はたらくひと必読!仕事人!!今月のスポットライト

内閣総理大臣賞を受賞!!
ふるさとイベント大賞の「桜流鏑馬」
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散らない桜は未来を射貫く
馬と共に駆け抜ける女流騎手
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(プロフィール)昭和46年2月3日生まれ(45歳)
十和田市出身。七戸高校を卒業後、東京の建築関係の専門学校に進学。卒業後はフリーターとして働き、22歳の結婚を機に地元に帰郷した。実家の手伝いをしながら27歳の頃に正社員として入社し、運命の馬と出会う。
 女人禁制・男だらけの伝統技の流鏑馬の美しさと魅力に感動。盛岡八幡宮流鏑馬の師範に弟子入りし、流鏑馬を競技化したスポーツ流鏑馬に女性として初めて大会に参加し、初挑戦・初優勝の快挙を成し遂げた。
 32歳で乗馬のインストラクターを取得し、馬のまち、十和田市を盛り上げようと駒フェスタや桜流鏑馬などの大会を企画し、体験できる観光型事業として海外へも発信している。このたび第20回ふるさとイベント大賞の「桜流鏑馬」が内閣総理大臣賞を受賞し、年々増加している女流騎手の第一人者として現在も活躍中だ。

仕事人・上村鮎子
 今回は第20回ふるさとイベント大賞・内閣総理大臣賞を受賞した「桜流鏑馬」その第一人者として活躍している農業法人㈲十和田乗馬倶楽部の代表取締役兼ウエスタン乗馬インストラクターの上村鮎子さんを訪ねた。
 177㎝の身長からか堂々とした雰囲気で、何でも思ったことを正直に話してくれるような男気ある女性という印象の上村さんは流鏑馬の世界に飛び込んだきっかけとこれからの目標を話してくれた。
桜流鏑馬の誕生
 流鏑馬は800年から1000年の歴史ある神聖な伝統競技で女人禁制だった。最初は男性が守ってきた儀式的な馬術競技で女性がやるものではないと思った。しかし、現在は乗馬人口の女性の割合が増えてきたこと、スポーツ競技として楽しめるようになったこともあり、女性への普及を考える。どうせやるなら本物を覚えたいと盛岡八幡宮流鏑馬の師範に弟子入りし、初参加の大会で初出場・初優勝の快挙も成し遂げた。
 桜流鏑馬はただ馬に乗って矢を射るのではなく伝統ある流鏑馬の作法や姿勢を大切に考え、そこに女性ならではの華やかさを加える事で観る人にも楽しみを与えたいという気持ちと、当時愛情をかけて乗っていた馬が弱ってきて最後に花道を作ってあげたいとの想いもあり、全国で唯一の女性だけのスポーツ流鏑馬「桜流鏑馬」が誕生したという。
 春の桜舞う季節の女流騎手の祭典、桜流鏑馬だけではなく、秋の枯れ葉彩る駒フェスタは季節と景観を感じながら観るだけでも楽しめる。コースは200m、実際は射る区間110mを馬に乗て両手を離し、9秒以上10秒未満で駆け抜けながら3回射貫かなくてはならないため、かなり高度な技術も必要だと教えてくれた。
継続と連携は力なり
 もちろん最初から何でも上手くいったわけではなく苦労も多かった。自分は詰めが甘く周りの人に助けてもらい連携が上手くできた事もある。若い頃はすぐ結果を求めていたが、今は流鏑馬を通して我慢する事と物事を坦々と進める事を覚えた。また、女性が見栄えするような衣装や色使いなどにも気を配ったり、馬のまち十和田市のイベントとして恥じないような内容を作っていかなくてはと企画し、今年で第13回目となる。それの活動が去年の十和田市の地域資源として認定されたことや今年の内閣総理大臣賞につながったと思うと語った。
滞在体験型観光事業の実現へ
 現役は続けられる限りやっていきたいが、いつでも裏方に回れるように準備もしていきたいと語る上村さんが次に目指すものは外国人の体験型観光事業だという。十和田市の活性化のため外貨を稼ぐ意味でも、世界に通じる十和田市の新しい文化として根付くためにも情報を発信したり、魅力あるイベントとして女流騎手の拡大などをしていきたいと語る。結果として外国人を誘致し滞在した事によって宿泊・飲食などの利益や他の観光事業との連携も準備できればと目標を志しているようだ。十和田市活性化のためにも、これからも桜流鏑馬と上村さんの活躍を期待したいと感じた。
思いやり溢れる街と人
そんな十和田市にと願う癒し人
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 昭和52年3月12日生まれ(38歳)
十和田西高等学校を卒業後、親戚に福祉関係の仕事をしている人が多かったためか自然と東北福祉大学・社会福祉学部社会教育学科へ進学した。卒業後は東北町の社会福祉法人で2年勤務しながら仕事を学んだ。銀行マンだった父がもともと社会福祉施設を開業しようと考えていて平成13年に㈲ケアサービス十和田イーストグループホームたかしずの森を設立した。管理者として施設を管理し、現在は創業15年となる。子どもも生まれ仕事も忙しくも周りからの後押しもあり、今年度は十和田青年会議所の60代目の理事長も務める事となった。
 今回は「㈲ケアサービス十和田イーストグループホームたかしずの森」の管理者を勤め、第60代目の十和田青年会議所の理事長を務める事となった水尻和幸さんを訪ねた。優しそうだと誰でも感じそうな顔と体型で出迎えてくれた。
 高校時代に最初はJRの運転手になりたかったが親戚に福祉関係の仕事が多かったためか、いつの間にか自然と東北福祉大学に進学した。平成13年に会社が設立し管理者として勤務。現在は介護報酬がどんどん減らされて入所を希望する人は増えているが受け入れる側は厳しくなってきている。それでも認知症対応共同住宅として管理し、病院への送迎や食事の管理なども考えなくてはならないと教えてくれた。
 平和を愛する温厚そうな性格だが意外にも趣味はバイク。レースに出場したりモトクロスの大会を運営管理するなど人には見せない一面を持っているのかもしれない。30歳で結婚し、青年会議所にも入会。仕事と家庭、趣味とJC運動など忙しく毎日を過ごしている水尻さんが今年度の理事長に立候補するきっかけとなったのは...誕生日の前日に起こった東日本大震災だった。施設には食料は多めに貯蓄していて発電機もあったため何とか繋ぐことができた。誰かが助けを求めている時に助ける側の仕事についた意味を深く感じ、同時に自分も周りに支えられている事に気付く。
 今年度の十和田青年会議所のスローガンを「感謝と絆~思いやりで彩る魅力ある人と街へ~」にしたのは、自分の事だけではなく周りの人の事を考えられる人と街になって欲しいから、繋がる事で絆は強くなり感謝の気持ちは自然と生まれると思うと優しく語ってくれた。
革新が必要と確信したお坊さん
隠しきれない覚悟でいのちを活かす
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長谷川 覚仙さん
 昭和56年2月15日生まれ(34歳)
三沢高校を卒業後、東京の駒澤大学に2年、北海道の駒澤大学に2年と学業を学び卒業後は福井県の永平寺に修行に入る。三沢に帰郷してからは建立50年の曹洞宗中央院の家業を継ぎ、作法や教えを学びながら僧侶の資格を取得し、現在副住職となる。24歳の時に三沢青年会議所に入会。今年度、若くして53代目の理事長を勤める事となった。
 今回は法事以外では訪ねる事がないであろうお寺、三沢市の曹洞宗中央院で副住職を務める長谷川覚仙さんを訪ね、話しを聞いた。
 長谷川さんは僧侶でありながら今年度の公益社団法人三沢青年会議所の第53代目の理事長を務める。住職であり理事長でもあるというギャップに驚いたが青森県ではまだ少ないだけで全国的に見ると珍しくはないという。
 生まれながらにお寺で過ごし、小さな頃から着物を着てお経を読んでいた。家業を継ぐことに対しては何の疑問や不満もなく継ぐ事が当たり前の事だと思っていたと話す。宗教はどこで生まれたのか、宗派はなぜ出来たのか、お経は何から出来たのかなど教えてくれた。社会勉強とは世間に出てからするもので社会(歴史)の勉強は先人を知る事から始めるのだと感じた。
 知人に誘われたのがきっかけで24歳の時に三沢青年会議所に入会。初めは何の団体かもわからず何かの宗教団体かと思ったと笑って話す。三沢市のお祭り中日の神輿担ぎや沖縄児童との交流事業などに参加し、ひとを知る。日本青年会議所に出向し他県を見てきてまちを知る。足りないと気付いた事は、まちおこし事業が三沢市にはあまりないことだった。若者が多いイメージがある三沢市だが20代から30代が少ない。今のままでは未来は暗いものとなるだろう。生きているうちに出来る事は限られている。だからこそ失敗を恐れずに意識を高く持ち、町にいいものを残し次世代につないでいく事が自分の役目だと思い、覚悟を持って新しい事に挑戦していきたいと語った。今年度のスローガンはその想いを込めて「覚新~RealInnovation~」とした。これからの三沢市の未来を担う青年の一人としてこれからの長谷川さんの活躍を見守りたいと感じた。
建材用品を卸売る家業を継いで
地元に根差し、地域のつながりを大切に
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 今回スポットを当てたのは有限会社ニタドリの愛娘で総務で働く似鳥友理さんだ。昭和61年9月3日生まれの29歳。
 三本木農業高等学校を卒業後、市内の別会社に勤務していたが20歳の時に父から事務が足りないと家業でもある(有)ニタドリ建材塗料に勧められ入社した。約6年前に塗料以外にも仕事の範囲を広げるためにと社名を変更し、(有)ニタドリと改名した。
 似鳥さんは5人兄弟の2番目の長女として生まれ、2歳上の兄から13歳下の妹までいる賑やかな家族で育った。どちらかというと人見知りで自分からあまり話し掛ける方ではないが、誰かと会話をするのは好きで仲良くなると年齢性別関係なく誰とでも楽しく会話することが出来るというのはこの家庭があったからだろう。
 大人しそうな印象はあるが中学はバトミントン、高校はバレー、冬季はスノーボードなどスポーツ好きで活発な一面もある。倫理道徳の研究と社会教育を推進するという公益社団法人モラロジー研究所に入会しており、にじみ出るような優しい人間性は道徳を知る事から身に付けたのかもしれない。また、21歳の頃(8年前)から何度も誘われ続けていた十和田青年会議所にも今年度から入会する事となった。祖父、父親と入会していて自分で三代目だというのだから昔から地域のためのJC運動などをしている背中を見てきたことになる。ベテランの新人として今後の活躍を期待したい。
周りに支えられ、真っ直ぐ育った優しい心
はにかんだ笑顔が似合う妹or娘にしたい女の子
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竹ヶ原興行 株式会社 
総務部 竹ヶ原 春香さん

 今回スポットを当てたのは竹ヶ原興行株式会社の愛娘、竹ヶ原春香さんだ。
昭和62年5月11日生まれ(28歳)、三本木高校を卒業後、仙台にある東北学院大学経済学部経営学科に進学した。卒業後は家業をすぐに継ぐ事は出来たが自分の力で社会勉強をしたいとあえて20~30社の面接を受けたという。その努力の甲斐あって、本社は東京にある大手の総合電機メーカーの埼玉県の営業所に就職を決めた。約3年間、経理を勤め26歳の年に帰郷した。
 竹ヶ原興行株式会社の創業は昭和38年、農業用の資材の販売や施工などを業務としてやっていて、春香さんが生まれる前から続いてきた歴史ある会社だ。なんとなく子どもの頃からちょくちょく会社には遊びにきていた記憶はあるが、物心がつく頃にはいずれは後を継ぐのかと秘かに思っていたようで、大学時代には長い春休みを利用して会社の手伝いなどもしていたという。
 趣味はバトミントンで週に1日は身体を動かしている。帰郷してからのプライベートでの悩みは地元に残っている同級生や友達が少ないこと。それでも家族との時間が楽しいため苦にはなっていないという親孝行な本音を教えてくれた。仕事ではまだ耳が慣れていないのか電話でのお客様の言葉が聞き取れない事が多々あって少し苦戦しているようだ(笑)。また、昔から勤めている作業員や事務の人は小さな頃からの自分を知っている。今までも、これからも、たくさんの人に支えられている事を実感し、周りに感謝して頑張っていきたいと語ってくれた。仕事はまだ3年目だが少しでも自分の仕事の出来る範囲を増やしていき、地域のためにも役にたてる活動もしていきたいと笑顔で教えてくれた。

通り道の駅から目的地へ
十和田市の魅力を発信する道の駅とわだの駅長
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プロフィール 昭和44年12月1日生まれ(46歳)
十和田工業高校を卒業後、東京の専門学校(東京読売理工専門学校)情報処理科に進学。卒業後は帰郷し、三八五観光(株)三沢空港営業所でフライトプランや航空機との無線交信などの業務につき、20年間勤務するが40歳の時に一身上の都合で退職することとなった。退職後は業種の違う仕事を経験し、当時の道の駅(良品開発)で駅長募集があり、駅長として勤めたが事情により一時退職することになった。その間、道の駅が良品開発から(株)パワフルジャパンに指定管理者が移行することとなった。退職後は別の仕事についていたが駅長職の経験から声を掛けられ今年4月に再び駅長となった。

 今回は道の駅とわだの指定管理を受託している株式会社パワフルジャパン十和田の駅長、竹ヶ原康輝さんを訪ねた。
 駅長となったのは今年の4月、20年間は十和田市外の三沢空港で働いていた竹ヶ原さんは事情により退社後、道の駅とわだ(当時の指定管理者は良品開発)で働くことを決めた。そこで十和田市の魅力やポテンシャルに気付かされ、野菜やハーブ、加工品の地産品などを市内外へ発信していきたいと感じたと言う。
 一時、駅長を退いた時期もあったが気持ちは変わらずNPO法人から立ち上げた(株)パワフルジャパン十和田が道の駅とわだの指定管理者となってから声を掛けられ再び駅長として就任する事となった。竹ヶ原さんは以前やり残した事を成し遂げるためにも新たに挑戦もしていきたいと秘かな想いを語った。今までは「目的地の途中」にあるのが道の駅だったが、今は地産品やお土産などを充実させイベントなども企画し「目的地自体となる」ように試行錯誤している。
 青森県では唯一のプロバスケットボールチーム・青森ワッツの後援企画や十和田ふぁみりーずでの一次産業の地産品発信はもちろん、六次産業化の商品開発にも積極的に協力し、加工品など十和田市に関する食や情報など充実させ、道の駅から十和田市の魅力を発信していきたいと語った。

役職は変わっても自分は変わらない
これからを見据える35歳の若社長
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プロフィール 昭和55年9月18日生まれ(35歳)
十和田西高校を卒業後、東京の専門学校(東京法律杉並専門学校)に進学。宅地建物取引主任者の資格を取るために入学したが、この時は残念ながら取得できずに帰郷した。家業を学びながら働くも資格がないとなかなか認められない業界。焦らずに勉強し、24歳の時に宅地建物取引士(旧宅地建物取引主任者)を取得した。また、賃貸不動産経営管理士も取得し、会社の運営を学ぶ。平成27年10月2日に家業を継ぎ、35歳という若さで代表取締役社長として就任した。

 今回は今年10月に35歳の若さで有限会社サンポウの代表取締役社長として就任した古賀崇さんを訪ねた。
 趣味は年間を通して取り組んでいるサーフィン、秋祭りも重要な役割を任されている。本人曰く、性格は面倒くさがり屋であまり人の上に立つのは好きではないようだが、波の上と人の役には立つのは好きなようだ。頼まれると手を抜かずやってしまうのは長所でもあり短所でもあるという。
 仕事内容はお客様と建設業などの間に入って重要な説明義務や管理代行などをする事で、宅地建物取引士(略称・宅建士)と呼ばれる資格がないと信用を得る事は出来ないという。今では笑い話となるが東京の専門学校へ行くも残念ながら資格を取る事は出来ずに親には謝ったと言う。20歳で帰郷してからの4年は下積みを重ね勉強しながら会社で働いた。そして24歳の時、念願の国家資格・宅建士を取得した。
 古賀さんは10年前も社長となった現在も基本的な考え方は変わらない。しかし変わっていく現状には対応しながら会社の運営を考えていきたいと語った。
 地域の未来の事を考えると一人では出来ない事の方が多い。これからは経済的にも厳しくなっていく事がわかっているからこれまで、これからの人との出会いを大切にして、いろんな分野で協力しながら会社も十和田市も良くしていきたいと想いを語った。
 気さくでフレンドリーな一面の他にある熱い想いや代表としての責任の重圧。これからの時間の使い方を考えながら仕事もプライベートもきちんとやれる人になりたいと語る古賀さんのこれからの活躍に期待したい。

雨ニモマケズ風ニモマケズ
ヘルメットをかぶった現場で働く女子監督
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株式会社 みどり
工事部土木二課 植村 房恵さん

 今回スポットを当てたのは男性のイメージが強い土木建設業界で女性で現場監督となった(株)みどりの植村房恵さんだ。昭和61年7月26日生まれで八戸出身。小学生の頃から絵を書くのが好きだったが170cmの身長を活かし中学生の頃から今でも続けている柔道に青春を捧げる。それが美術の世界ではなく土木建設の業界へ進むきっかけとなったのかもしれない。
 八戸工業高校土木科を卒業し、八戸工業大学環境建設工学科に進学。測量や土木技能を学び卒業後は十和田市の建設会社に勤めるが諸事情により退社。休職中にフォークリフトや大型の免許を取得し、26歳の時にダンプの運転手として(株)みどりに入社する。しかし現場監督になりたかった想いを捨てきれずに仕事をしながら勉強し、難しいと言われる「一級土木施工管理技士」を若くして取得した。現在は現場監督として活躍し、道路や側溝などの外構工事を中心に施工し、必要な道具の準備や人員の管理、工程や現場写真を管理している。何もない景観から完成をイメージするのは難しいが自分が現場監督を任されたからには安全面はもちろん、作業途中も完成もきれいに仕上げたいと想いをもって仕事に取り組んでいると教えてくれた。そこには男性では気付かない女性の現場監督ならではの気配りや細かな目配りがあるんだと感じた。
 余談となるが植村さんは社内でラーメン部やカツカレー部に所属、趣味はスノボと柔道という体育会系女子だ。取材時間の1/3がラーメンの話しになる(笑)など性格もお笑いの道へ進めると思えるくらい面白い一面を見せる。これからも現場の第一線で働く女性として頑張って欲しいと感じた。

変わらない想いと新たな挑戦!
老舗の5代目に就任した仕事人
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プロフィール 昭和50年6月8日生まれ(40歳)
七戸町出身。野辺地工業高校(現野辺地西校)を卒業後、日本菓子専門学校に進学。卒業後はお菓子作りを学ぼうと福島の「太郎庵」で3年、仙台の「モリヤ」で2年、修行に励む。25歳の時に帰郷し、家業である(株)御菓子のみやきんに入社し、和菓子製造部で働く。5年ほど前に製造部から専務となり会社の運営などを学び、今年8月21日に代表取締役として就任した。

 今年8月に(株)御菓子のみやきんの5代目・代表取締役として就任した宮沢一史さんを訪ねた。七戸町出身で日本菓子専門学校を卒業後、味覚が近い東北の菓子舗で修行し、御菓子作りや運営などを学び25歳で帰郷。(株)御菓子のみやきんに入社し、和菓子製造部でお菓子作りを専門に励む。当時は季節商品や限定商品などがあまりなかったため開発にも携わり、通年販売商品のリニューアルや季節商品などを開発し売り上げを伸ばす。規模の拡大に伴い大量生産が必要となり、人の手だけではどうしても不揃いな商品も出来てしまうため出荷数と生産能力を上げるために機材設備を購入。しかし、機械では作れない手づくりのよさもあるため商品により使い分けていると教えてくれた。
 宮沢さんが帰郷してから15年で売り上げは当時の約3倍、店舗は4店舗から7店舗(3店舗が移転などで6店舗増)へ、今年12月においらせ町に8店舗目がオープンする。工場生産が追い付かなくなる事もたびたびあり、現在は新たに広い工場を探しているという嬉しい悩みを持つ。
 また、工場が拡大しても売り上げが伸びなければ意味がないので県外だけではなく国外にも実演販売などでシェアを広げようと挑戦。日本の和菓子の味覚(甘さ)が現地の人の口に合うかどうかの声を聞き、大きさや甘さを調整するという。40歳になってからNOVAに通うなど来年創業155周年となる御菓子のみやきんの5代目として会社を背負う宮沢さんは初代のお想いを忘れずにお客様に喜んでもらえる商品を変わらずに作り、新しい事にも挑戦していきたいと語った。

ご当地スイーツ選手権2連覇!!
  生涯修行中のお菓子の職人
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プロフィール 昭和41年11月27日生まれ(48歳)
三本木高校を卒業後、東京製菓学校洋菓子科に進学。卒業後は埼玉で2年、東京で3年間働きながらフランス語を勉強。25歳の時にフランスに修行のために留学し、パリ・南フランス・シャンパーニ地方などを周りながら職人としての腕を磨く。阪神大震災がきっかけで日本に戻る事を決意。帰郷後は地域のため、会社のために今もなお修行を積み重ねる。

 全国ご当地スイーツ選手権を二連覇中の(株)大竹菓子舗の職人であり、専務取締役の大竹正貴さんを訪ねた。御菓子屋の家に生まれた大竹さんは迷うことなく製菓の道に進み、都会や海外で腕を磨き帰郷する。驚くのは当時十和田市ではまだ普及が遅れているネット販売に着目し、いち早く始めた事。今よりもシステムが難しく受注も発送も手間がかかるだけではなく、経理や営業やお菓子作りまで何でもやらなくてはならなかったため寝る間も惜しんで仕事に明け暮れていた。今思うとフランスでの修行時代にひたすらお菓子作りの技術を磨き、味を追求していた頃が一番楽しかったかもしれないと思い出す。
 昔はいいものを作れば売れる時代だったが今では工夫しても簡単には結果が出ない難しい時代になってきた。青森県産にこだわった食材を使用したり、県内外のイベントにもテナントで出展し販売するなど時代に対応した様々な手法で会社だけではなく青森県を盛り上げようと頑張っている。
 その取り組みの一つとして十和田の米粉を使ったスイーツがある。小麦アレルギーのお客様が増えてきたため生まれた商品だが、米粉の特徴としてデンプンの老化が早く扱いは難しい。諦めずに素材を研究し、完成までは約10年近くかかったという。その米粉を使ったスイーツで全国二連覇するのだからさすがとしか言いようがない。
 また、輸入の値段が高くなってきた事もあるが青森県産の食材で姿・形の悪く出荷出来ないものを全て引き取ってジャムやペーストとして活用するなど青果農家にとっても必要な存在となっている。米粉から果物まで青森県の魅力を全国に伝える菓子舗としてこれからも活躍に注目していきたい。

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