ技術教育を、日本で初めて教育産業の体系つくりをした。北里大学は20年間勤め退職。
 退職後は、滋慶学園理事に就任。現在は、㈱東京科学技術研究所所長、日本バイオ技術教育学会専務理事、産業技術学園理事、淅江中医大学客員教授(中国)、日本薬理学会評議員、日本トキシコロジー学会評議員、日本毒学学会評議員などを務める。
 この間、医薬品、農薬、環境汚染物質の毒性及び薬理学、前臨床研究で活動する他、各種健康食品の分析・診断など専門分野での活動。特に健康食品については、その分析・診断を行うなど見識が深い。
 また、NHKの「ためしてがってん」など、テレビの健康番組に出演他、各地の健康講座の講師などで活躍している。
 著書に、『オタネ人参果実「人参子」の秘密』(ジーオ企画出版刊)、『梅干は超・天才食品ーガン予防から合格頭脳まで』(ごま書房刊)、『アガリクス奇跡の検証ー自然治癒力・免疫力・新陳代謝力をパワーアップするミラクルきのこ』(ごま書房刊)、『血液を元気にする本』(アイ・ティ・コム刊)、『ニンジン・アルカロイドの奇跡』(ごま書房刊)など多数ある。

日本イタリア声楽コンコルソ及び日本音楽コンクール声楽部門優勝
 

kowatarieriko.jpg kowatarieriko2.jpg三八五流通㈱のテレビコマーシャル「だいじょうぶ!」で知られるソプラノ歌手の小渡恵利子さん。
 「日本イタリア声楽コンコルソに優勝したんです。その副賞はイタリアに2年間留学のための留学資金なんですが、これは留学しなければそのお金が下りない。勿論、そのお金だけでは足りない。私自身もお金がない。そのとき、国際ソロプチミスト十和田さんなどがコンサートをやってくれて留学資金を作ってくれて、何とかイタリアに留学しました。
 ところがそのとき、湾岸戦争(91年)が起きて円の価値が下がった。それで、お金が足らなくなって、2年の留学の予定が1年で帰ってきました。
 そのとき、羽田に着いたとき財布に7000円しかなかったんです。ところが私の窮状を知った知人が羽田まで10万円持ってきてくれました。嬉しかったですね。
 帰国したのは7月。日本音楽コンクールの予選は8月で、本選が10月なんですね。イタリアから帰って一番お金のないときですから、ともかく食べなければならない。生活のためにアルバイトをしながら、昼の3時間の休憩時に友だちのところに行って練習をして、それで第一次予選を通過して、本選に臨んで優勝したんです。ワッハッハハ...」と快活に笑う。
 声楽家という夢の実現のために、すべてをそこにつぎ込んできた小渡さん。何とタフで、底抜けに明るい。
 しかし、「一時期睡眠障害となり、睡眠薬がなければ眠れない時期もありました。それを克服して現在があります」と、苦しかった時代を語る。
 小渡さんの本籍は倉石村(現五戸町)だが、父の仕事の関係で、昭和38年(一九六三)9月、むつ市で生まれ、南部町で育ち、南部中学校から、音楽の先生の薦めもあって、白菊学園高校(現八戸聖ウルスラ学院高校)音楽科に進んだ。白菊から山形大学教育学部特設音楽科に進んだが、声楽家になりたいという夢が強くなり、2年目に芸大を受け合格。芸大卒業後、同大学院オペラ科修了した。大学院は授業料は免除であったが、育英会の奨学金とアルバイトをしながら大学に通った。
 芸大時代にこんなこともあった。酒場でカラオケを歌っていると、おじさんが近寄ってきて、名刺を差し出して歌手にならないかといった。
 ちょうど森昌子が引退したときで、その代わりとなる歌手を探していた。
 「あのとき、それに乗っていたら私の人生も変わっていたでしょうね」と笑う。
 芸大卒業後、1年間アルバイトをし、二期会の研修生となり、予科、本科、マスタークラスを修了。そして、前述した日本イタリア声楽コンコルソで優勝。1年間イタリアに留学し、日本音楽コンクール声楽部門で優勝し、声楽家としての地位を不動のものとし、以後、コンサートを中心に活動してきている。
 「私はこれまで、国際ソロプチミスト十和田の皆さん、三八五流通㈱さんをはじめ、本当に多くの人たちに助けられて来ました。ですから、これからは音楽を通して社会にお返ししたい。魂に響くような歌をうたいたい。これが現在の私の夢です」と語る。

 

国連、ヴァチカン等国際舞台で花を生ける旧十和田湖町出身の東本節子さん
 higasimotosetuko1.jpg「私の原点は、十和田のこの広い空、自然の美しさです」と語る東本節子さん。
 東本さんはこれまで、95年英国王立園芸協会主催のチェルシーフラワーショーでシルバーメダル賞。96年ニュージーランド・WAFA世界大会「美あり、神秘あり」部門で最優秀賞。98年南半球最大のフラワーショー「エラズリーフラワーショー」でシルバーメダル賞など、国際的な大きな賞を受賞。
 また、97年より毎年、国連デーの、国連本部でのパーティー会場の装飾。00年には、ヴァチカン市国の聖霊降臨大祝日の法皇特別ミサの聖ペテロ広場装飾など、これまた日本人としては数少ない場で花を生けている。
 さらに、オランダ、フランス、ニューヨーク、モンゴル等で、花の平和大使として、個展ないし出展。日本のフラワーデザインの技術を世界に広めたとして特別賞を受賞するなど世界舞台で活躍する東本節子さん。今や日本を代表する世界のフラワーアーチストの一人である。
 higasimotosetuko2.jpg東本節子さんは、昭和27年(一九五二)旧十和田湖町沢田に生まれた。三本木高校を卒業。卒業と同時に上京、OLを経て結婚。ごく普通の家庭の主婦となった。
 二人目の子供が生まれた時、自分が一生をかけれるものが欲しいと、自分探しをした。その時出合ったのが花である。
 「29歳の時です。自分探しをして、私しか出来ない何かがある筈だ。その時出合ったのが花です。花をやって今になって分かったことは、平和活動なんです。花ってなんだろう。人を癒し、喜びを与え、自然と同じように、私たちを励ましてくれるんですね」と語る。
 東本さんの花に対する想いは、自己の表現であった。
 そしていきなり、平成4年(一九九二)、東本さん39歳の時、花を始めてわずか10年ちょっと過ぎた頃、10年に一度行われるオランダ・フロリアード92に出展する機会を与えられた。
 日本の生花と西洋のフラワーデザインを融合したような東本さんの斬新な作品は、新しい感覚のフラワーデザインとして注目を集めた。これが東本さんが世界へ飛び出すきっかけとなった。
 以後、前述したように、花の国際的様々な賞を受賞。現在、花永遠を主宰すると共に、国際的フラワーアーチストとして国際舞台で活躍している。
 また、NPO法人花Eternityを設立し、環境問題や、花を通した心の平和活動をしている。
 著書に『青の時代』(実業乃日本社刊)、『花の願い』(アーツ アンド クラフツ刊)がある。

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