はたらくひと必読!仕事人!!

役職は変わっても自分は変わらない
これからを見据える35歳の若社長
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プロフィール 昭和55年9月18日生まれ(35歳)
十和田西高校を卒業後、東京の専門学校(東京法律杉並専門学校)に進学。宅地建物取引主任者の資格を取るために入学したが、この時は残念ながら取得できずに帰郷した。家業を学びながら働くも資格がないとなかなか認められない業界。焦らずに勉強し、24歳の時に宅地建物取引士(旧宅地建物取引主任者)を取得した。また、賃貸不動産経営管理士も取得し、会社の運営を学ぶ。平成27年10月2日に家業を継ぎ、35歳という若さで代表取締役社長として就任した。

 今回は今年10月に35歳の若さで有限会社サンポウの代表取締役社長として就任した古賀崇さんを訪ねた。
 趣味は年間を通して取り組んでいるサーフィン、秋祭りも重要な役割を任されている。本人曰く、性格は面倒くさがり屋であまり人の上に立つのは好きではないようだが、波の上と人の役には立つのは好きなようだ。頼まれると手を抜かずやってしまうのは長所でもあり短所でもあるという。
 仕事内容はお客様と建設業などの間に入って重要な説明義務や管理代行などをする事で、宅地建物取引士(略称・宅建士)と呼ばれる資格がないと信用を得る事は出来ないという。今では笑い話となるが東京の専門学校へ行くも残念ながら資格を取る事は出来ずに親には謝ったと言う。20歳で帰郷してからの4年は下積みを重ね勉強しながら会社で働いた。そして24歳の時、念願の国家資格・宅建士を取得した。
 古賀さんは10年前も社長となった現在も基本的な考え方は変わらない。しかし変わっていく現状には対応しながら会社の運営を考えていきたいと語った。
 地域の未来の事を考えると一人では出来ない事の方が多い。これからは経済的にも厳しくなっていく事がわかっているからこれまで、これからの人との出会いを大切にして、いろんな分野で協力しながら会社も十和田市も良くしていきたいと想いを語った。
 気さくでフレンドリーな一面の他にある熱い想いや代表としての責任の重圧。これからの時間の使い方を考えながら仕事もプライベートもきちんとやれる人になりたいと語る古賀さんのこれからの活躍に期待したい。

雨ニモマケズ風ニモマケズ
ヘルメットをかぶった現場で働く女子監督
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株式会社 みどり
工事部土木二課 植村 房恵さん

 今回スポットを当てたのは男性のイメージが強い土木建設業界で女性で現場監督となった(株)みどりの植村房恵さんだ。昭和61年7月26日生まれで八戸出身。小学生の頃から絵を書くのが好きだったが170cmの身長を活かし中学生の頃から今でも続けている柔道に青春を捧げる。それが美術の世界ではなく土木建設の業界へ進むきっかけとなったのかもしれない。
 八戸工業高校土木科を卒業し、八戸工業大学環境建設工学科に進学。測量や土木技能を学び卒業後は十和田市の建設会社に勤めるが諸事情により退社。休職中にフォークリフトや大型の免許を取得し、26歳の時にダンプの運転手として(株)みどりに入社する。しかし現場監督になりたかった想いを捨てきれずに仕事をしながら勉強し、難しいと言われる「一級土木施工管理技士」を若くして取得した。現在は現場監督として活躍し、道路や側溝などの外構工事を中心に施工し、必要な道具の準備や人員の管理、工程や現場写真を管理している。何もない景観から完成をイメージするのは難しいが自分が現場監督を任されたからには安全面はもちろん、作業途中も完成もきれいに仕上げたいと想いをもって仕事に取り組んでいると教えてくれた。そこには男性では気付かない女性の現場監督ならではの気配りや細かな目配りがあるんだと感じた。
 余談となるが植村さんは社内でラーメン部やカツカレー部に所属、趣味はスノボと柔道という体育会系女子だ。取材時間の1/3がラーメンの話しになる(笑)など性格もお笑いの道へ進めると思えるくらい面白い一面を見せる。これからも現場の第一線で働く女性として頑張って欲しいと感じた。

変わらない想いと新たな挑戦!
老舗の5代目に就任した仕事人
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プロフィール 昭和50年6月8日生まれ(40歳)
七戸町出身。野辺地工業高校(現野辺地西校)を卒業後、日本菓子専門学校に進学。卒業後はお菓子作りを学ぼうと福島の「太郎庵」で3年、仙台の「モリヤ」で2年、修行に励む。25歳の時に帰郷し、家業である(株)御菓子のみやきんに入社し、和菓子製造部で働く。5年ほど前に製造部から専務となり会社の運営などを学び、今年8月21日に代表取締役として就任した。

 今年8月に(株)御菓子のみやきんの5代目・代表取締役として就任した宮沢一史さんを訪ねた。七戸町出身で日本菓子専門学校を卒業後、味覚が近い東北の菓子舗で修行し、御菓子作りや運営などを学び25歳で帰郷。(株)御菓子のみやきんに入社し、和菓子製造部でお菓子作りを専門に励む。当時は季節商品や限定商品などがあまりなかったため開発にも携わり、通年販売商品のリニューアルや季節商品などを開発し売り上げを伸ばす。規模の拡大に伴い大量生産が必要となり、人の手だけではどうしても不揃いな商品も出来てしまうため出荷数と生産能力を上げるために機材設備を購入。しかし、機械では作れない手づくりのよさもあるため商品により使い分けていると教えてくれた。
 宮沢さんが帰郷してから15年で売り上げは当時の約3倍、店舗は4店舗から7店舗(3店舗が移転などで6店舗増)へ、今年12月においらせ町に8店舗目がオープンする。工場生産が追い付かなくなる事もたびたびあり、現在は新たに広い工場を探しているという嬉しい悩みを持つ。
 また、工場が拡大しても売り上げが伸びなければ意味がないので県外だけではなく国外にも実演販売などでシェアを広げようと挑戦。日本の和菓子の味覚(甘さ)が現地の人の口に合うかどうかの声を聞き、大きさや甘さを調整するという。40歳になってからNOVAに通うなど来年創業155周年となる御菓子のみやきんの5代目として会社を背負う宮沢さんは初代のお想いを忘れずにお客様に喜んでもらえる商品を変わらずに作り、新しい事にも挑戦していきたいと語った。

ご当地スイーツ選手権2連覇!!
  生涯修行中のお菓子の職人
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プロフィール 昭和41年11月27日生まれ(48歳)
三本木高校を卒業後、東京製菓学校洋菓子科に進学。卒業後は埼玉で2年、東京で3年間働きながらフランス語を勉強。25歳の時にフランスに修行のために留学し、パリ・南フランス・シャンパーニ地方などを周りながら職人としての腕を磨く。阪神大震災がきっかけで日本に戻る事を決意。帰郷後は地域のため、会社のために今もなお修行を積み重ねる。

 全国ご当地スイーツ選手権を二連覇中の(株)大竹菓子舗の職人であり、専務取締役の大竹正貴さんを訪ねた。御菓子屋の家に生まれた大竹さんは迷うことなく製菓の道に進み、都会や海外で腕を磨き帰郷する。驚くのは当時十和田市ではまだ普及が遅れているネット販売に着目し、いち早く始めた事。今よりもシステムが難しく受注も発送も手間がかかるだけではなく、経理や営業やお菓子作りまで何でもやらなくてはならなかったため寝る間も惜しんで仕事に明け暮れていた。今思うとフランスでの修行時代にひたすらお菓子作りの技術を磨き、味を追求していた頃が一番楽しかったかもしれないと思い出す。
 昔はいいものを作れば売れる時代だったが今では工夫しても簡単には結果が出ない難しい時代になってきた。青森県産にこだわった食材を使用したり、県内外のイベントにもテナントで出展し販売するなど時代に対応した様々な手法で会社だけではなく青森県を盛り上げようと頑張っている。
 その取り組みの一つとして十和田の米粉を使ったスイーツがある。小麦アレルギーのお客様が増えてきたため生まれた商品だが、米粉の特徴としてデンプンの老化が早く扱いは難しい。諦めずに素材を研究し、完成までは約10年近くかかったという。その米粉を使ったスイーツで全国二連覇するのだからさすがとしか言いようがない。
 また、輸入の値段が高くなってきた事もあるが青森県産の食材で姿・形の悪く出荷出来ないものを全て引き取ってジャムやペーストとして活用するなど青果農家にとっても必要な存在となっている。米粉から果物まで青森県の魅力を全国に伝える菓子舗としてこれからも活躍に注目していきたい。

 人のために人を想う行動力
会社を守る情報管理の仕分け人
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プロフィール 昭和35年12月19日生まれ(54歳)
三本木高校を卒業後、神奈川県にある東海大学に進学。税理士を目指し大原簿記学校に入学し、税理士の受験に合格する。帰郷してからは2年以上の実務経験を積み平成6年に税理士登録し、家業である税理士事務所に入社する。創業は昭和48年、父親が開業するも平成11年に病で亡くなってから所長として就任した。

 今回は会社や個人の会計、税金の納付の指導や代行などを管理する岩間貴税理士事務所を訪ねた。お堅い仕事の代表のような職種に怖いイメージがあったが岩間さんは普通に笑顔で迎えてくれた。
 税理士の仕事は会計業務から税金の計算まで個人や会社の中身を知る重大な責任のある仕事。電子申告の普及や来年からはマイナンバー制度の運用が開始されることから情報は決して外に漏れることのないようにパソコンのセキュリティー問題には気を付けて強化しているという。例えると身体のどこが悪いのかを診断し、見付けて病気を治す医者のような仕事のように思えた。
 岩間さんは父親が開業した税理士という仕事を中学生の頃から何となく見て育った。その頃は税理士を目指していたのではないが、大学生の時に父の仕事に興味を持ち、将来は助けてあげたいという気持ちが芽生え、税理士になる事を決めたという。
 平成5年に十和田青年会議所(JC)に入会する。各部の委員長などにはならなかったが専務理事などの経験と仕事柄か日本青年会議所に出向した。そこでは会計監査グループの代表として活動し、様々な事を学んだ。また、二人の子供にも恵まれたため学校側からはPTAの役員も頼まれ、各学校のPTAを取りまとめる十和田市連合PTAの会長も務める。ほとんどの時間を余裕もなく仕事・JC・PTAに費やしてきた。現在はPTA活動で青少年の様々な問題に考えさせられる事も多いという。仕事も同じく、まずは人の気持ちを考えられるように自分自身の気持ちに余裕を持っていきたいと語った。

 会社と同じ時間を生きる仕事人
生き物を育てて見送る感謝の食育
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プロフィール 昭和35年10月19日生まれ(54歳)
三本木高校卒業後、函館大学に進学。意外にも学生時代はハンドボールで全国大会へ出場するなどスポーツへ熱心に打ち込んでいた一面を持つ。大学卒業後は建材関係の卸問屋に勤めていたが、24歳の時に婿養子として結婚し、後継者として(有)布名林養鶏商事に入社する。平成13年に(株)フナバヤシと社名変更すると同時に社長として就任した。

 今回は養鶏や養豚で卵や鳥の丸焼き、豚肉などを販売している株式会社フナバヤシの代表取締役社長の布施久さんを訪ねた。25歳の時に婿養子として結婚し、会社を拡大し、子宝にも恵まれる。物静かな口調だが坦々と聞きたいことを笑顔で答えてくれる心に余裕のある人だと感じた。
 偶然にも会社の創業と同じ年に生まれた布施さん。結婚した入社当時は(有)布名林養鶏商事だった。今では珍しいが、当時は市内の民家に鶏を預けてエサと卵を交換するという委託生産をしていたという。また、25歳から入会していた十和田青年会議所(JC)の40代理事長を務め、そこで学んだ事、つないだ人脈を活かし、平成13年に株式会社フナバヤシと社名を変更し、代表取締役社長として就任した。
 昭和44年、安定生産を目的にグループ会社(有)ふなばやし農産を設立。安心・安全はもとより、高付加価値を求め、管理に高度な技術を要す「無薬豚」に挑戦。今では年間3万頭を出荷、鶏卵は2千t以上の生産を実現し、地域を代表とする企業となった。
 他にも農場ではシャワーイン・シャワーアウト(菌を中にも外にも持ち込まない)を徹底している事や、食べる生き物に感謝の気持ちを込めて鎮魂祭を毎年やっている事、卵の黄身の色は食べるエサの色素で変わる事(緑色も作れる)、卵は産まれてから4日目が一番美味しいなど色々と教えてくれた。
 また、記念日やイベントには電話予約で熱々の鶏の丸焼きを提供するなど大手では出来ないようなサービスも考えてお客様のニーズに対応していきたいと語ってくれた。電話予約は0176‐23‐4225迄

身体を動かす事が大好きな
オールシーズンの趣味を持つスーパーウーマン
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 今回スポットを当てたのは十和田市を代表する建設会社の一つ、株式会社福萬組の御令嬢・井上司子さんだ。井上さんは昭和60年5月28日に生まれ、学生時代はバスケットボールに熱意を注ぐ。三本木高等学校を卒業後、マサチューセッツ州のセーラム州立大学に留学した。そこではスポーツイベントなどの企画や経理などを学ぶスポーツマネージメントを専攻。卒業後はアメリカのスポーツジムで働きながらも色々と悩む事もあり、日本に戻るかアメリカに残るかを考える時期もあった。そんな時に御祖父さん(福萬組の創業者)が亡くなり2008年に帰国することになる。その当時、営業部長だった小笠原さん(現常務)に声を掛けられ2009年4月に株式会社福萬組へ入社する運びとなった。
 始めは総務課に配属され会社の流れを学びながら覚えた。その後、広報室長となり会社のホームページや広告などを担当する。まずは会社のイメージアップのために事務から作業員、関連会社の社員や役職のある偉い人から社長までを「AKB48」の音楽に合わせて踊らせた「恋するフォーチュンクッキー福萬ver.」を作成し、市内でも話題となった。他にも運動会を企画するなど会社と会社、事務と現場、男性と女性、若手と年輩の方々とのコミュニケーションの場を作り、交流を深める事で仕事の環境(雰囲気)を変える事を目指した。今でも建設・土木関係の仕事は男社会で技術者も男が多いのはしょうがない事、昔の3K(きつい・きたない・きけん)のイメージもあり若い世代も少なくなっている。働きたい女性にとって将来の仕事の選択肢に建設業もあって欲しいと考え、これからも「笑顔」を会社全体のモットーとし、楽しい職場作りを目指す。
※追記...平成28年、常務取締役から副社長に昇進。
笑顔のある女性も働ける会社をPRするホームページも開設...www.fukumangumi.com
十和田市に住む人の声を聞く癒し系女子
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マイシティハウス(有)橋場不動産
(有)アットホームサービス
専務取締役 宅地建物取引士
 今回スポットを当てたのは橋場不動産の愛娘、橋場悠子さんだ。昭和60年12月25日のクリスマスに生まれたという強運!?を持つ。三本木高等学校を卒業後、明治大学に進学。卒業してからは東京の証券会社に入社した。一分一秒を争う仕事で当時はとにかく毎日が忙しく、必死に社会の流れを学んだ。
 25歳で帰郷することとなり家業の(有)橋場不動産に入社する。いつの間にか「せっかち」になってしまった自分の性格を直すために普段から「ゆっくり・ゆったり・たんたんと」を意識して行動しているという。
 土地や建物など動かない物から利益を産むのが不動産業、しかし入居してからは動かない銅像などではなく感情のある「ひと」との長い付き合いとなる。大家さん代行としてお客様の様々なトラブルや要望に対応するために(有)アットホームサービスで管理業をメインに働いている。そのため24時間体制でクレームや困っている人からの電話も受け付けているために残業もあり、働く女性には厳しい職場だと感じた。
 心にゆとりを持つことがお客様の話しをよく聞く姿勢を持つことだと考え、もっとワークライフバランスを大切にして欲しいと思い、ノルマ的な目標は掲げず、当たり前の事を坦々とやり続け、残業を少なくする。近江商人の言葉で「三方良し」とある。売り手よし、買い手よし、世間よしとお互いにプラスになるように心掛け、さらに会社よしとしていきたいと語った。よい職場の雰囲気がお客様にも伝わるように今日もゆったり坦々と働く。


ゆるキャラを超えた十和田市の生キャラ!?
 B‐1グランプリ十和田開催まであと[23日]
  まちおこしの想いを実現する偉業の仕事人!!
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十和田バラ焼きゼミナール
舌校長 畑中 宏之
プロフィール 昭和38年8月21日生まれ(52歳)
三本木高校を卒業後、沖縄大学に進学。途中自主退学をし放浪の旅に出る。28歳で帰郷し、家業である美容室山野を継ぐ。地域の人を知ろうと十和田青年会議所(JC)と商工会議所青年部(YEG)に入会。そこで社会奉仕のためのボランティア活動やまちおこし運動について学んだ。まちおこしツールの一つの手段として平成22年からB‐1グランプリ(厚木大会)に初出展する。さまざまな十和田市の魅力を全国へ発信しながら、去年の郡山大会で見事にゴールドグランプリを受賞した。そして今年の十和田市開催に最も貢献した立役者だと誰もが認めるであろう人だ。

 今回は毎日が24時間では足りないくらい多忙な日々を送っているであろう美容室山野のマネージャーでもあり、十和田バラ焼きゼミナールの舌校長・畑中宏之氏を訪ねた。ヒゲ面に薔薇をあしらった黒のタキシードで十和田市のゆるキャラではなく「生キャラ」として全国に魅力を発信し続けている。畑中氏は高校時代に生徒会長に立候補しても危険だと判断され先生に止められる(笑)その後、大学へ進学しても中退し、世界を見るため放浪の旅に出る(驚)など、人とは違った感性を感じさせる破天荒な一面を昔から持っていた。
 28歳の時に帰郷し家業を継ぐ。地域と人を知るために十和田青年会議所と十和田商工会青年部の2つに入会。そこで学んだものは「まちづくり」と「ひとづくり」の大切さ、社会奉仕活動とは何のためなのか、地域活性化のために自分たちが出来る事とは、仲間と未来を熱く語り、十和田市のために何かを実行したいとの想いは強くなる。それが今年開催されるB‐1グランプリin十和田につながったことは言うまでもない。
 平成22年にたった15名から始まったまちおこしのための小さな取り組みは現在では全国、世界からも注目を受ける大きな活動となって十和田市の魅力を発信し続けている。今では見慣れ聞きなれた畑中氏のキャラも、当時は奇抜な格好や言葉に地元市民からはバカにされることがあった。それでも「十和田市のため」にと揺るぎない信念の主張は変わる事なく、高校生や小学生を巻き込んでの取り組みや被災地の復興支援の活動などが全国メディアにも取り上げられる。5年という苦悩の年月を駆けてゴールドグランプリを受賞した喜びと感動は一生忘れる事が出来ないと語る。
 畑中氏はバラ焼きを売る事が目的でもなく十和田市で開催することも目的ではない、それをきっかけに大人から子どもまで「まちの人の意識を変える」きっかけになればいいと思うと語ってくれた。B‐1開催地の大きな経済効果は過去に実証されているが大切なのはその後にどうやってまちを発展させていくかで、次の世代には同じことではなく馬でも苔でもいいから何か十和田市の魅力を発信するための挑戦をして欲しいと語る。バラ焼きを通して知る事の出来た十和田市の歴史のある自然や建物、自慢できる地産品、地域愛溢れる子どもたち、まちの魅力を発信していくことで魅力のあるまちになってきたと感じた。
 9月10日時点でB‐1グランプリin十和田開催まであと23日となる。畑中氏はワクワクとドキドキと不安と緊張が止まらない。いまは全国から来てくれる人たちに「十和田スタイルのおもてなし」を全力でやりたいと語る。人口約6万人の小さなまちに何倍もの来場者が訪れる十和田市過去最大のまちおこしの祭典に期待と興奮を覚える。また、十和田開催に向けての企画の一つとして、まちおこしのために競争ではなく共闘している同志らが九州大分から「363日生花(薔薇)リレー」を出発したことを教えてくれた。十和田開催を成功させたい全国のみんなの熱い想いを繋げて10月2日に青森県十和田市に到着する予定だ。
 郡山大会へ参加した人なら分かるが、会場までの道のりにあるお店の人たちが店頭に出て何万人という来場者一人一人に「ようこそ郡山へ!」と笑顔で声を掛けてくれていた。畑中氏は十和田市開催ではおもてなす側として恥ずかしがらずに「ボンジュール!ようこそ十和田へ!」と声を掛けてもらえれば嬉しいと語った。まちのために子どもたちのために、この魅力ある十和田市民の一人として自信を持って声を掛けようと思う。

地域とひとの足となる仕事
 まちと人とのつながりを道に走る
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プロフィール 昭和48年12月7日生まれ(41歳)
三本木高校卒業後、青森大学に進学。大学時代に2種免許を取得し、卒業後に十和田タクシーに入社する。運転手から始めて経理や事務作業などの仕事も覚えながら働き、28歳で代表取締役に就任する。
 平成9年に十和田青年会議所に入会し2011年、東日本大震災の年に55代目理事長として就任した。現在は十和田タクシー協会の会長も務め、旅客運送業として安心と安全を運んでいる。

 今回は現十和田タクシー協会の会長も務め、昭和25年に創業した十和田タクシー(株)を継いで、若くして代表取締役となった田中宏一さんを訪ねた。
 重い肩書きにとらわれず、明るい性格で敵を作らないようなイメージがある田中さん。意外にも2歳で父親を病気で亡くし、両親がいないことが当たり前で2歳にして土地や権利を受け継いだ事となった。父親の記憶がほとんどないまま幼少の頃から会社を継ぐ事だけは決まっていた。三本木高校へ進学し、青森大学で二種免許を取得し、卒業後に十和田タクシーに入社、28歳の若さで代表取締役となる。ストレートにエリートコースを歩き、不自由なく人生を進んでいるようにも見えるが、早くして自立しなければならなかった事情があり、親の敷いたレールの上を歩く事は出来ず、親の残したレールの続きを敷いているのだと思えた。
 タクシー会社の仕事を始めた頃は「仕事を覚える事」以外にも「道を覚えること」や「人を覚える事」など、営業から業務まで何でも覚えなければならなかった。昔は70名ほど運転手がいた時代があったが少しずつ車社会となり、タクシー業(旅客運送業)は維持費や人件費が多くかかるため、決して大きく儲かるわけではなく、地道に少しずつ稼いでいかなくてはならない。会社を運営し、まちとひとを覚えるためにも何か行動をしなければならない。平成9年に青年会議所に入会した理由の一つでもあるだろう。55代目の理事長を務める事となった2011年、東日本大震災があった。誰もが苦しく助け合わなくては乗り越えていかなくてはいけない年を理事長として務める事が出来たのは田中さんだからだったのかもしれない。車に乗れない高齢者や観光客など、タクシーが必要なお客様がいる限り、地域の足となって頑張りたいと語った。

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