はたらくひと必読!仕事人!!

1人から始まった機械と人が接する工場
積み重ねた信用と実績で挑戦し続ける仕事人
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~横澤賢司プロフィール~
 昭和29年7月27日生まれ(61歳)
三戸町出身。当時の農業研修所(現営農大学)に進学するが、中学3年生の時に自身に起こったバスの転落事故の後遺症で身体を痛め、通学を断念。学校を中退し実家の農業を手伝うことになる。造林関係の仕事をしながらも18歳を過ぎてからは冬季は家族で出稼ぎに出ていた時代があった。21歳の頃に国内を回っていた調査ボーリング(地盤検査)の会社に作業員として働き、そのままついていく形で会社に入社し、全国を回った。27歳で退社後に地元に帰郷し、名川町にある製鉄所のプレス部で溶接工の募集があり資格はなかったが入社し、研修を受け半自動溶接の資格を取った。仕事は順調で30歳で結婚したが...オイルショックで仕事がなくなり会社を辞め農家に戻った。退社する時に近所の農家のために趣味の範囲で溶接の機械を買った。近所の農機を直したりとしていたがお金にはならず、以前お付き合いのあった会社に直接電話して仕事を貰えないか聞いてみた。三戸町にある自宅で仕事を受けることとなり、すぐに忙しくなったため、手積みでの運送に時間がかかり過ぎる地元から倉石に土地を借りて小屋を建てた。当時の佐々木農機から仕事を貰えるようになり、仕事はどんどん忙しくなった。知り合いから諸事情から工場が1つ空いていると声を掛けられ、平成元年に横澤溶接工業所として現在の場所に移転し創業した。少しずつ工場を拡大し、平成17年に株式会社ヨコサワに社名を変更した。

仕事人・横澤賢司
 今回紹介したいのは十和田市藤島にある株式会社ヨコサワの代表取締役を務める横澤賢司さんだ。
 ㈱ヨコサワは板金加工の工場で、機械の組み立てに必要な部品を溶接やカット、ベンダー(曲げ)などして製作する仕事。現在は仕事は増えるが人員が足りない嬉しい悲鳴を上げていて、国外に人材を育てに視野を拡大中の勢いのある会社の始まりに驚く。
会社の誕生
 プロフィールにも書いてある通り、30歳の頃の本業は造林業などを営む農家だった。最初は自宅で近所の農機の溶接や修理などを趣味の範囲で個人でしていた所から始まった。しかし、お金にはならないと自分で以前の職場で付き合いのあった会社に直接電話を掛け、仕事を貰う事となる。個人で会社から仕事を貰うという発想にたどり着いた事には驚く。
 すぐに忙しくなり、自宅も手狭になり、運送の効率を上げるために隣町へ小屋を借りて仕事を受けることとなる。もっと忙しくなり、個人で受けれる仕事の量は超えてしまったため、お手伝いとして個人で従業員を雇うまでとなる。切らすことなく増やしてきた人とのお付き合いから声を掛けられ、複雑な諸事情もありながらも工場を借りられる事となり、平成元年(33歳の頃)有限会社 横沢溶接工業所が誕生した。家の庭で1人でやっていた趣味の溶接が約3年で工場をもつ会社として生まれ変わったのは決して偶然ではなく、仕事へ対する姿勢と人とのお付き合いを大切にしてきた結果があるからで、今の優しい顔からは想像もつかないような血の滲むような努力があったのだと感じた。
小さな事からコツコツと
 業務は機械を組み立てるための部品を作ること。一言に機械の部品といっても厚さや硬さ、材質がそれぞれに違い、相手先の要望に応えてカットや穴あけ、溶接や曲げなど細かな作業が多い。大手が嫌がるような少量の部品生産や急ぎの仕事なども出来るだけ断らずに受けてきた。どんな注文でも受けるために溶接用の機械なども少しずつ増やしていく。リーマンショックの時も積極的に営業に回り逆に業績を伸ばしていった。気が付くとここでしか生産できない製品もあり、仕事の付き合いはどんどん増えていって業績を伸ばし工場は徐々に拡大、従業員も少しずつ増えていき、現在は株式会社ヨコサワとして40名を超える従業員を養う会社となった。
課題と挑戦
 手作業と機械作業を併用して部品を作っていくが最終的に大切なのは「人」だという。工場が軌道に乗っても人が足りなければ完成も出来ずに納期にも間に合わない。工場勤務の機械作業のイメージや若者の地方離れなど原因は様々あるが人材不足が今の一番の課題だという。昔は出来ない人は辞めてもらってもいいと思っていた時期もあったが、今は不器用でも時間はかかるがじっくり育てれば後から結果はついてくる。一番は辞めない人材が必要だと語ってくれた。また、課題を解消するために現在はフィリピンに設計事務所を構える計画をし、人材を育成しながらも海外への進出も視野にいれている。
 「ものづくり」のルールは何でもやってみようと思う姿勢。製品チェックを怠らずに部品の精度を上げていく。少量でも急用でも必要とされている仕事は受け、納期は従業員の力を借りて遅れないことが信条だと語る。無理だ駄目だと思わずに前向きに目標に挑戦していく姿勢が会社を成長させてきた横澤さんの魅力なんだと感じた。

営業品目~溶接(S.S、ステンレス、アルミ)板金・パイプ加工、シャーリング加工、切断加工、レーザー加工(5尺超)、ベンダー加工(油圧)、アングル加工、パイプベンダー加工、製缶加工、精密板金加工、機械加工、カッティング・ブランクCO2レーザー加工、試作品加工、CADなど
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十和田湖和牛の魅力を伝える美人姉妹
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十和田湖和牛 焼肉牛楽館
副店長 髙橋 久美子さん
 今回スポットを当てたのは一本木沢にある十和田湖和牛 焼肉牛楽館で働く美人姉妹の妹、髙橋久美子さんだ。親しみやすく、明るい性格がにじみ出ているような笑顔でお客様を迎える。旧十和田湖町出身、昭和55年9月30日生まれ(35歳)天秤座。
 光星学院高等学校を卒業後、八戸短大の経営情報学科に進学。当時、バイトでろまんパークで働きサービス業を知る。大学卒業後は医療事務や税理士事務所などで働くがパソコンと向き合うよりも人と向き合うほうが好きだと気が付く。仕事で悩んでいる時に姉からの誘いで接客業に転職を決め、おいらせろまんパークの麦酒館で働くこととなった。
 麦酒館で働きながらも、もっと漆畑畜産の父・善次郎氏の育てた十和田湖和牛を食べさせたい気持ちが強くなり、平成15年8月8日に一本木沢に十和田湖和牛焼肉牛楽館をオープンした。父の経営で姉と兄、家族一緒にオープニングスタッフとして働く。オープン当時は慣れない事も多く、バタバタと忙しい中、色々と失敗やトラブルもあって大変だった。黙って10分間も立ってお客様に怒られ続けたこともあったという。
 23歳でめでたく結婚し、仕事と家庭を両立する大変さも経験。子育てに追われながらも今年三番街に2号店がオープンすることとなり、1号店である一本木沢店を副店長として任された。これからも十和田湖和牛の魅力を笑顔で伝えたいと語った。
地産地消の十和田湖和牛と日本短角種
地域の魅力を伝える焼肉屋さん
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プロフィール 昭和48年9月8日生まれ(42歳)
旧十和田湖町出身、光星学院高等学校を卒業後は地元に就職し、飲食業を学ぶ。その後は一般財団法人十和田湖ふるさと活性化公社に社員として入社し、おいらせ源流水の販売などを営業する。道の駅・奥入瀬ろまんパークの麦酒館のオープンに合わせてオープニングスタッフとして異動し、ホール主任としてサービス業を学び約10年働く。その仕事の中で特産品について考える事が多くなり、十和田湖和牛をPRしていた父に相談し30歳の時に一本木沢店「十和田湖和牛 牛楽館」をオープン。そして今回、2号店となる日本短角牛専門店牛楽館を三番街にオープンした。...ちなみに乙女座のB型である。

 今回は十和田市の飲食街、三番街に新規オープンした日本短角牛専門店「牛楽館」の店長・竹内志穂子さんを訪ねた。実家は旧十和田湖町の漆畑畜産で和牛を育て、ほぼ中央に出荷していた。高校を卒業後は地元に就職、その後はろまんパークにある麦酒館で約10年働き、サービス業を学びながら地元食材を提供していた。その時に十和田湖和牛や地元食材が素晴らしいと実感し、もっともっとPRしていければと考える事が多くなった。
 父親である漆畑畜産・漆畑善次郎氏に相談し一本木沢にある空き店舗を改装して十和田湖牛直送の「十和田湖和牛 牛楽館」をオープンする運びとなった。麦酒館ではホールの経験しかなかったため厨房とホール、お店の経営を担当する役割が増え、オープン当初は当たり前に大変だったが自分には苦労が足りない!もっと勉強したい!と言い聞かせながら働いた。気が付くと「何かをしたい」...から「何かをする」に考え方は変わっていた。
 北里大学と十和田八甲田日本短角牛推進協議会の協力もあり、短角牛に触れて、いいところを再発見できたことをもっと発信したい。お店にくるお客様から「三番街に出さないの?」とよく言われるようになって今回、三番街にあった旧黒丸の店舗に2店舗目となる「日本短角牛専門店 牛楽館」をオープンする事となった。
 放牧や牧草などを食べて低コスト生産法で育てた健康な牛を提供している。是非、お店に一度は来てみて欲しいと語った。
この街の衣料品屋さん
明るく暮らしのふくを売る
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プロフィール 昭和50年1月28日生まれ(41歳)
三本木高校を卒業後、国士舘大学政経学部政治学科に進学。卒業後は千葉県に本社がある大手アパレル業の㈱三喜(サンキ)に入社した。約4年半、アパレル関係の仕事を学び、28歳の時に帰郷した。
 帰郷後に家業を継いでからは仕事の傍ら、小学校から続けている社会人サッカーを始める。また、北園小学校のサッカースポ少のコーチも務め、現在指導歴は14年目となる。病で他界した父の会社を継いで36歳で代表取締役として就任して現在に至る。

 今回は創業90周年目となる㈱田清商店から平成8年に独立し、開業した田清第一店舗の代表取締役・田中大一さんを訪ねた。
 癒し系の優しい雰囲気の笑顔で出迎えてくれた田中さんは姉と妹がいる三人兄弟の長男で、帰郷してから家業である田清第一店舗に入社した。そして家族、従業員と共に会社を運営してから8年ほどたった2011年、父親が病で他界したため36歳の若さで代表取締役となった。業務内容はそれほど変わらなかったが会社の社員から会社とスタッフを守る立場に変わったことが一番の変化だったという。
 田中さんは自分が子どもの頃から働いている社員やパートさんと一緒に働けることが嬉しい。子供も生まれ、父親が残してくれた会社をこれからも守っていきたいと語った。
 昔はベビーブームもあり、衣料品(特に子供服)は多く必要とされていた。現在では少子化が進み、必然的に影響は出るが同時に高齢化も進むため地域密着型の店として婦人服や実用衣料品(肌着や靴下)の販売に力をいれて時代の流れに合わせて営業していきたいと語る。
 そして田中さんのもう一つの顔は現在14年目となる北小サッカースポ少のコーチ。勝ち負けではなく、子供たちがサッカーを通して成長してくれればいいと想いを語る。そして生涯現役選手としてもサッカーを続け、そこで得たつながりを大切にし、商工会議所や商協、商店街とのつながりも自分にとってのプラスに変えていきたい。
 これからも田清第一店舗が皆様に愛され、地域にとってなくてはならない店にする事を目標に地域貢献をしていきたいと語った。
音楽の色を増やした音色で奏でるピアノ奏者
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ヤマハ音楽教室㈱東京堂八戸店
システム講師 平 菜摘さん
 今回スポットを当てたのは現在colorsのピアノ奏者として多方面で活躍中の平菜摘さんだ。平成元年2月1日に生まれ、母親がピアノの先生で幼少の頃から身近に音楽があったためか、物心のついた頃(4歳)からピアノを始めた。おっとりとしたイメージ通りに学生時代は習字、水泳、バレエや新体操などたくさんの習い事をしていたというが、ダンスやサッカーなど身体を動かす事も好きだという意外な一面ももつ。三本木高校を卒業後、昭和音楽大学短期大学部ピアノコースに進学。卒業後はヤマハ音楽振興会に就職し、研修期間を経て神奈川県で念願のピアノの先生となった。東日本大震災をきっかけに帰郷を考え、転勤形式をとり青森県に帰郷した。現在はヤマハの講師として働きながら1歳コースから大人まで、1人で約70~80人の生徒をもち、ピアノの楽しさを教えながらも時には厳しく、優秀な生徒をコンクールに送り出したりなどしている。
 十和田市は残念ながら他の地域と比べると演奏会などは少ない。もっと近くで気軽に聞ける音楽を浸透させていきたいと、ピアノだけの演奏会ではなく若手の音楽仲間、豊川さんのヴァイオリン、亀山さんのソプラノ(歌)などと様々な音色を奏でられるカラーズを結成した。中央病院や美術館、カワヨやハピたのなどで演奏会を開き、音楽に興味のある人を増やしていきたいと語った。また、ヤマハでは無料体験レッスンもあり、生徒は随時募集している。
お問い合わせは...0176‐22‐5155迄
苦労を笑顔に変えた看板屋の看板娘
株式会社サンコウゲイプラス
専務取締役 鎌田 久美子さん
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 今回スポットを当てたのは株式会社サンコウゲイプラスの専務取締役鎌田久美子さんだ。昭和52年2月10日生まれ。もともとの家業が看板製作などをしていたサン工芸で六戸高校を卒業後、すぐに家業を継ぎ入社する。本音を言うと専門学校へ行って違う仕事を経験したり、県外にも就職してみたかったが、親の愛が強すぎてそのまま家業を継がされる事となった(苦笑)。当時は手作業で看板に塗装していた仕事が多かったが、看板以外にもチラシや名刺などデザインを必要とする仕事が増え、パソコン作業を独学で覚えるなど新しい事に取り組む事が多くなり、嫌々ながらもやっていた仕事がいつの頃からか面白くなってきたという。お客様とのやりとりで提案したことを喜ばれたり、いち早く取り入れたホームページで県外からのお客様が増えたりと、つながりが増えていく事に喜びを感じ、仕事量が増えても苦に思わず、次に新しく挑戦したい事を考える時が楽しいという。この考え方や取り組み方は21歳の頃から入会した十和田青年会議所で学べたことが多くあり、自分にとってはものすごくプラスになっていると笑顔で教えてくれた。看板も製作から取り付け、チラシから名刺まで一括して出来る事が強みで内装に近い事までやることもあるという。いつのまにか無理やり継がされた看板娘は会社の看板となって夫婦二人三脚プラス1(長男)でこれからも新たな事に挑戦しながら頑張っていくのだろうと感じた。
庭園の空間づくりから
多世代交流の空間づくりへ
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(中岫崇さんのプロフィール)昭和45年9月22日
 十和田市出身。三本木農業高校土木科を卒業後、当時活躍していたラグビーのスポーツ推薦もあり、東京農業大学農学部造園学科に進学した。卒業後は大手ゼネコンのグループ会社・かたばみ興業㈱に就職し緑化造園事業部に就いた。造園の仕事は家にある庭などの範囲ではなく、ゴルフ場やリゾート地など大規模な造園事業がほとんどだった。6年間造園業を学び、28歳の時に帰郷した。
 帰郷後は㈲芦名造園に就職。ゆくゆくを考え32歳で独立する事を決意し、造園会社「エバーグリーン」を起ち上げた。そして、今年3月10日に今まで縁をつないできた仲間たちの支援もあり、十和田市東十一番町に異業種である複合型介護施設「よつ葉」をオープンした。

仕事人・中岫崇
 今回訪ねたのは今年3月10日に異業種である複合型介護施設「よつ葉」をオープンし、昔から造園業を営む株式会社エバーグリーンの代表取締役・中岫崇さんだ。
 およそ介護のイメージにはない色黒でがっしりとした身体、親しみ感溢れる素敵な笑顔で出迎えてくれた。今まで造園を学び、造園業に携わってきた中岫さんが、異業種である介護福祉だけではなく、スポーツジムやカフェや学生寮などが入った複合型施設をオープンした事には驚くばかりでその経緯の所以を聞いてみた。
造園から介護福祉へ
 造園業から介護施設へと事業を拡大したきっかけは造園の仕事で伺うお客様との会話からだった。高齢化が進み、将来の話しをしても造園業だけでは安定がない事を自身で感じていた中岫さんは昔から縁のあるラグビーや仕事仲間に相談することも多くなり、次の世代に残せる安定した事業をやっていきたいと決意したという。
 造園の仕事では高齢者とつながりを持つ事が多く、細かな面倒も見る事もある。高校ラグビーの指導にも携わっており、ラグビーから学ぶ大切な精神を子どもたちにも伝えていきたいと日ごろから想っていた。高齢者と若輩者の将来を考え、今を生きる働く人の生活のためにも何か出来ないか...と悩んだ先に見付けたものが複合型介護施設「よつ葉」だった。オープンしてみてまったくの異業種ではあるが意外にも違和感を感じないのは、造園は庭に「安らげる景観と空間を造る仕事」で、介護施設は「安らげる空間と時間を提供する仕事」。どちらも良い空間という環境をつくるサービス業だからかもしれないと語ってくれた。
複合型介護施設よつ葉
 複合型介護施設「よつ葉」は①広い空間と優しい光が入り込む介護施設「ショートステイよつ葉・デイリーサービスセンターよつ葉・委託介護支援事業所よつば」と、②身体を鍛えて健康を推進、大きな壁鏡のある広いフローリングスペースとジム機材のある「メディカルフィットネスよつば」と、③食べ放題のランチバイキングでお客様のお腹を満たす「cafeフォーリーフ」と、④市外からの高校生などを受け入れる学生寮「よつ葉寮」で形成され、多世代の交流が図れる工夫が随所に見られた。
「ONE FOR ALL ALL FOR ONE」
 企業理念はラグビーでも有名な言葉「ONE FOR ALL ALL FOR ONE~ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために~」だと教えてくれた。地域で働き暮らす方々のために生活環境づくりを支援していきたい。その支援が自分たちの支えになってお互いの利潤を生んでいく。良い環境をつくり、良い循環を生み、良い結果となるようにこれからやるべき課題は多い。一人一人が地域のために働くという意識を持ち、社会へ貢献する事を目指し、従業員一同で実践していくための人材育成・教育がこれからの課題だと教えてくれた。
 取材の合間にすれ違う従業員が必ず立ち止まって笑顔で挨拶してくれた事がきっと教育の表れなんだろうと感心した。複合型介護施設よつ葉へのご利用のお問い合わせは...0176‐58‐5757迄。また、さまざまなフィットネス教室が充実しているメディカルフィットネスよつ葉へのお問い合わせは...0176‐58‐5758迄

見つけた幸運のクローバー
複合型介護施設 よつ葉
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ひとつの双葉、互いに支え合うフォトショップふたばの頼れるお姉さん
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 今回スポットを当てたのは有限会社ふたばで働く西塚准子さんだ。昭和48年5月23日(42歳)に写真屋の長女として生まれ育った。七戸町で中学時代を過ごし、八戸工業第二高等学校へ進学。その後東京の工芸大学写真学科に進学し写真の基礎を学び、帰郷して家業を継いだ。中学卒業時に実家を十和田市に引っ越したが、学生時代は十和田市で過ごさなかったために残念ながら知り合いは少なく、お酒も飲めなかったために家と職場の往復となっていたが趣味で音楽関係のイベントのスタッフ側で手伝いをしている時に現在の旦那と出会い、33歳の頃に結婚した。周りには個性が強く面白い人がたくさんいるので自然と笑っていることの方が多いようだ。
 准の字のごとく一歩下がって周りを支える方が得意でプライベートでも仕事でも同じようで、弟の小原達郎くんとはお互いに得意な分野が違って互いに足りない部分をおぎなっているという。西塚さんは色彩や光度などの細かい調整で商品を仕上げる品質管理の役割をこなす。小物などを作ってかわいく仕上げるのも得意なようだ。
 写真は印刷と違って色をのせるのではなく薬品で発光させるのが大きな違いで震災の時に思い出を残せた人がたくさんいた事は自分の仕事の誇りにもなる。写真屋に生まれて42年、仕事を始めて22年たった今でもお客様のために新鮮な気持ちできれいに写真を仕上げたいと笑顔で語った。

内閣総理大臣賞を受賞!!
ふるさとイベント大賞の「桜流鏑馬」
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散らない桜は未来を射貫く
馬と共に駆け抜ける女流騎手
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(プロフィール)昭和46年2月3日生まれ(45歳)
十和田市出身。七戸高校を卒業後、東京の建築関係の専門学校に進学。卒業後はフリーターとして働き、22歳の結婚を機に地元に帰郷した。実家の手伝いをしながら27歳の頃に正社員として入社し、運命の馬と出会う。
 女人禁制・男だらけの伝統技の流鏑馬の美しさと魅力に感動。盛岡八幡宮流鏑馬の師範に弟子入りし、流鏑馬を競技化したスポーツ流鏑馬に女性として初めて大会に参加し、初挑戦・初優勝の快挙を成し遂げた。
 32歳で乗馬のインストラクターを取得し、馬のまち、十和田市を盛り上げようと駒フェスタや桜流鏑馬などの大会を企画し、体験できる観光型事業として海外へも発信している。このたび第20回ふるさとイベント大賞の「桜流鏑馬」が内閣総理大臣賞を受賞し、年々増加している女流騎手の第一人者として現在も活躍中だ。

仕事人・上村鮎子
 今回は第20回ふるさとイベント大賞・内閣総理大臣賞を受賞した「桜流鏑馬」その第一人者として活躍している農業法人㈲十和田乗馬倶楽部の代表取締役兼ウエスタン乗馬インストラクターの上村鮎子さんを訪ねた。
 177㎝の身長からか堂々とした雰囲気で、何でも思ったことを正直に話してくれるような男気ある女性という印象の上村さんは流鏑馬の世界に飛び込んだきっかけとこれからの目標を話してくれた。
桜流鏑馬の誕生
 流鏑馬は800年から1000年の歴史ある神聖な伝統競技で女人禁制だった。最初は男性が守ってきた儀式的な馬術競技で女性がやるものではないと思った。しかし、現在は乗馬人口の女性の割合が増えてきたこと、スポーツ競技として楽しめるようになったこともあり、女性への普及を考える。どうせやるなら本物を覚えたいと盛岡八幡宮流鏑馬の師範に弟子入りし、初参加の大会で初出場・初優勝の快挙も成し遂げた。
 桜流鏑馬はただ馬に乗って矢を射るのではなく伝統ある流鏑馬の作法や姿勢を大切に考え、そこに女性ならではの華やかさを加える事で観る人にも楽しみを与えたいという気持ちと、当時愛情をかけて乗っていた馬が弱ってきて最後に花道を作ってあげたいとの想いもあり、全国で唯一の女性だけのスポーツ流鏑馬「桜流鏑馬」が誕生したという。
 春の桜舞う季節の女流騎手の祭典、桜流鏑馬だけではなく、秋の枯れ葉彩る駒フェスタは季節と景観を感じながら観るだけでも楽しめる。コースは200m、実際は射る区間110mを馬に乗て両手を離し、9秒以上10秒未満で駆け抜けながら3回射貫かなくてはならないため、かなり高度な技術も必要だと教えてくれた。
継続と連携は力なり
 もちろん最初から何でも上手くいったわけではなく苦労も多かった。自分は詰めが甘く周りの人に助けてもらい連携が上手くできた事もある。若い頃はすぐ結果を求めていたが、今は流鏑馬を通して我慢する事と物事を坦々と進める事を覚えた。また、女性が見栄えするような衣装や色使いなどにも気を配ったり、馬のまち十和田市のイベントとして恥じないような内容を作っていかなくてはと企画し、今年で第13回目となる。それの活動が去年の十和田市の地域資源として認定されたことや今年の内閣総理大臣賞につながったと思うと語った。
滞在体験型観光事業の実現へ
 現役は続けられる限りやっていきたいが、いつでも裏方に回れるように準備もしていきたいと語る上村さんが次に目指すものは外国人の体験型観光事業だという。十和田市の活性化のため外貨を稼ぐ意味でも、世界に通じる十和田市の新しい文化として根付くためにも情報を発信したり、魅力あるイベントとして女流騎手の拡大などをしていきたいと語る。結果として外国人を誘致し滞在した事によって宿泊・飲食などの利益や他の観光事業との連携も準備できればと目標を志しているようだ。十和田市活性化のためにも、これからも桜流鏑馬と上村さんの活躍を期待したいと感じた。
思いやり溢れる街と人
そんな十和田市にと願う癒し人
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 昭和52年3月12日生まれ(38歳)
十和田西高等学校を卒業後、親戚に福祉関係の仕事をしている人が多かったためか自然と東北福祉大学・社会福祉学部社会教育学科へ進学した。卒業後は東北町の社会福祉法人で2年勤務しながら仕事を学んだ。銀行マンだった父がもともと社会福祉施設を開業しようと考えていて平成13年に㈲ケアサービス十和田イーストグループホームたかしずの森を設立した。管理者として施設を管理し、現在は創業15年となる。子どもも生まれ仕事も忙しくも周りからの後押しもあり、今年度は十和田青年会議所の60代目の理事長も務める事となった。
 今回は「㈲ケアサービス十和田イーストグループホームたかしずの森」の管理者を勤め、第60代目の十和田青年会議所の理事長を務める事となった水尻和幸さんを訪ねた。優しそうだと誰でも感じそうな顔と体型で出迎えてくれた。
 高校時代に最初はJRの運転手になりたかったが親戚に福祉関係の仕事が多かったためか、いつの間にか自然と東北福祉大学に進学した。平成13年に会社が設立し管理者として勤務。現在は介護報酬がどんどん減らされて入所を希望する人は増えているが受け入れる側は厳しくなってきている。それでも認知症対応共同住宅として管理し、病院への送迎や食事の管理なども考えなくてはならないと教えてくれた。
 平和を愛する温厚そうな性格だが意外にも趣味はバイク。レースに出場したりモトクロスの大会を運営管理するなど人には見せない一面を持っているのかもしれない。30歳で結婚し、青年会議所にも入会。仕事と家庭、趣味とJC運動など忙しく毎日を過ごしている水尻さんが今年度の理事長に立候補するきっかけとなったのは...誕生日の前日に起こった東日本大震災だった。施設には食料は多めに貯蓄していて発電機もあったため何とか繋ぐことができた。誰かが助けを求めている時に助ける側の仕事についた意味を深く感じ、同時に自分も周りに支えられている事に気付く。
 今年度の十和田青年会議所のスローガンを「感謝と絆~思いやりで彩る魅力ある人と街へ~」にしたのは、自分の事だけではなく周りの人の事を考えられる人と街になって欲しいから、繋がる事で絆は強くなり感謝の気持ちは自然と生まれると思うと優しく語ってくれた。
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