はたらくひと必読!仕事人!!

 経験がひとを成長させる
学校では学べない授業を学べる学舎
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プロフィール 昭和46年8月7日生まれ(43歳)
八戸西高校を卒業後、八戸学院大学へ進学。教師を目指しいろんな高校を転勤しながら学び、29歳の時に正教諭となる。商業系の科目を得意としていたが、38歳の時に十和田西校に赴任し、初めてとなる観光科の担任となった。県内唯一の観光科の意味を深く強めるために2011年の2月から子供たちとバラゼミをつなぐ窓口として自身もバラゼミの一員としてスタートした。

 今回は県内唯一の観光科がある十和田西校の担任の川村真一さんを訪ねた。個人的な学校の先生の勝手なイメージはどこかに一般人との壁があり、本音の会話をする機会も少ない聖職者と呼ばれる遠い存在だったように思えていた。そんなイメージを覆すような川村さんは気さくで話しやすく、気持ちの芯は子供たちのためにと熱く語り、行動できる人だと感じた。
 元々は商業科に赴任する事が多く、十和田西校の観光科に赴任してきた時は自分に何ができるかの判断が難しかったという。
 そんな時にまちおこしのために一生懸命、十和田市を盛り上げていこうと活動しているバラゼミと出会った。まちおこしのためには、まず子供たちに街を知ってもらう事から始まった。2011年の2月から子供たちの窓口として連携する役割から始まったが、当時はほんの数名が手伝うような状況からスタートした。そして翌月の3月に忘れることのない大震災があった。地域復興の前に震災復興のために炊き出しなどにも参加し、亡くなった人や残された家族にも声を掛けた。2011年の姫路大会ではたった4人の西校生をPR隊として初めてB‐1グランプリへ連れていった記憶は今でも鮮明に覚えている。過去の失敗から学びながらも、少しずつ努力が結果となってきた。
 本気の大人が本気を子供たちに見せることで本気で協力する気持ちをもつ生徒たちも増えてきた。人を笑顔にさせる仕事を覚える事。震災の仮設住宅を一緒に回った経験は弱い者に対する気持ちを育んでいった。苦難苦闘の毎日は、いつの間にか生徒から仲間のような信頼関係になっていた。普通であれば有り得ない体験をさせてもらった。生徒のために授業では勉強を教え、卒業のために就職先や進学先を考える事も大事だが、経験が人を成長させるのだからバラゼミには感謝しかないと最後に語ってくれた。

困っているひとを助ける仕事
  法律と行動でまちを助ける支援者
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プロフィール 昭和54年2月3日生まれ(35歳)
埼玉県出身。浦和西高校を卒業後、学修院大学文学心理学科に進学し、平成13年に卒業。父は旧天間林村出身の弁護士で、現在は東京で十枝内総合法律事務所を構える。その事務所の手伝いをしながら平成18年に(旧)司法試験を受けて合格した。約1年半の研修を経て平成20年に弁護士となった。平成23年6月に、十枝内総合法律事務所十和田支所に赴任した。

 今回は少し重く感じた扉を開け、十枝内総合法律事務所の弁護士、十枝内亘さんを訪ねた。
この仕事人の取材で話しを伺うよりも先に質問されたのは今回が初めてで驚いてしまった。質問は「弁護士とはどんな仕事だと思いますか?」だった。弁護士は弱い人を助けるのに、法律は悪い人を助けるようなイメージがあるとの個人的な主観の答えに十枝内さんは少し笑って応えてくれた。十枝内さんは困った時に人が助かる道を示して、トラブルを解決するために法律を通じてアドバイスや解決策を与える事、道徳が文章としてあるのが法律で、依頼者の有益になる事が仕事として大切な事だと教えてくれた。テキパキと話しを進めながらも分かり易い例えや安心できる会話力に、さすが弁護士だと感じた。
 そんな十枝内さんが十和田市に赴任してきたのは震災のあった年の6月だった。元気のない町や人を見て何か出来ないかと考えていた。そんな時にまちおこしのために活動しているバラゼミと出会ったという。市外からきたよそ者として十和田市を見て、バラゼミの理念と活動に未来を感じ手伝いをしようと行動、北海道・東北B‐1グランプリの十和田市開催に深く感動をし、決意は固まったという。
 しかしバラゼミには入らずに自分の出来る事を考えた。Jリーグで例えるなら選手とサポーターのような関係で支えることは出来ないだろうかと思案した。選手はサポーターが応援してくれるから苦しい時にも頑張れる。その姿を見てサポーターは感動して応援する。そんな関係を街単位で実行しようと十和田バラ焼きによる、まちおこしサポータークラブ(通称バラサポ)を設立した。自分の街を好きになってくれるひとを増やすきっかけを作る活動が「まちづくり」になると信じて、これからも自分のできる範囲の行動で支えていきたいと語った。

 小さな森の大きな守人
子育てを共に悩んでくれる母
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プロフィール 昭和26年12月27日生まれ(62歳)
弘前市で生まれ青森市で保育士として勤める。22歳の時に結婚を機に十和田市へ移住した。児童館や保育園で働きながらも個人で預かり保育などもしていくうちに、自身の保育園を開きたいとの想いが強くなり、33歳で保育園を開業した。当時は無認可の保育園だったが開業から17年、働く職員にも保障を作るために認可申請をした。ADHDの子供も迎え入れる体制も作り、来年で30周年を迎える。

 北園小学校の裏手の方に「社会福祉法人 北心会 小さな森保育園」がある。ここは青森県で初めて知的障害者と呼ばれる子供も受け入れる申請をしたコスモスも併設している保育園で、元気に遊んでいた子供たちにも大人気の園長、宮本ひろ子さんを訪ねた。
 子供が大好きと言わなくても伝わってくる人柄が印象的で、若かりし頃から保育士として働き、自身の保育園を運営するまで並々ならぬ苦労や苦難は子供たちのためという強い意思に感じることはなかった。
 開園当時は無認可だったために運営も厳しく保育士としての悩みもなくなることもなく、忙しい毎日を繰り返していたが、時代は少子化がすすんでいくと同時に知的障害をもつ子供も増えてきたという厳しくも難しい現状にあった。
 この子供たちを何とかしてあげたいとの想いから、保育園だけではなく、障害者を受け入れ支援するための「コスモス」を設立した。また、共に働く保育士の将来のために認可申請を出し、社会福祉法人として保育園を運営する事となった。
 子育ての基本とはなんだろうか?厳しく育てる、過保護、育児放棄など、貧富の生活環境のある中で...正解は未だに見つかっていない。そんな中で宮本さんは子育ての基礎は障害などのハンデをもった子供を見る事だと教えてくれた。出来ないから怒る...から出来なくても出来る所から教える。悪いことをしたらその子のために叱って教える。貧しくても工夫があればその経験がきっと将来の役にたつ。少しポジティブに考える事が出来れば今より一歩は前に進むことが出来ると教えてくれた。十人十色の子供たちがいて親がいる。一人一人に自分の考え方や気持ちを伝えることが正解を見つけるきっかけになればと悩む親たちとの話し合いの場も作っているという。
 これからはグループホームを作ったり、ダンスやピアノの教室を開いたり、障害のある子でも働ける環境や居場所を作ってあげたいと笑顔で語った。

建設業の縁の下の力持ち
  開拓と共に成長する重機屋さん
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プロフィール 昭和38年9月20日生まれ(51歳)
 三本木高校を卒業後、専修大学商学部商業学科へ進学。神戸製鋼で重機への知識と技術を学び帰郷した。平成3年4月にコベルコ建機金沢営業所に勤める。創業48年となる会社は当時、南小学校付近へあったが住宅が増えたため、危険性も考え約30年程前に現在の場所へ移転した。
油圧ショベルやクレーンの整備から、リースや販売まで、建設業と共に成長している。

 今回は金沢重機工業の代表取締役である金沢守昭さんを訪ねた。
 ひとまとめで重機と言っても土を掘ったり、物を吊ったり、道路を舗装したりなど役割は多種にわたる。昔は大きい会社ほど様々な重機を持っているのがステータスだった時代があったが、今は費用のかかる重機は持たずに借りる会社が多くなった。家を建てるためには設計・建築・電気工事・水道工事など違う業種が協力して建てると同じように、道路を作るためには建設・重機・運搬会社なども協力して完成を目指す。十和田市の建設業界は開拓の時代からの努力もあり、技術は他県からも認められ、それに必要な重機会社も共に成長していった。何か大きな事をするためには様々な仕事や人が関わって協力して形を残していくんだと教えてくれた。
 そんな金沢さんは実はバラゼミの創設メンバーの一人だった。畑中舌校長と同級生の何人かが「まちおこし」のために集まって平成20年に立ち上げたという。当初はバラ焼きを提供しているお店の調査から始まり、先輩である八戸せんべい汁研究所から学び、5回目の厚木大会から初参加し見事8位入賞した。好成績と見えた裏にはフタを付けてしまったために持ち帰られた事、数をだすために必死になりすぎて笑顔が足りなかった事など反省点も多かったという。反省から学び、焼き方やタレなども一から考えた。全国でも珍しい観光科がある西校生を参加させたのは3年目こと、小学校にも参加を呼び込み、十和田市全体で活動しているイメージが結果を生んだ。
 金沢さんは、一人一人がこれからの十和田市のために、未来を担う子供たちのために何かをしたいと考え方を変えてくれたらきっと素晴らしい街になる。それがまちおこしのための活動の原点だと最後に語ってくれた。

見えないものを売る仕事
  損しても得を生む尊徳人
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プロフィール 昭和40年9月19日生まれ(49歳)
弘前市東奥義塾高校を卒業後、札幌市の北海道自動車短期大学に進み、卒業後に青森トヨペット十和田店に昭和61年に入社した。入社当時は自動車整備士として勤務していたが翌年に営業部へ異動。営業成績№1の実績を認められ店長として勤務。平成18年4月まで店長として勤めた後、現在の会社、株式会社エイ・ジェイ・アイへ転職した。

 北園小学校の向かいの角地にある保険代理店・株式会社エイ・ジェイ・アイで努める佐々木毅彦さんを訪ねた。主にカーリースやイベント保険なども担当する佐々木さんはトヨペット時代からたくさんのお客様にお世話になり現在があると言う。
 保険といっても扱うのは生命保険や車両保険だけではなく祭りやバラゼミ、様々なイベントなどにも多くあると教えてくれた。
 誰かに何かがあったら...取り返しのつかないことがないように責任を請け負うのが保険だと感じた。
 佐々木さんは株式会社エイ・ジェイ・アイの営業部長でもあり、十和田商工会議所青年部の会長でもあり、交通安全協会青年部の部長、バラゼミの教授兼キッチンボスでもあり、高校生の息子を育てる父親でもある。多くの肩書きに、真っ直ぐ家に帰れる日はほとんどないと言えるくらい多忙な日々を仕事とボランティア活動で費やしている。人間は生きることが営業。何を考えて行動してきたかが今につながっていると思うと語ってくれた。
 現在はB‐1グランプリ郡山大会のゴールドグランプリを目標にバラゼミで活動、他にも十和田湖マラソンの実現なども企画したいと行動している。なぜ給料も出ない事にそこまで一生懸命になれるのかを聞くと町興し事業は地域の経済効果につながる事、今までお世話になった全ての方々に恩返しがしたい、そして将来、県外に出た子供たちが帰ってきても働ける場所があり、胸を張って誇りに思えるような街にすることが大人の役割だと思うと熱く坦々と語ってくれた。
 偶然にも取材中に県外から来たと思われる人が訪れ迷っていたのを見ると、パッと立ち上がり十和田市の観光や飲食店を紹介している行動力には驚いた。何でもすすんで行動する姿勢が佐々木さんの営業なんだろうと感じた。
 最後に伝えたいことは?の質問に「これからもよろしくお願いします」と笑顔で挨拶して終わった。

 まちづくりと共に育ち
    街を守り道を作る建設人
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プロフィール 昭和45年6月24日生まれ(44歳)
三本木農業高校農業土木科を卒業後、八戸工業大学土木工学科に進学。卒業して22歳の時、㈱福萬組へ入社。5年の実務経験を受け一級土木施工管理技師を取得。現場監督として会社に貢献し、平成19年に営業部へ配属された。現在は入社22年目となる。3人の子育てに奮闘しながらも、さまざまな慈善事業にも積極的に参加し地域にも社会貢献している。

 今回は十和田市で最も多い六差路の交差点の角にある㈱福萬組の営業課長、小笠原光博さんを訪ねた。
 大きな会社の玄関で丁寧に挨拶し出迎えてくれたのは大きな身体で強面の顔、そして素敵な笑顔の小笠原さんだった。
 今の仕事をしているのは子供の頃に見たCMがきっかけだと言う。道路や街を作る仕事をしたかったという想いを忘れることなく、そのまま大学を卒業し、現在の会社に入社したという。
 外観は土木建築の会社というより、一流ホテルのような建物の福萬組だが、創業当初はタンスなどを作る小さな建具屋だったという。福島萬次郎(前会長の父)の名前から昭和38年に福萬組と改名し、会社は大きく発展、時代と共に成長した。
 十和田市は天災(特に水害)には強く、空気も綺麗で住むにはいい街だと教えてくれた。それほど人口は多くないが、稲生川から始まった開拓の町、十和田市には県内に40社程ある特A級の認定を受けている会社(簡単に言うと大きな仕事を受ける事が出来る資本や人材がいる会社)が約10社もある事も納得出来た。
 会社の方針の一つとして、地域に貢献出来ない会社には存在意義がないとの教えからか様々な慈善事業にも参加している。その中の一つとしてバラゼミがあった。仕事や家庭の合間にボランティアで活動に参加。大変な事の方が多いが活動を通して一番感じた事は「前よりも十和田市を好きになった事」と笑顔で語ってくれた。
 学生時代はサッカーの守護神としてゴールを守っていたという小笠原さん、今では会社と家庭と十和田市を大きな身体で守ってくれているようで頼もしく感じた。

知らないまちで出会ったひと
 繋がりを大切に想う印刷屋さん
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プロフィール 昭和49年1月11日生まれ(40歳)
茨城県出身。土浦日大高校を卒業後、続けていたバスケットの実業団を持つ日立の関連会社で務める。結婚を期に八戸に引っ越してきてからは障害者施設で約3年勤める。現在12歳になる長女が生まれた年に十和田市へ引っ越してきた。八甲荘で2年間勤務し、縁あって平成16年7月にアート印刷へ入社した。現在は3人の子供を育てる。

 当新聞社もお世話になっている㈲アート印刷の営業部長である黒田真之さんを訪ねた。ゆったりとした空気、決して慌てないような雰囲気をもつ人柄だと感じた。そんな黒田さんは茨城県出身。様々な縁と結婚を期に十和田市に住むことになり12年となる。
 現在は子供は3人。もしかしたら、一番の功労者は十和田市民を4人も増やした奥様なのかもしれない。
 印刷業はポスターやチラシ、新聞などを発行するお客様との契約があり、紙やインクなどを製造する会社との橋渡しをする仕事とも言えるだろう。紙には目があり、縦と横があるなどの豆知識から仕事での苦労談なども教えてくれた。機械で部品を作る仕事から障害者や高齢者を支援する仕事をしてきた黒田さんが全く違う職種に就いた。
 当時は聞いたことのない専門用語が飛び交う中、知らないからこそ気付けた事もあったと語る。
 ㈲アート印刷に入社してから8年目となる黒田さんが仕事を覚えるために営業に回り、一番最初に出会ったのが現在バラゼミ舌校長の畑中氏だった。もちろん当時はバラゼミのない時代。商工会青年部に誘ってもらい、仕事やプライベートでの付き合いもお世話になった事、茨城県から知らない土地にきて知らない人ばかりに囲まれた黒田さんにとっては救いの手だったことだろう。
 その恩を忘れずに縁を大切にした黒田さん、新幹線が開通した翌年に畑中氏に誘われ、連れて行かれた先は「とことん青森」という青森の魅力(ねぶたや林檎など)を発信するイベントだった。それが茨城県出身の黒田さんが青森県の魅力を何かで発信したいという想いに変わり、バラゼミに入ったきっかけとなり、現在バラゼミの副学長兼総料理長も努める由縁となった。
 人と街に育てられた恩、それを人と街を育てるための活動で恩返ししているのだろうと感じた。

  見送る側から贈る側へ
 人生の道を知る結婚仕立て人
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 プロフィール 昭和45年6月5日生まれ(44歳)
三沢商業高校を卒業後、稲本胃腸科外科で約3年医療事務を務めるが、結婚を機に退職。その後、子育てをしながらの新産測量の事務を約13年務める。それから桜田造花店で6年間を働き、人を送る職務を続けるが家庭の事情で退職。パートなどをして生活していた苦しい時期に、縁あってサン・ロイヤルとわだに平成23年1月にパートとして雇用される。同年3月に震災があり、人件費削減のために退職を覚悟していたが仕事力を認められ正社員として雇用され、ブライダルプランナーとして活躍する。

 今回はサン・ロイヤルとわだで勤務の、十和田市で唯一の女性のブライダルプランナー・三浦潤子さんを訪ねた。
 年齢よりもずっと若く見える外見に、すでに孫がいるギャップに驚く(笑)
 いつも笑顔で元気なイメージがあるが、現在の仕事をするまでは様々な苦労と苦悩があったと教えてくれた。
 結婚式を一生の幸せの思い出にするための仕事。この職務の以前の仕事は、意外にも人の一生を見送る仕事だった。
 当時の仕事にもやりがいを持って働いていたが、家庭の事情で退職することになった時には現在の仕事は想像もしなかったであろう。
 冠婚葬祭の葬儀から婚儀への転職。3回あると言われる人生の主役になる時を仕事で携われた経験が潤子さんの仕事に対する姿勢を培ってきたのだと感じた。
 ブライダルプランナーとしては、自分は女性であることが最大の強みだという。男性には分かりづらい結婚前の女性の不安な気持ちにも様々な経験から、アドバイスやメンタルケアもしていきたいと語る。 それはやはり一生に一度の晴れ舞台にみんなに笑顔でいて欲しい気持ちがあり、二人の幸せを応援する潤子さんにも同じ笑顔が溢れるのは当たり前なのかもしれない。
 また、サン・ロイヤルとわだではハピコンパーティーへの全面協力、市内24店舗の飲食店とのコラボ企画、新しい中華の料理長を迎えるなど十和田市民の人々が幸せになれるような様々な企画に挑戦し続けている。

家電と人と共に育った街の頼れるでんき屋さん

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プロフィール 昭和44年7月21日生まれ(45歳)
三沢商業高校を卒業後、SHARPに研修し、1年後に帰郷する。小学五年生から家電屋の家業を手伝っていたという。幼少からずっと家電と共に育ってきて、今年で35年目のベテランと言える。販売だけではなく、修理、リフォーム、太陽光発電と自ら仕事を増やし、街に必要な家電店としてお客様の要望に応えて続けている。

 今回は切田通りのカケモから中央公園側に進み、サークルKが交差する通りに家電製品を扱うお店が昔からある。今年で創業47周年を迎えた㈱大竹電化センターの取締役である大竹 昇さんを訪ねた。
 家電屋さんの家に生まれ、幼少の頃から家電と共に育ってきた。小学校5年生の頃から家業を手伝い、19歳で家業を受け継ぐ。
 店舗販売だけがメインではなく、修理やリフォームなども請け負う。お客様の相談にのったり、意見を提案したりもする。最終的には買ってくれたお客様がよかったと思ってくれて感謝された事が一番嬉しいとも感じ、それまでの会話ややりとりが仕事の面白みだとも語ってくれた。
 家電というと何からどこまでなのかと聞くと、家の中にある電気で動くものはほとんど当てはまる。冷蔵庫やクーラーだけではなく、お客様の修理の相談には水道やボイラー、換気扇まで頼まれる事もある。古くなったら買い替える事は簡単だが修理すれば使える物、愛着があったり、買い替えのお金がない場合は強力な助っ人と言えるだろう。お客様の要望を断らずに何でも引き受けていたら何でも出来るようになっていたと笑いながら語る。
 時代は電気を節約する節電ブームとなっているが、同時に電気を売る発電も主流となっている。国からの補助もあり、必ず投資に見合った利益を得ることは知る人ぞ知る。節電と発電、目的は違うがエネルギーの無駄をなくし活用する事はこの先の生活に大きく関わる事だろう。
 日常には欠かせない存在である電気と家電製品。発電することによって電気代を節電することにつながる家庭用の太陽光発電の工事も受注していると教えてくれた。これから先の未来を考えて...詳しい内容は是非、訪ねてみて欲しい。

仕事と家庭とバラゼミと、3つの顔を持つ電気工事士

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 昭和52年5月26日生まれ(37歳)
三本木高校卒業後、日大の生産工学部・電気工学科を卒業。父親の体調不良のために一時帰郷、そのまま家業を手伝うことになった。創業は昭和48年に個人事業として設立。平成7年に㈲相坂電気として会社名を戒名した。電気工事士や施工管理技士などの資格を仕事を手伝いながら勉強し取得した。今年11月に待望の第一子が生まれる予定。バラゼミなどでは学長として活動もしている。

 今回はバラゼミで学長としても活動する㈲相坂電気の木村長敏さんを訪ねた。電気工事の仕事をしてからは15年目となる。
 学生時代から続けている野球。当時は笑顔を作るのが苦手だった自分に恩師が「笑顔が出来ないやつは泣くことも出来ない」と教えてくれた事は忘れない。それがあるから今の自分がいるかもしれないと語ってくれた。
 電気工事士の仕事は様々な現場があるが、例として新築の家を建てる時には最初と最後に仕事をすると教えてくれた。元請の業者から設計、水道工事、建築、電気工事など分野に分かれたプロが仕事を協同作業で進めていく。工事用の主電を最初につなぎ、建物が建てられたら配線をつないでいく。仕事は黙っていてもくるものではなく、元請けの業者から注文が入る場合が多いので若かりし時から会社の付き合いも大切にしているという。
 野球というスポーツで学んだ事、仕事で生きていくために身につけた事、そして十和田市をもっと盛り上げていきたいという気持ちがバラゼミに入った理由なのかもしれない。
 最初は舌校長の畑中氏に声を掛けられたことがきっかけだった。バラゼミの活動は素晴らしいとは思っていたが、最初はタキシードを着ることに多少の抵抗はあったと笑いながら語る。それでも当時は県外での活動が主だったから思い切り出来たんだと思うと語ってくれた。そして今では全国的にも認知される存在となり、若くして学長の肩書きを背負う。
 メンバー全員が木村さんより年輩の中で名前が先に上がるのは人柄、責任感などが認められた証なのだと思う。学んだ事を次に活かし、自分のために、十和田市のためにと活動している事がいい循環と結果を作っていくのだろうと感じた。

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