はたらくひと必読!仕事人!!

父から継いだこだわりの黒にんにく
自信を持って広めたい青森の味力
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~畑山啓恵さんプロフィール~
 昭和57年6月30日生まれ。十和田市出身。三姉妹の末っ子として育ち、父親が子どもたちのためにと平成18年に起業した米の卸し業を手伝う。平成18年に父親の体調が悪くなり、その時奨められてた「黒にんにく」に興味を持ち、手探りで研究を兼ねて生産を始めた。ヨーロッパで開催されるモンドセレクションにも3度選ばれ、金賞を受賞するまでとなった。

 今回は現在全国で注目を浴びている「黒にんにく」を生産している「青森第一食糧有限会社」代表取締役・畑山啓恵さんを訪ねた。
 会社に到着し車を降りると、にんにくの食欲をそそる匂いが鼻に飛び込んでくる。昔はカラオケボックスだった場所を室(熟成庫)に改装し、会社を設立。黒にんにくを自社生産し全国に販売している。
 当時は黒にんにくの生産が少なかった時代、製造法も社外秘の会社が多く、初めは自分たちで一から研究しながら温湿度の管理や塾製法を編み出した。完成までに捨てる事となった多くのにんにくのおかげで海外のコンテストでも金賞を受賞するまでの品質となった。JAから直接ミネラルが豊富なにんにくを仕入れ品質管理にもこだわりがある。
 一番嬉しいのは電話で注文してくれるお客様から直接感謝の声が聞けること。熟成したにんにくの成分には様々な効果があると注目されている。昔は嫌だった亡くなった父親の手伝いも今では自分の生きがいとなり本当に感謝している。これからは女性であることを武器に、女性ならではの目線で出来ることにも取り組んでいきたいと語った。
 生産を始めた頃の夢は「全国に黒にんにくを広めたい」だった。それが叶った次の目標は青森県でしか買えない地域限定商品の開発だという。完成までは情報発信出来ないが今後に期待したいと感じた。ご注文、お問い合わせは...0176‐23‐7118迄
インターネットで地元の魅力を発信
生産者と消費者をつなげる仕事人
身体を動かす地域密着のIT企業
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~岡山拓也さんプロフィール~
昭和57年7月9日生まれ(34歳)
十和田市出身。学生時代はサッカー部に所属し活躍。三本木高等学校を卒業後は文京大学情報学部へ進学した。当時はインターネットが普及し始めた頃でIT企業に興味を持ち、現在ではブラック企業といわれる某ベンチャー企業に就職し朝から晩まで働いた。知り合いの先輩に誘われシステムサーバーメンテナンスの会社に転職したが地元に帰郷する事を前提に仕事を考え、EC業者にターゲットをしぼり、2011年に地元食材をネット販売する㈱WANDを起業した。
 今回は株式会社WANDの代表取締役・岡山拓也さんを訪ねた。パッと見の外見からは強面に見える岡山さんは話しをすると気さくで温かく知性を感じさせる話術もあり、若くして会社を起業した根拠と自信をうかがわせた。
 学生当時、インターネットが普及し始めた頃からIT関連の仕事に興味を持ち、大学と社会で様々な事を学びながら、将来は地元に帰郷する事を前提に戻ってきたら何をするかを考えていた。
 様々な職業の中で絶対になくならないものは「食」業。地元では安価な食材が関東では高値で販売されている。農家では品質や形によって食べられるのに捨ててしまう食材があるという事を知り「もったいない」の気持ちから自分が架け橋となって生産者と消費者がどちらも喜んでくれる仕事、地元食材を直接仕入れ、通信販売で安価で全国へ配送をする事業の起業へと辿り着いた。
 帰郷してからすぐに単身で農家に飛び込んで営業。想いを伝え、会社の説明をして各地を回ったが...当時はどこも相手にしてくれなかったという。まずは農家を知る事から始めようとJAおいらせふじさか青年部に入会。実際に農家の手伝いをしながら無農薬のオーガニック商品や選別で捨てられてしまう良品食材に目をつけた。少しでも高く買い、少しでも安く売るために農家に直接交渉し、ネット販売事業は大成功を収める。
 地元から学んだ事が多かったという岡山さんは十和田青年会議所にも入会し、地域密着の企業として地域のためにあり続けたいと語った。商品に関するお問い合わせはオンラインショップ「青森機体の新人商店」を検索。または...0176‐27‐6234迄
自然と触れ合う子どもの居場所
拡げていきたい親子の時間
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Happy  Children
新藤 幸子さん
 今回スポットを当てたのは自分の家の庭にプレパークを作り、自然の中で遊ぶ子供たちの成長をSNSなどで発信しているHappyChildren新藤幸子さんを訪ねた。新藤さんは昭和46年12月15日生まれ。弘前出身、転勤や結婚を機に子育てをするならここだと思い、平成9年に十和田市に移住してきた。現在は三男一女の4人の子育てに奮闘中。
 当時、長男が4年生 の頃に近所の子どもたちが家に遊びにくる事が多かった。全国的にも言える事だが片親や共働きで親子の時間が作れない家庭が増えてきている現状があり、自分の周りだけでも何とか出来ないだろうかと考えた。昔はよく見かけた空き地や車通りが少ない道路で遊ぶ子供たちは目にしない。根本的に集まって遊べる場所、遊びを許してくれる場所がないと気が付いた。家の中でゲームだけでは心と身体が成長するわけがなく、自然と触れ合いながら子供たちらしい遊び場を作ってあげたいと夫婦で自分の家の庭に手作りの小屋やブランコを作った。そうすると呼びかけているわけでなくても自然と近所の子供たちが集まって遊び始めた。木登りしたり鬼ごっこをしたり、底なしに元気な子供たちはご近所迷惑になりそうなほど遊んだ。悪ガキたちとの思い出も今では懐かしいと語る。最近では自分の庭にある小さな公園で遊ぶ子供たちを見守るだけではなく、ちとせ小学校などの広場を借りて出張プレパークも開催している。情報発信しているSNSでは共感の声が多く、真似してみたい、参加してみたいとの声が市内外からも多く寄せられた。始めは自分の周りだけでも...と始めた子供たちの自然と触れ合える居場所作りは県内でも拡大していき、仕事と子育てを両立している親と子どもの成長の助けとなっている。活動についての情報は...「 ameblo.jp/sa-shindo/ 」を検索。
幸せな木の下で待っている
踊れるパティシエ
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Cafe Happy TREE
パティシエ白山 紋子さん
 今回スポットを当てたのはカフェハッピーツリーを共同経営で起ち上げ、でパティシエとしてお客様を迎える白山紋子さんだ。昭和60年2月11日生まれ。中学時代は引きこもりがちで家で絵を描いていたような生活を送っていたが、友達に誘われダンス教室に通う事になってからは夜も家を抜け出してダンス練習に熱中するような青春時代を過ごしたという。三本木農業高等学校生活科学科へ進学し、卒業してからは興味のあったお菓子作りを学ぶため有名な大阪の製菓の専門学校に進学。大阪では働いて給料を貰いながら製菓づくりを学んだ。十和田市に帰郷してから就活をするが当時は残念ながらパティシエの募集はなかった。三沢市で就職先を見つけることは出来たが業務はパティシエではなく製菓店のホールスタッフだった。通勤が困難だったこともあり約3年間働いたが退職し、十和田市で就職を探す。昔から勤めたいと思っていた京甘堂で短時間働いたり、パソコンを学べる職業体験でネット事業販売に就職するなど自分探しのような時期を過ごす。そんな中、北里大学でダンスサークルが出来たために大学生と一緒にダンスを始める。現在のマスターとは友達を通じここで知り合い自分の表現方法を変えていこうと決める。28歳の時に空いてる倉庫で何かしないかと声を掛けられパンケーキとベーグルのお店を始めた。お客さんがこない日が続き、辞めようかと考えた頃に偶然テレビ局の人がきて取材・放送された。それからは客数もファンも増え、今の物置として使ってた倉庫を改装オープン。気持ちが張りつめていた自分を見直し、今後は頑張り過ぎないでマイペースに生きたいと笑顔で語った。
見えてなくても触ると診える
全盲のマッサージ指圧師
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~南舘 輝夫さんプロフィール~
 昭和25年10月14日生まれ(66歳)十和田市出身。生まれながらに弱視だったために青森県立盲学校に通い、はり師免許・きゅう師免許・あん摩マッサージ指圧師免許の資格を取得。卒業後は十和田市に在った整体院に勤め、昭和49年に独立し、自宅営業を始め、現在開業43年目となる。

 今回は十和田三沢線通りの東小学校の少し手前を曲がった所にある「南舘はり・きゅう・マッサージ治療院」の南舘輝夫さんを訪ねた。昭和49年から創業しているという昔からある治療院の院長・南舘さんは生まれつきの弱視で盲学校を卒業し、あん摩などの資格を取得。全盲の人が少ない十和田市では住む事に不便も多そうだが慣れてしまったのか大変さは感じないという。
 当時は晴眼者の規制もあり、全盲の人が生きるための職として唯一の職業であったあん摩マッサージ指圧師。現在は晴眼のマッサージ師や整体師も増え、開業どころか就職も難しい時代になってきているという。しかし、宣伝などは一切せずに昔から来てくれている患者さんの紹介や評判の口コミだけで今でも30代から肩こりや腰痛で悩むお客様が多く来院してくれている。
 南舘さんは見える人とは違い第6感のうち、何かが不自由になると他の感覚が鋭くなる。視覚の代わりに触覚と聴覚は敏感になったかもしれないという。これは見える人には絶対にわからない感覚で開業してから43年目となる今でもお客様が増えている理由の一つでもあると感じた。
 安心・安全でしかも安い。10分1000円の整体が増えてきている現在でも1時間2000円という診療代はそのまま。なんと20年以上も料金は変えてないというから驚きだ。治療に関するお問い合わせは...0176‐22‐0209迄。
匠の技でシミを消す染色補正の職人
トータルメンテナンスを目指すまちのクリーニング店
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~山道誠剛さんプロフィール~
昭和42年9月23日生まれ(49歳)
 十和田工業高等学校電気科を卒業後は電気関係の仕事ではなく金融機関へ就職し、約7年勤務する。㈲丸善クリーニングの三女と結婚したことを機に退社し、クリーニング業界へと進んだ。平成4年から勤め、まったく違う業種を一から学び、平成17年に代表取締役として就任した。今年で26年目を迎える。

 今回は有限会社丸善クリーニングの代表取締役・山道誠剛さんを訪ねた。金融機関からの転職で全くの素人同然でクリーニング業界へ飛び込んだ山道さんは学ぶ事から始める。県内でも持っている人は少ないという「京技術修染会」の認定を受け、染み抜き復元加工の技術を習得。染み抜きは生地(繊維)とシミの種類(汚れ)を見極め、汚れを落とせる薬品を混ぜ合わせる理科の実験のような感じだという。
 去年、洗濯表示の基準や記号が22種類から44種類に増え、洗い方や干し方が細かく分類されたが一般的に理解している人はまだ少ない。例えば「ドライ」と書いてあれば水を使わないクリーニングの事で家電の洗濯機では本当は出来ない。シミはこすってはいけない事や、漂白剤だけでは落ちない汚れもある。汚れの状態を見てそれに合う薬品を作るので落ちない汚れに悩んでいる人は是非持ってきて欲しいと語った。近年はダメージ加工という服も増えてきたためにジーンズソムリエの資格も取得。ジーンズが出来る過程から勉強をし、ダメージを残したままのリペア(修繕)も得意とする。
 また、「第29回技能グランプリin静岡」に青森県から初めて出場。様々な職種の職人による匠の技を競う全国大会で染色補正の部で出場した。青森みけし洗い研精会にも参加し着物クリーニングの実践勉強もしている。洋服の繊維や汚れの種類も時代と共に変化があり、しっかりと対応していくためにリペアとクリーニング技術を身に付けて裾直しやファスナー直し、服だけではなく靴やバックなどのメンテナンスなども承り、衣料のトータルメンテナンスが出来るクリーニング店を目指してお客様を迎えたいと語った。
 また、高齢のために外出が難しい、時間がないなどのお客様の声もあり、市内だけではなく三沢・五戸・東北町などへも出張でクリーニングの集配も受けている。ご相談・お問い合わせは...0176‐24‐0101(本店)迄。
「成分と品質のナリス」の魅力を伝える
トータルビューティーのプロフェッショナル
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田清第一店舗
小坂 亜希さん
 今回スポットを当てたのは田清第一店舗でトータルビューティーをお勧めしている小坂(旧姓・田中)亜希さんだ。昭和51年11月28日生まれ。三沢高等学校を卒業後は多くのデザイナーや著名人を輩出している文化服装学院系列の文化女子大学(現文化学園大学)に進学し、家政学部造形学科インテリアデザインコースで学ぶ。卒業後は様々な職種の仕事を経験しながら東京で働いていた。家業である田清第一店舗で定年退職者が多く出た時期があり、父親を手伝うために27歳で帰郷。衣料の販売をメインにしながら働いていたが(株)ナリス化粧品の製品をお店で扱うようになり次第にその魅力に惹かれていった。製品の魅力をもっと多くの人に伝えたいという想いでフェイシャルエステやフットケア、ボディケア、ネイルやメイクアップなど様々な資格を取得し、約6年前に店内の一角に姉妹二人の名前の頭文字からとったR&Aというトータルビューティーのスペースを作った。創業85周年を迎えたナリス化粧品は「余分なものを取り除き必要なものを与える」という美容理論のもと、安全性や効果効能の高い製品を取り扱っている。もし肌トラブルや化粧品選びに困っている人がいたら是非お勧めしたいと語る。
 化粧品販売だけではなくトータルビューティーを目指したのはお客様の肌の悩みやその人にあったプランなどを相談しながら考えておススメ出来るからだ。「肌を変えていく自信はある!」そう語る小坂さんの話しからナリス製品に対する愛情が伝わってきた。これからはアロマやヘアメイクの資格なども取得して女性の悩みにもっと応えられるようにしていきたいと語った。
大きな平野に羽ばたく仕事人
勇知を持って起業した紙器製造
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~平野 訓弘さんプロフィール~
 昭和21年5月26日生まれ(70歳)岐阜県出身。高校を卒業してから家業の平野商店を継ぐ。包装資材の販売の業務から縁があり紙トレーなどの製造の仕事に転機。それからは平野紙器工業所、株式会社平野紙器、ビッグプレイン株式会社と事業を拡大。16年前に十和田市の誘致企業として創業。女性の雇用、働きやすい職場を推進してきた。去年、借家だった工場から移転、新たに新工場社屋を建設し更なる飛躍を目指す。

 今回は誘致企業として十和田市に工場を建設。去年、念願の新工場社屋を設立したビッグプレイン株式会社の代表取締役・平野訓弘さんを訪ねた。岐阜県出身の平野さんがなぜ十和田市に工場を建設してくれたのか、その人柄や社長となった経緯などを聞いてみた。
人生の転機
 岐阜県に生まれた平野さんは高校時代は演劇部で活躍。芸能界に興味があり、将来は俳優になりたいと夢を持っていた。しかし母親が有名な占い師に占ってもらうと、「息子さんは一旦家を出ると二度と戻ってはこない」と言われ、なんとか家業を継いで欲しいと頼まれたという。夢を諦める代償として当時高級車だった日産のプリンス・スカイラインを買う事を条件に出す。お金の使い道には厳しく経済的にも余裕がない時代。断られると思っていた返事は「わかった」でした。両親の思いに平野さんも覚悟を決めて家業である「平野商店」を継いだ。
商売の転機
 元々はお菓子の包装紙やのし紙などの包装資材を販売する業務だったがお客様から和菓子に使うトレー紙(紙カップ)を作ってくれないかと頼まれ手探りながら製造業を始める。それが軌道にのってきたために販売するディーラーから製造するメーカーとなる。商売も自宅兼工場では手狭になり、昭和41年に「平野紙器工業所」を建設し事業を拡大した。平野さんは父親がものづくりと営業、母親が仕入れや財務を担当し、その両方を学べる英才教育のような環境で商売を学び育った。
運命の出会い
 昭和42年に山崎製パン㈱様と出会う。出会うと言っても偶然や紹介ではなく、これからの会社の命運を掛けた山崎製パンへの飛び込み営業だった。当時の資材課課長に「山崎製パンと真剣に付き合えますか?本当に大変ですよ?」と笑顔で問われ、試されるような厳しい注文を受注し、それを二日間徹夜で仕上げて認めてもらった。当時は交通手段の選択肢が少なく、全国へ工場を急激に拡大展開していた山崎製パンの指定業者として貨物列車で品物を送るなどの不便もあったが、父の教えの「受けた注文は必ず納期を守って届ける」を実行し、共に拡大するために東北地方への進出も視野に入れ始める。
事業の拡大・社長就任
 業績も右肩上がりとなり、昭和51年に「株式会社平野紙器」を設立。業界トップメーカーを目指す。この頃には父親と意見が対立することもあり、一時家業を離れるが他の会社の組織の一員として社員教育、財務管理、顧客管理などを学び約5年の武者修行を終え戻ってくる。昭和59年には本拠地の工場を移し、量産体制を整え、販売拡大のためにビッグプレイン株式会社を設立。同年に社長として就任した。45歳で社長となってからは「良品・安価・デリバリー・信用」を信念に就く。そして責任を強く感じながらも、夢だった自分独りで起ち上げる工場建設に動き出す。
理想の工場
 十和田市は山崎製パンの十和田工場があること、北海道にも近く東北圏内を回れること、観光地でもあり、自然環境や食材も豊富、なにより人が良いと判断し決断した。誘致企業の話しもあり、平成12年に借家として工場を借り稼働した。工場と言っても紙器製造なので女性を中心に運営が出来る会社として、女性が働ける雇用環境を作り、地元の人にやりがいを持って働いてもらいたい。理想の工場を求めるたった独りの挑戦から始まった。
十和田進出
 働く場を作っても働く人がいなければ工場は稼働しない。知り合いなどいない十和田市で唯一の知人で縁があった氣田さんにお願いをし、面接の手伝いを頼んだ。30名の応募に120名が殺到し、その中から採用。面接が終わってから最後に私も一緒に働きたいと気持ちをいただき2人3脚で理想を叶えるパートナーとして採用する事となった。それから16年、十和田市だけではなく五戸町や七戸町からも雇用をし、地元雇用を支える企業として活躍する。
信用は企業の命
 「信用は山登りと同じく一歩ずつ上がるのは大変で落ちるのは一瞬」そう語る平野さんは社員の反対を押し切ってまで東日本大震災の時に地上の交通手段が限られた時にも赤字を覚悟で空輸で注文の品を配送したという。お金は無くなっても信用を無くさなければ必ず戻ってくる。その言葉を証明するように業績は更に伸びた。
夢の実現
 平成28年に夢だった自社工場を建設した。工場内はストレスが感じにくくなるように屋根が高く衛生的で広い空間がある設計。社屋は無駄なものがなく、それでも細かいこだわりが要所にある。「和をもって人とのつながりをつくる」を社訓に平野紙器・アイテック(機器製造会社)・ビッグプレインの調和を図り共に発展していきたい。次の夢は世界に羽ばたいていけるように挑戦していきたいと語った。 
株式会社 小原工業
十和田香美工房 開発室
松田 美穂子さん
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食卓のご飯にちょい足しのひと工夫
菜食健美を求めるものづくり
 今回スポットを当てたのは次々とドレッシングなどの新商品を開発・販売している㈱小原工業 十和田香美工房 食品開発室の松田美穂子さんだ。
昭和45年8月26日生まれ。三本木高等学校を卒業後は北海道の札幌大学短期大学部に進学。帰郷してからは家業である㈱小原工業の事務として就職した。趣味として始めていた英国式マッサージ(リフレクソロジー)を自宅サロンでやるなど女性とも接する機会が多く、建設業事務だけではなく美と健康と食をつなげる仕事にも次第に興味が強くなった。
 加工食品とは縁のない業種だが元々実家が農家で昔から野菜を使って自家製のタレを作っていたという。その韓国風醤油タレの評判が良く、商品化出来ないかと勧められていたところに異業種参入という支援事業があり、手探りながら加工食品として販売する事となった。
 平成25年に「ちょいちょいシリーズ」としてみそとしょうゆの4種類の調味料を販売。平成26年に委託製造から自社に加工場を作り自社製造を始める。平成27年には林檎と山葡萄ドレッシングや林檎と姫トマトドレッシングや華やぎ香美塩などを増やしてスタッフを雇うまでとなった。平成28年には真空パックなど出来るレトルト機も購入し他の加工食品の委託も受けるようになる。平成29年に激辛の地獄みそシリーズも発売するなど創作意欲は止まらない。松田さんは常になにかを作り続ける「ものづくり」を楽しんでいきたい。熱や混合で成分や色が変化するものがあるので科学的な勉強も学んでいきたいと語った。
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安心・安全を届けるタイヤ屋さん
カーライフに必要な車を支える力持ち
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~石田朋也さんプロフィール~
昭和50年8月30日生まれ(41歳)
 十和田中学校を卒業してからは八戸工業高等専門学校土木工学科へ進学。5年間学業を努め卒業後は関東にある建設会社に就職した。
 平成15年に父親が「タイヤガーデン十和田」を起業することとなり、家業を手伝うために帰郷した。今までの建設業ではないタイヤの販売や交換や修理なども覚えながら外回りの営業を担当。営業に必要な知識と人脈を築きながら平成25年に代表取締役として就任した。

 今回訊ねたのは旧4号線沿いにあるタイヤの専門店、タイヤガーデン十和田の代表取締役・石田朋也さんだ。阿部寛似の濃い顔に高身長で高校時代はバスケしていたというのもうなずける。
 一時は建設業の道へ進んだが家業を継ぐために帰郷した石田さんは代表取締役と言っても社長室で黙って座っているのではなく、タイヤ販売をメインに交換や修理など業務とし、基本は外回りの営業だという。人脈を作るため、ものの仕組みや考え方を学ぶために平成20年に十和田青年会議所にも入会し、約9年間努めた。
 当たり前の事だが車はタイヤが無くては走らない。ただ走ればいいかと言えばそうではなく、タイヤのすり減りが原因で事故につながる事も多い。車を運転するには大事な部品だが意外とその特徴を知らない人も多い。
 例えば夏タイヤなら雨で滑らないかどうかや燃費の違いにも影響がある。冬タイヤはゴムの種類や模様(パターン)で止まる距離も違う。最近は静かに走れる事が特徴のタイヤなども需要があると教えてくれた。普段の生活スタイルやカーライフに合ったタイヤを提供する事、メーカーやカーディーラーをお客様とつなげるタイヤ販売店として安心・安全を届けられるようにこれからも頑張っていきたいと語ってくれた。
 タイヤに関するお問い合わせは...0176‐22‐5049迄
 余談となるが南部駒踊りなど地域の伝統芸能を子どもたちに伝える活動もしている。
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