杉本佳築子物語 夢かぎりなく

3、ジャスコ進出に前代未聞の商店街のストライキ(下)

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 ジャスコの進出は、近藤偉太郎会長がいっているように、「八二三店の小売業で二一三億円」の売上に対して、「大型店だけで二五〇億円」の予想売上である。「これは小売業に"おこぼれ"もない」ことになる。商店街の危機感もわかる。
 この前代未聞の商店街のストライキをテレビ、新聞は華々しく報道。全国的な話題となった。しかし、消費者を置き去りにしたこのストライキに、東奥日報が「小売店一斉スト 市民に『進出歓迎』の声も」と書いたように、拍手を送る人ばかりではなかった。
 華々しく報道されたその陰で、大型店を誘致する「十和田ショッピングプラザの出店を促進する市民の会」が結成され、署名運動が行われていたのである。
 以下、「県南新聞」5月20日号から紹介しよう。

こちら大型店歓迎派
岡本社長が署名集め
 この、大型店誘致建設を積極的に推進している団体は「十和田ショッピングプラザの出店を促進する市民の会」(岡本久三郎会長)。
 五月一九日の商店一斉ストと阻止総決起大会の行われた日、十和田市、市議会、商工会議所、十和田商調協にそれぞれ六町内会長、八十事業所の署名簿を添付した陳情書を提出し、大型店の開店が早期に実現するよう訴えた。
 本紙インタビューに対して岡本会長は、
 我々はジャスコだけに開店を促進させるものではなく、今商調協に申請中のすべての大型店の開店増床の促進を希望している。会の名称はむしろ大型店誘致建設促進期成同盟とすれば良かったと思っている。
 ......市民の利便性や商圏を広げ市の発展を願うならば、大型店の進出は大いに歓迎すべきだ。現在の十和田市は、青森市、八戸市とくらべまだまだ物価は高く品数も少ないことなどから、両市へ買いものにいく人たちが多いと聞いている。
 当市に大型店が来ることによって、他市へ流出する買い物客の足をとめ、周辺市町村の客足を十和田市に向けさせることが可能となる。......今までの当市の商店はまだ殿様商法的で、購買意欲をかきたてる努力が不足していたのではないか......

 などと語っている。
 岡本さんがいうように八戸、青森と比べると、十和田市に大型店は松木屋デパート、亀屋みなみチェーン、そしてショッピングセンターすぎもとがあったものの、魅力ある店は少なく都市間競争ではかなり劣っていた。
 それだけではない。当時、日曜日に八戸市の中心商店街に行き100㍍ぐらい歩くと、十和田市稲生町の商店主たち3、4人に必ず会った。商売人は土、日が一番の稼ぎどきなのに、この人たちは自分の店を閉めて八戸に買い物に来ているのだろうかと思ったほどである。
 それは別として、商調協も簡単に結論を出せなくなった。7月に行われた商調協では、新たに十鉄とジャスコが加わったことから、審議のための資料が不足してる。これでは審議ができないと審議がストップしてしまった。
 さらに8月に入り、市議会経済常任委員と商工会議所議員との、大型店進出についての懇談会が行われた。これには商工会議所会頭を始め関係者約60名、市議会経済常任委員5名他、オブザーバーとして当時の中村市長、田中県議会議員も参加した。
 その懇談会で口火を切ったのが大型店誘致推進派の岡本久三郎氏である。
 岡本さんは、
「駅前が開発されれば稲生町がさびれる(というが)むしろ、駅前に降りて買いものしようが見物しようが、その人の流れが稲生町に入ってくることだと思います。......土地にも建物にも金を突っ込んで、丸々全部従業員を雇うんです......稲生町の商人ばかりが商工会議所の会員じゃないんです。......福万さんもいる。立崎さんも建築をやっている。つまり、建物が建つことによって金が市に落ちる。左官も大工も、あらゆる職業に仕事が回ってくる......」
 これに対して反対派の筆頭は南商店街専務の木村祐直さんであった。
 木村さんは、
 「岡本さんは『駅前が開発されて稲生町がすたれるわけでない』とおっしゃっていますが、弘前市にこの実例があります」と、大型店出店の実例をあげて反論した。
 市議会も、反対決議しようという動きがあったが、賛成の議員もおり継続審議となっていた。
 これらに決定的な痛打を与えたのが通産省の「地域の実情からみて大型店が過剰になるおそれの強い出店に関しては指導の目安、審議指導を検討する」という大型店と地元小売店の共存共栄を打ち出した通達であった。
 岡本さんがいうように市街地に大型店をどんどん受け入れていたならその後どうなっていたのかは予測がつかないが、このときはまだジャスコは郊外店を考えていなかったようである。
3、ジャスコ進出に前代未聞の商店街のストライキ(中

 昭和56年(一九八一)5月19日午後3時、十和田市の中心商店街のシャッターが一斉に下された。そして同4時に商店主たちが商工会館の大ホールに結集。大型店進出阻止総決起大会が開かれた。
 以下、その状況を「県南新聞」から紹介しよう。

 大型店待ってくれ
 小売業〃必至〃
〃穂並町商店街は不参加〃
 大型店の進出に反対する十和田市小売商業活動協議会(近藤偉太郎会長)は、予定通り十九日午後三時から〃閉店スト〃に突入、同四時から商工会館で大型店進出阻止決起大会を開いて気勢をあげた。
 稲生町は見事な結束
 十九日午後三時の閉店スト突入を迎えると、国道4号線沿いの各商店は一斉にシャッターを下しはじめた。
 「商店街一斉閉店」というビラをシャッターに張りつけるや、ハチマキ姿で総決起大会の会場である商工会館へ向かった。
 本紙では、午後三時半、国道4号線沿いの商店がどれだけ閉店ストに参加したのか、調査に乗り出した。
 以下、開店していた店名は次の通り。
(として、ストに参加しなかった店名を挙げている)
 以上だが、中心商店街から離れた穂並町の小売店にスト不参加が多く見られた。
 穂並町には衣料品関係の小売店が少ないこと、また食料品にいたっては、松木屋、亀屋の両大型店、あるいはカケモスーパーの進出で挟み撃ちにされた感があり、小売店としてはすでに対抗手段も見い出せない状況下にあり、諦めがスト不参加につながったであろう。
 駅前に近い商店の中には大型店歓迎組もかなりいるのでは―との見方もあったが、ご覧のように数店が開店しているだけだった。
 稲生町一丁目から九丁目の信号間は一〇〇%近い閉店ストをみせたが、これは各商店が、ジャスコ、十鉄の進出を深刻に受けとめ一糸乱れまいとする結束のあらわれであろう。
 七戸町から多数の応援団
 ところで 会場の商工会館ホールは、市長選挙の演説並みの人、人の熱気に包まれた。
 大会は相坂屋の江渡龍博氏の司会ではじまり、南商店街の木村祐直氏がまずもって開会宣言、続いて議長に小原富三氏、副議長に益川昌彦氏、稲本精二氏を選出した。このあと応援に駆けつけた三沢市商工会をはじめ五戸町、十和田湖町、百石町、上北町、下田町、天間林村、七戸町の各商工会の人達が紹介された。
 特にお隣りの七戸町商工会からは大量十五人が決起大会に顔を見せ、気勢をあげた。十鉄、ジャスコの出店には、特に七戸町の商店街が「今でも十和田市にお客が流れているのに、十鉄、ジャスコが出来れば完全にお手上げだ」と語っており、両大型店の出店に対し、十和田市と同様警戒を強めている。
 人口十万人になるまで  待って欲しい 近藤会長
 このあと近藤偉太郎会長が演壇に立ち、次のようにあいさつをした。
 本日の一斉閉店で市民の皆さんに大変ご迷惑をかけました。おわび申し上げます。
 私は十五年前に、十和田市発展のためには小売業だけではダメだ。ある程度の大型店が必要だーと強調したものであります。その比率は十%、いや、人口増加にしたがって十八%位であれば我慢出来るだろう。両者が共存共栄出来まして十和田市発展につながるとみておりました。
 ところがどうでしょう。ジャスコは百万都市の仙台にある丸光デパートと同じ規模のものを建てたいと申請しております。また十鉄は、青森市のカネ長デパートと同じ規模のものを建てたいとであります。これで大体お判りのことと思います。亀屋の四倍~五倍のスケールです。
 売り上げでみますと、我々八二三店の小売業者で二一三億円です。しかし大型店だけで二五〇億円という予想売上でございます。これは小売業者に〃おこぼれ〃もないのです。
 ジャスコと関係している西山製材所の沼畑徳蔵さん、あるいは十鉄の幹部の方々とは何かにつけておつき合いをいただいております。
 しかし、ムチャクチャな出店されたんでは八二三店の小売店、そこに働く従業員と家族を含めると四千五百人に達する。この方々を路頭に迷わせることになる。それではいけない、そんな気持ちで立ち上がったのです。
 このままでは真の共存共栄は出来ません。今こそ行政機関の方々の慎重な対策と決断が必要ではないでしょうか。大型店だけが繁栄して、小売店がつぶされるようでは、十和田市の形態がおかしくなることはハッキリしています。
 今こそ我々の声なき声を大にして、消費者の理解を得たいのであります。
 最後に申し上げます。現在申請している大型店は十和田市が人口十万人になるまで待って欲しいーこう叫びたいのであります。
 最後に、人口十万人になるまで凍結してほしいーと叫ぶと、ハチマキ姿の約六百人の聴衆から割れるような拍手が送られた。
 育てた魚を投網でもっていかれる 松橋玲寿郎氏
 続いて意見発表に入り、トップバッターとして大型店対策委員長の松橋玲寿郎氏が壇上に立った。
 きょうは大型店進出阻止のため、店を閉めてまで参加していただき厚くお礼申し上げます。
 私は商売をはじめて二十七年になりますが、市内には三代~四代の先輩が沢山おります。陰ながら十和田市発展に貢献してきました。
 外部からくる大型店は、地元に何の貢献もせず、今日きて明日根こそぎ持ち去ろうとしているのです。
 我々が一生懸命育てた魚を、投網で一匹残さず持ち去ろうとしているのです。
 一部の人は、大型店がくれば人口が二、三万ふえると申しております。皆さん、昭和三十八年の人口が三万八千人と記憶しております。一万人増えるのに十六年もかかっているのです。しかも、この人口増の最大の原因は北里大学の誘致だと思います。
 今ここで大型店にきてもらいたくありません。今でも売り上げが減っているのです。これ以上売り上げが減ったらどうやって生きていくのですか。皆さん、今こそ我々が団結をし、断固反対していかなければなりません。

 このあと商店街を地盤にした伊藤文雄市議会議員が挨拶をし、決議文を採択し閉会した。
3、ジャスコ進出に前代未聞の商店街のストライキ(上)

 昭和56年(一九八一)2月、ジャスコが十和田市駅前の製材所跡に大型ショッピングセンターを建設することが表面化した。さらに十和田観光電鉄(以下十鉄)が、同じく駅前にショッピングセンターの建設計画を発表した。これに対して松木屋は、青森市の本店を上回る増床計画を発表。十和田市は大型ショッピングセンター出店の嵐が吹き荒れた。
 これにより申請され商調協にかけられた大型店の新設及び増床分の売場面積は、すぎもと7052㎡(推定年商50億円)及びユニバース1710㎡(推定年商16億円)で決定され、松木屋6686㎡(推定年商67億円)、亀屋3252㎡(推定年商51億円)、十鉄1万9158㎡(推定年商116億円)、ジャスコ2万1502㎡(推定年商130億円)の4店は審議継続となった。
 このようにすぎもとは、当初の申請より削られたものの地元商店ということもあり7052㎡で決定され、あとは建築を待つのみとなった。
 人口5万9000人(当時)、上十三地域の中核都市十和田市。ジャスコと十鉄は、その商圏を五戸及び三沢市を含めた上十三地域とみていたが、地元商店街はジャスコの推定年商130億円、十鉄の116億円を見てこれは死活問題だと恐れ戦いた。もしこれが認可された場合、現状の松木屋、亀屋及び、増床が決定されたすぎもと、ユニバースの4店の床面積の占有率は23・4㌫である。が、これに増床の松木屋、亀屋、新設の十鉄、ジャスコが加えると58㌫と六割近くなる。十鉄は地元であるが、特に全国展開するジャスコの進出には地元商店街は極端な拒否反応を示した。
 商店街は、連合商店街、中央商店街、六丁目アーケード商店街、南商店街などの国道沿い稲生町の中心商店街、それに太素振興会、十和田通り商店会が加わった他、商工会議所の大型店対策委員会、商業協同組合も加わり小委員会が開かれた。これには松木屋、亀屋、すぎもとも商店街に入っていたが、量販店であるとして除外された。この小委員会で、大型店の進出反対する「小売商業活動協議会」が結成された。
 ここで出された結論は「大型店出店凍結宣言」である。ジャスコなどへの大型店出店凍結宣言は全国の市町で行われており、昭和55年度まで27都道県62市町で行われていた。県内では青森、八戸、弘前の旧三市の商店街が凍結宣言を打ち出していた。小売商業活動協議会もそれに倣ったわけである。しかしこれには法的根拠があるわけではなく、出店してほしくないという意思表示に過ぎなかった。
 そこで小売商業活動協議会が打ち出したのは、加盟店による全店閉店の前代未聞の商店街のストライキである。
 商店街がストライキ?
 商店街に働く従業員が待遇改善を求めてストライキするのであればわかる。が、商店主たちがシャッターを下ろし、額にハチマキをしてストライキするのである。商売人が大型店出店反対というなら、大型店が来なくても私たちはお客様を大事にし、お客様の要望に応えるよう頑張りますと、大型店出店反対大サービスデーをやるのならわかる。それがシャッターを閉めてストライキをするのである。シャッターを閉めるということはお客様が来なくてもいいということでもある。まさに全国初めての、前代未聞の商店街のストライキである。
 何故そういう結論に至ったのか。ここで十和田市中心商店街の成り立ちの特殊性についてちょっと触れておかなければならない。
 十和田市は盛岡藩士新渡戸傳の、奥入瀬川から2本の穴堰を掘削して上水した三本木開拓と、その息子十次郎による都市計画によってつくられたまちである。
 その都市計画された三本木に最初に入って来たのは新渡戸傳について岩手からきた人たちである。次に入ってきたのは、明治3年(一八七〇)に、戊辰戦争で敗れた旧会津藩士たち100戸の入植者たちである。さらに明治18年(一八八五)に、後に日本一の軍馬補充部となる陸軍軍馬出張所が開設された。軍馬が大きくなるにしたがって軍馬に物資を納入する御用商人たちが移住してきた。こうして街区が形成されると、七戸や五戸、あるいは三戸の商家の次三男たちが分家して三本木に移住して店を開いた。このように稲生町の商店の多くは、他から移住してきたひとたちであった。
 平成6年(一九九四)に当時90歳であった旧家出身の三浦ゆわさんが、『なつかしの三本木』として、旧国道沿い稲生町を中心に、三本木農業高校(現三本木高校)から稲生川まで一軒一軒、どこの出身でどういう商売をやっていたかを書き残している。
 それによると、会津からの入植者はもともと武士階級であるのでまちの人たちは会津様と「様」づけで呼んでいた。いわゆる旦那様である。
 十和田市の中心商店街はいつのころからか殿様商売と呼ばれていた。それを特長づけるようなこんな逸話が残されている。
 ある金物店で農家のカッチャ(方言でかあちゃんあるいは婦人)が、品物を手に取って見ていると、店の主人が来て「それ、買うのか買わないのか。買わないんだったら手つけるな。錆びるから」といったという。
 十和田市はわずかな市街地に広い農村地帯を抱えている。つまり、十和田市商店街に買い物に来るお客の多くは百姓のトッチャ(方言で親父あるいは父親)、カッチャで、店の主人は街の旦那様である。そんなことから昭和30年代までは農家のカッチャたちは店に入るとき「買わせて下さい」と、お客なのに頭を下げて店に入り買い物をしている光景が見られた。そんなことから十和田市の商店街が殿様商売と呼ばれる所以である。
 が、すぎもとショッピングセンターの創業者杉本馬吉はもともとはそんな旦那様ではない。背に品物を背負い売り歩いた行商人であり、三本木に来て戸板一枚から始まった商人である。だからお客を大事にしお客に頭を下げた。そんなすぎもとだから農家のトッチャ、カッチャたちが皆すぎもとに買い物に行った。それが一代で三本木一の商売人となった理由であった。
 ところが、旦那様が中心となっている稲生町の中心商店街。そこで出された結論が前代未聞の、お客を蚊帳の外においたシャッターを閉めての商店街のストライキであった。 


2、巨大なビル建設で逆転へ

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通称三十番と呼ばれた十和田観光電鉄の中央のバス停と、後ろのビルはすぎもとショッピングセンター(「県南新聞」より)

 翌昭和55年(一九八〇)県南新聞5月30日号に次のような記事が載った。
 地元資本踏んばる!!サンプラザ六億円の増資、すぎもと十五億円の新店舗
 オープン四年目を迎えたサンプラザホテルは、このほど隣接地のみどり屋旅館、約百五十坪の買収に成功、早ければ年内にもホテルの充実に着手する。一方、松木屋・亀屋の大型店進出以来、鳴かず飛ばずだった「すぎもとショッピングセンター」が、電巧堂、四丁目のバス停も包含した市内最大の店舗建設を明らかにし、内外から注目を浴びている。
 80年代は攻めの経営 すぎもとショッピングセンター巨大なビル建設で逆転へ
 「すぎもとショッピングセンター㈱が六月四日、十和田商工会議所一階ホールで店舗新築説明会を開催する。
 六階建て、売場面積三千六百坪、総工費十五億円という市内最大の店舗を計画しており、亀屋、松木屋の既存の大型店と真っ向から勝負に出たものでその成りゆきが注目されている。
 店舗設置者は、四丁目中央停留場の地権者である七戸町盛田喜平冶氏、電巧堂の地権者芝宮輝子氏、そして、杉本商事株式会社(杉本きみ社長)の三者となっている。
 鉄筋コンクリート六階建て、総工費十五億円、年商目標三十九億円(直営のみ)、従業員百七十人。
 計画概要の一部を紹介したが、既存の松木屋、亀屋と比較すると、
◇松木屋
 売場面積 四五〇〇㎡
 従業員  一二〇人
 年商   二十億円前後
◇亀屋
 売場面積 五五〇〇㎡
 従業員  一三〇人
 年商   二十五億円
 今度のすぎもとショッピングセンターの売場面積は一万二千平方メートル(直営分)なので、現在の松木屋二・五倍のスペースに相当する。
 しかも市の一等地である四丁目交差点の中央停留場と電巧堂を抱合した一大ビルになるので、既存の大型店にとっての脅威であろう」
 亀屋、松木屋が進出するまでは十和田市で一番の小売店であったすぎもとショッピングセンター。大型店を目指すのであれば、やはり十和田市一を目指したいというのが当然である。それがわずか4ヵ月後の変更であったろう。
 この計画では、従来のすぎもとショッピングセンターの敷地の他、その北側の電巧堂及び、通称三十番と呼ばれていた十和田観光電鉄の中央のバス停も含まれている。中央のバス停の地権者盛田喜平冶は盛喜と呼ばれた杉本正一社長の生家である山松と同じく、七戸町のかつての豪商であった。そんなことから、借地については同じ七戸人ということもあり盛喜は快く引き受けたのであろうと思われる。
 電巧堂の建物は現在も残っており、今は十和田電鉄観光社が入っている。中央のバス停の跡地にはスーパーホテルが建っている。
 ともかくもすぎもとショッピングセンターはわずか4ヵ月で計画を大幅に変更した。もちろんその計画の中心になったのは正太郎専務である。しかし県南新聞に載った敷地利用図では、バスの停留場を1階にとってあるものの、すでに車が一家に一台という車社会に突入しているにもかかわらず車の駐車スペースが見当たらない。
 が、商調協の審議がなかなか進まない中で、正太郎専務の近いところで働いていた竹中美子さんに、専務が、
 「これからは車が一家に二台、三台の時代が来る。当然駐車場がなければならない。大型店は郊外に出来るだろう。そうすると街は空洞化する。街は年寄りが多くなる。バスの本数が少なくなる。街がドーナツ現象になる。大型店への反対は自分で自分の首を絞めることになる。これからは駐車場を広く取らなければならない」と話していたというから、当然駐車場のことも考えていたであろう。と同時にその後の中心商店街の推移をみると、正太郎専務はずいぶん先を見通していたことになる。
 商調協の審議が遅々として進まないのは、地元商店街の委員の強い反対があったからである。
 その翌昭和56年(一九八一)の1月30日号の県南新聞に次のような記事が載った。
 すぎもとショッピングセンター いよいよ売場面積の審議へ 大詰めの商調協  
 「十和田商業調整協議会では、昨年九月から『すぎもとショッピングセンター』計画書に検討を加えていたが、いいよ二月二日から売場面積の審議に入る。
 (中略)
 事務局では『二月は二、三回、三月中旬までには結審の予定』と語っている。
 商調協の審議待ちであるすぎもとショッピングセンターの杉本正一社長は、『三月に結審になれば、うちとしては設計期間と工事期間を考えると、早くて十一月末か十二月のオープンとみている。商調協の結論がどのように出るか全く予測がつかないので、今はじっと待つしかない。うちの場合はテナントには地元企業の方々に入ってもらう予定なので、大幅カットになればそちらの方に迷惑がかかるかもしれない。建物はお客様に便利になるように、せいぜい四階位にしたい』と以上のように語っている」
 すぎもとショッピングセンターは地元商店として果敢に大型店化に挑戦したものの、当時の状況下でその想いは商調協に大きく左右される結果となっていった。



 1、商調協に増床計画を出す

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 昭和47年(一九七二)に亀屋が、翌48年(一九七三)に松木屋がと、十和田市に大型店が相次いで出店した。当然のことながらそれまで独り勝ちであった杉本ショッピングセンターにも影響が出てきた。
 大型店に対抗するには、それを上回る大型店化するしかない。
 すぎもとショッピングセンターはファミリー企業であったから大型店化に関わったのは杉本正一社長、同正太郎専務の他数人の身内のみであった。佳築子は着物売り場に出ていたものの一般社員扱いで、全くの蚊帳の外であった。
 しかも当時の内実知っている人はほとんど他界している。幸いにも地元紙「県南新聞」にその経緯が詳しく報道されているので、この項はそれに基づき構成する。

 「県南新聞」昭和54年(一九七九)1月25日号に、
 =十月オープン目指す=すぎもと大型店へ
 総工費八億円を投ずる
 噂にはあったものの、おっ、すぎもとも亀屋や松木屋に対抗してやるんだなと、具体的計画を市民が知った最初である。それにはこう書かれている。
 「かねてから増床を計画していた株式会社すぎもと(杉本正一社長)が、このほど商業調整協議会(以下商調協)に増床計画を提出、亀屋、松木屋に次いで大型店の仲間入りをすることになった。
 すぎもとショッピングセンターは、四十一年十二月オープンしたもので、亀屋が進出を果たした四十七年まで市内最大のショッピングセンターとして地域住民に親しまれてきた。
 しかし、四十七年の亀屋、四十八年松木屋と続いた両大型店の進出で大きく後退を余儀なくされた。
 毎年のように飛躍的に売り上げが伸びてきたすぎもとにとって大きな痛手であったことはいうまでもない。伸び率がガクンと落ち込む一方、その主導権を両大型店に譲らざるを得なかったのだ。
 大型店攻勢を受けて五年すぎもとショッピングセンターもこの業界で生きるには〃核店舗〃で対抗せざるを得なかったのだろう。
 ショッピングセンターとして発足して十三年。現在の年商は約八億円という。伸び率は落ちたとはいえオープン当初に比較すれば五倍~六倍の伸びであり、その企業努力はまさに苦難の道ではなかったか...。
 すぎもとの現在の建て面積は六百六十四坪。増床面積は千七百八十.売り場面積は現在の四百坪から四倍強の千七百三十五坪。松木屋の約千四百坪を大きく上回る店舗になる」

 同号に杉本正太郎専務のコメントも載せられている。
 地元資本としてテナント は大歓迎する
  杉本正太郎専務
 「三年ほど前から増床の計画があったが、具体化したのは昨年です。
 住民の生活向上と多様な生活様式に合わせて売り場の拡張を迫られたのです。今や買い物は家族ぐるみになってきましたし、その業種構成も考えていかなければなりません。地元商店街の協調ということを重視しておりますので、テナントに二百三十五坪とっている。二十坪にしても十店舗は入れると思う。直営は食品くらいになるでしょう。
 商調協の結論を待って工事に着手することになるが、十月一日オープンにはぜひ間に合わせたい。と語る。
 地上五階、松木屋を上回る建物になるので、駐車場は現在の半分くらいになりそう。総工費はサンプラザ並みの約八億円となりそう」
 「サンプラザ」とは富士屋ホテルの全身である。ここで初めて十和田市商店街の若手経営者のホープとして杉本正太郎が注目されることになる。正太郎このとき働き盛りの38歳であった。
 すぎもとショッピングセンターの計画がこのまま進めば、地上五階の十和田市一のすぎもと大型店が昭和54年10月にオープンするはずであった。
 が、すぎもとの大型店があれこれの変遷を経て最終的には頓挫することになる。その最大の元凶が大店法とそれに基づく商調協、正式には十和田商業調整協議会と、そして地元の商工会議所であった。
 商業調整協議会、商調協とは何であろうか。
 経済の高度成長を経て日本は車社会に突入、同時に生活も著しく変化した。車が一家に一台の時代に入り、買い物もちょっと遠出をし車で行くようになって来た。それに伴いショッピングセンターやスーパーマーケットなど小売業が大型化し、それが地域の商店街に進出するようになってきた。これは消費者にとっては利便性が高いものの、地域商店街にとっては商売の死活問題つながる問題でもあった。
 そんな状況の中、昭和48年(一九七三)に「大規模小売店舗における小売業の活動調整に関する法律」、略称「大店法」が制定された。
 この法律は、必ずしも地域の小売業者を保護する法律ではなかったものの、大型店の出店には地元の商工会議所の意見を聴くと定められていた。その調整審議機関が商業調整協議会、商調協である。商調協は、地元商業関係者、消費者、中立の立場として学識経験者の三者で構成されていた。
 亀屋が十和田市に進出して7年、同じく松木屋が6年、どちらも商調協に増床計画を提出していた。が、商調協で出された結論は、ナンと50㌫カットであった。それは当然ながら増床に対して地元商店街の委員からの猛烈な反対があったためであった。
 正太郎はその結果を見て、
 「五十%カットだと計画はメチャメチャですよ。うちなんか十%~二十%のカットでも計画を見直さなければならないし、商調協の結論が出ないことにはウッカリ工事に着手出来ない...」(同号)と延べ不安をのぞかせていた。

 大型店つぎつぎ街に現れて すぎもとショッピングセンターゆらぐ

 さて、すぎもとショッピングセンターはどんな店であったろうか。地域の一つの店を見る場合、お客の目、従業員の目、あるいは商店街の目など、立場によってそれぞれ見方や考え方が違う。ここでは、経営者の一番近くにいた、かつてすぎもとショッピングセンターに勤めていた従業員から、もうそれぞれ70歳を過ぎているが話を聞いてみよう。
 昭和28年(一九五三)に館山経理事務所に勤め杉本本店の経理を担当。昭和40年(一九六五)にすぎもとショッピングセンターに入社したという本田義美さんは、
 「昭和30年(一九五五)に杉本本店を法人化しました。いつ頃からか分からないんですけれど、杉本本店には小松美雄さんという経営コンサルタントが入っていて、すぎもとショッピングセンターをつくるとき、建物の管理を杉本商事株式会社が、ショッピングセンターの経営は株式会社すぎもとがと二つの会社をつくったんですね。
 この時、中央の商事会社に勤めていた喬さん(正一の次男)、日立製作所に勤めていた熙さん(正一の三男)、そして北海道のストアに勤めていた杉本敬三さん(馬吉の長女イトの子ども)を呼び寄せたんです。
 私は昭和40年に入社して、総務部長をやらせていただき昭和45年(一九七〇)に退職しました。
 すぎもとショッピングセンターは、コンサルタントが来ると幹部社員にも話を聞かせましたし、社員を大事にし、社員を含め家族的な経営でした」と語る。
 六戸町で布団店を開業している田中義輝さんは、
 「私は昭和42年(一九六七)から55年(一九八〇)まで13年間勤めました。面接に行ったら明日からすぐ来いといわれまして、入ったとき従業員が50人くらいいたかと思います。社長はモラロジーをやっていましたから道徳教育のしっかりした人でした。奥様(きみさん)は十和田市の三本指に入った美人で、センスが良く呉服の見立ても良かったし、商売を抜きにしてお客様に似合うものでないと進める人ではなかったです。だから、呉服を買うならすぎもとという人が多かったです。すぎもとショッピングセンターは、お客に対しても従業員に対しても素晴らしい会社であったと思います。今の私の商売は、すぎもとショッピングセンターの精神を受け継いでやっています」と語る。
 また、斉藤美千代さんは、
 「私は昭和50年(一九七五)ころから4年ぐらいしかいませんでしたが、呉服部に配属されました。
 勤めたきっかけは、叔母がモラロジーをやっていて、私も若いころモラロジーの女性講座に半年くらい入ったことがあるんです。父が転勤族で十和田に帰ってきたとき、叔母から帰ってきたらすぎもとに挨拶に行って来なさいといわれていたんです。
 それで挨拶に行ったら、佐々木さん(旧姓)良かったらうちに勤めてみないといわれてお世話になることになったんです。
 常務(社長の奥さんきみさん)は見立てがよくて、それもセンスがいいんですね。
 毎月棚卸をやるんですがそのとき常務は自宅(社長宅)で夕食をつくってくれて、夕ご飯だよって自宅に呼んでくれるんですね。料理がとってもうまくて、それが楽しみの一つでした。
 また新年会や忘年会などのとき、圧倒的に女性社員が多くて、それも大半が独身でしたから、みんなにタッパを持って来いというんですね。そして宴会が終わると残った料理をタッパに詰めさせるんです。
 常務は、この料理は、料理人が一生懸命につくってくれたものです。それを残されると気持ちのいいものではない。つくった人に感謝されこそ恥ずかしいことではないといって残った料理を全部詰めさせ、食べ物を大事にさせました。
 専務(正太郎)は、店全体を見るわけですけれども、細かいところまで心遣いをしてくれました。
 佳築子さんを私たちは奥さんと呼んでいました。常務も専務も人間ができた方でしたから、私も結婚してできた姑に仕えて逆に苦労したんじゃないかと思いました」と語る。
 パートではあったが正太郎専務の近いところで働いていた竹中美子さんは、
 「私は昭和47年(一九七二)から58年(一九八三)まで11年間勤めました。小さな子供がいたのでパートで勤めさせていただいたんですが、パートの時給が高かったんです。パートは私の他に10人くらいいました。仕事で遅くなって保育園の迎えが間に合わなくなる時は誰かが保育園に迎えに行ってくれるんですね。正月はお雑煮をつくってくれるなど、店が大きくなっても大変家族的雰囲気のある店でしたね。
 わたくしの仕事は、商品管理から、寝具売り場、ゲームコーナー、電話交換など何でもやりました。
 店での販売の他、割烹こけしやクラブ湖畔、サロン大阪、浅虫の椿館、古牧温泉などで、呉服や羽毛布団、宝石などの企画販売をやるんですね。呉服はすぎもとから買ったという人が多かったですね。品物も良かったしね。
 売り出しのときは、全部売りつくすまでといって夜の12時頃まで店を開けていたこともありました。
 経営コンサルタントが来ると従業員たちにも話を聞かせ、勉強させてくれました。忘年会や新年会は古牧温泉でやってね。社長は『支那の夜』(笑い)の踊りが得意でした。
 その勢いが昭和52年、53年頃からだんだんに下火になってきました」と語る。
 昭和47年(一九七二)に亀屋みなみチェーン十和田店が、翌48年(一九七三)に松木屋十和田店が開業と大型店が十和田市に進出した。当然その影響を大きく受けた。
 以上4人の元従業員から話を聞いてみると、すぎもとショッピングセンターは、同族による家族的な雰囲気のある経営、そしてモラロジーの考え方を根底にした経営であったようである。
 モラロジーとは、「情熱の人杉本正太郎と出会う」の項でも書いたが、明治から大正にかけて活躍した廣池千九郎が提唱したモラル(道徳)とロジー(学問)を組み合わせた造語で、総合人間学である。
 しかし時代は、車社会に入り、売り場の大型化や郊外型などアメリカ的な合理的経営が日本に入り、同族による家族的な経営が壊され始めていた。
 また佳築子は、ショッピングセンター時代は呉服部に行って仕事をしていたが、子育て中ということもあり役員ではなく一般社員扱いで、会社の経営には一切携わっていなかった。

 家族的経営が店を盛り立てし時代は やがて移らんとする 佳築子

 すぎもとショッピングセンターは、佳築子が十和田に嫁に来る3ヶ月前の昭和41年(一九六六)12月にオープンした。十和田市では初めての3階建てのショッピングセンターである。
 1階は衣料品や紳士服、婦人服、下着類、子供服、手芸品、化粧品、バッグ、お菓子、生鮮食品など。2階は呉服や寝具、3階はおもちゃやゲーム機などが置かれていた。
 ショッピングセンターを、日本ショッピングセンター協会では次のように規定している。①小売業の店舗面積が1500平方㍍以上であること。②キーテナントを除くテナントが10店舗以上含まれていること。③テナン会等があり、広告宣伝、共同催事等の共同活動を行っていることなどとされている。
 簡単にいうとショッピングセンターとは、一つの核店舗の中に様々なジャンルの小売店がテナントして入っている店というであろう。すぎもとショッピングセンターにもスーパー中光やお菓子のラグノオ、ふとんの西川、化粧品の資生堂など幾つかのテナントが入っていた。お客にとっては、日用雑貨から衣服、食料品まで一つのショッピングセンターで買えるという便利さがある。
 もっとも、日本ショッピングセンター協会は昭和48年(一九七三)に設立されているから、すぎもとショッピングセンターはそれより7年前にオープンしている先駆者であった。
 ちなみに、平成7年(一九九五)に下田ジャスコショッピングセンターがオープンしたとき、そこに入っていたテナントが約100店であった。100店というと当時の十和田市中心街の店舗数とほぼ同じであった。
 ショッピングセンターはもともとはアメリカで発展し、それが日本に入ってきたのは東京オリンピックが開催された昭和39年(一九六四)で、大阪府豊中市のダイエー庄内店が最初である。
 ショッピングセンターが新しい小売販売の方法としてそれ以後急速に全国に広がっていったが、すぎもとショッピングセンターはダイエー庄内店からわずか3年後にオープンさせている。当時、人口5万に満たない、あまり特徴のない十和田市でのショッピングセンターのオープンは県内からも注目を集めた。
 勿論、このときのすぎもとショッピングセンターは厳密には日本ショッピングセンターが規定するようなショッピングセンターではない。が、目新しさで注目され、近隣市町村からもお客がたくさん訪れた。
 以後昭和47年(一九七二)の亀屋みなみ十和田店のオープン、昭和48年(一九七三)の松木屋十和田店のオープンまでは、十和田市ではすぎもとショッピングセンターの天下であった。
 明治32年(一八九九)に戸板1枚から始まった小間物屋が、ついには十和田市一のショッピングセンターになったのである。
 何故、そういう時代を先取りした商売ができたのであろうか。佳築子は箱入り嫁でほとんど経営に携わっていなかったし、関係した人たちがすべて故人となった現在、推測の域を出ないが多分こういうことではなかったろうかと思われる。
 一つは社長の杉本正一である。正一は姉のいる三沢市のちうら百貨店に出入りしていたことがある。三沢市には、青森県でのモラロジー先駆者㈱高橋の高橋石蔵がいた。石蔵はモラロジーの研修所を自費で建てるほどモラロジーに熱心で、その普及に努めていた。このとき正一もモラロジーに入った。
 モラロジーを支えているのが大手及び、中小の会社経営者である。そして様々な全国的な集いや研修会がある。佳築子が正太郎と出会い、十和田市に嫁に来るきっかけとなったのもモラロジーの研修会であった。
 モラロジーには、全国的な集いや研修会があり、それが経営者の情報交換の場、あるいは名刺交換の場ともなっている。ここで正一は、ショッピングセンターの情報を知ると共に、名刺交換した一人に経営コンサルタントのタナベ経営の関係者がいた。正一は、ショッピングセンターを立ち上げるにあたってタナベ経営のコンサルタントの指導を仰いでいた。
 もう一つは佳築子の夫正太郎である。佳築子が正太郎と出会い、十和田市に嫁に来るきっかけとなったのもモラロジーであった。父正一がモラロジーに入っていたことから、正太郎は三本木中学を卒業すると、千葉県柏市にあるモラロジーに基づく教育を行っている麗澤高校に入り、大学を卒業すると大阪で経営の修業をしていた。まさに大阪はショッピングセンター発祥の地である。
 そして正一の妻きみ。きみは呉服の仕入れは東京の卸問屋に行き、一枚一枚自分の目で確かめ仕入れていた。また、ネクタイを月100本売る女性ということで、卸問屋関係では有名であった。きみもまた卸問屋を通して中央の経済界とのつながりがあり、最新の情報を仕入れていた。
 このように杉本家は3人とも、中央の経済界とのつながりがあり、それぞれに情報を仕入れていたのである。
 杉本本店の時代は十和田市では従業員が多い方ではあったが個人商店であった。タナベ経営のコンサルタントの指導のもと、ショッピングセンターにするためにまず店を個人経営から法人化した。建物の管理は杉本商事株式会社が、ショッピングセンターの経営は北海道のホリタストアの幹部社員であったきみの従兄弟の杉本敬三を専務に迎え、株式会社すぎもとと二つの会社を設立させた。
 日本は、昭和35年(一九六〇)安保反対運動で倒れた岸内閣に代わり、池田勇人が所得倍増論を引っさげて登場した。これをきっかけに政治的には日本の経済の高度成長が始まり、昭和35年当時勤労者の平均給与が2万4375円だったものが、7年後の昭和42年(一九六七)には4万8714円と倍増しており、その影響は地方にまで及んでいた。
 昭和41年12月、師走のオープンである。従業員も杉本本店時代の10数人からショッピングセンターでは50人を超えていた。
 ショッピングセンターの一軒置いた隣に十和田観光電鉄の、通称三十番と呼ばれていた中央のバス停があった。十鉄のバスが、農村部や近隣市町村からお客を運んで来てくれる。
 さらに師走である。ただでさえ街に人が溢れる時期である。それがショッピングセンターのオープンと重なり、店はお客で溢れ従業員は目の回るほど忙しく、休む間もなかった。
 その忙しさは佳築子が嫁に来てからも続き、特に週末はどこからこんなに人が来るのだろうと佳築子は思ったほどである。まさにすぎもとショッピングセンターの天下であった。

 十和田市に初めて誕生ショッピングセンターすぎもとは客のあふれし 佳築子

 さて、昭和42年(一九六七)2月下旬杉本正太郎と結婚した佳築子。披露宴は二日間に渡って行われた。そして新婚旅行は、気候温暖な知多半島で育った佳築子から見ると極寒ともいえる北海道であった。
 北国に生まれ育った者ならば、この寒い時期に北海道?雪しかない北海道に何を好きこのんで行くのと思うであろう。毎年200万人もの観光客が訪れるさっぽろ雪まつりが全国的に有名になったのは、札幌オリンピックのあった昭和47年(一九七二)辺りからである。しかもさっぽろ雪まつりは2月上旬に行われるから新婚旅行のときはすでに雪まつりは終わっていた。
 それではなぜ新婚旅行地として北海道を選んだのか。それは南で育った佳築子に雪景色をみせてやりたいという夫正太郎の思いやりであった。それにはこんなことがあった。
 佳築子が正太郎と式を挙げる前年の12月に、結婚する前にもう一度十和田を見ておきたいと一週間ほど十和田に遊びにきた。そのとき正太郎の妹眞子ら同年代の女性だけ4人で、当時焼山にあった焼山ファミリーランドに連れて行ってもらい一泊した。ファミリーランドは猿倉温泉より源泉を引いて開発した十和田湖温泉郷の中核施設で大浴場他、休憩施設や大宴会場、ボーリング場などがあり、1日楽しく遊べる娯楽施設であった。
 4人はタクシーで焼山に行き予約していた部屋に案内された。八畳ほどの部屋の真ん中には炬燵が置かれていた。炬燵、これは佳築子が生まれた伊勢地方にはなかった。佳築子には炬燵があるだけで北国に来たんだと嬉しくなった。4人は荷物を置くとまずは温泉である。4人は大浴場でゆったりと温泉につかり部屋に帰ると炬燵の上には料理やビールが出されていた。佳築子たちは炬燵に入りビールを飲み美味しい料理をついばんだ。炬燵に入り酒を飲む。これは北国でしかできない醍醐味である。佳築子は北国の冬をすっかり気に入ってしまった。
 ファミリーランドは昭和50年(一九七五)8月の大雨で、ちょうどファミリーランドの上にあった焼山スキー場が崩落。大浴場などが土砂に埋まりそのまま廃館となった。
 十和田はまだ根雪にはなっていなかったが、ファミリーランドの部屋から見る庭は一面真っ白であった。4人は外に出て雪だるまをつくったりと雪で遊んだ。楽しかった。佳築子には北国で暮らすことの不安が薄れていった。
 正太郎はそのことを妹たちから聞いていた。だから新婚旅行は北海道にしようと決めたようである。
 ところが、厳冬の北海道は十和田に比べたら寒さも半端ではない。冬になれていない佳築子。着るものにしたって冬物はあまり持っていない。しかも猛吹雪であった。佳築子はストッキングを何枚か重ねてはいたがあまり効果がなかった。佳築子にとっての新婚旅行は、寒いだけの記憶しか残らない散々な新婚旅行であった。が、好きなひととの新婚旅行として今も記憶に鮮やかに残っている。
 新婚旅行から帰ると今度は親戚への挨拶廻りである。杉本家の初代馬吉は八戸市出身であったことから、親戚は八戸市が多い。それも馬吉の実家が商売をやっていたということあり、大きな古い家が多い。暖房は囲炉裏だけである。その寒いこと。震えながらの挨拶廻りであった。
 また、佳築子はそばが好きであった。そのことが行き先々に伝えられていた。佳築子を歓待しようと行った先々でどこでもそばを出してくれた。ところが出されたそのそばはいわゆる田舎そばで、そば粉100㌫で麺が太く切れやすい十割そばであった。そばといったら江戸前の二八そばや三七そばだと思っていた佳築子には、そば粉だけの十割そばには困ってしまった。
 また、当時の家はトイレが外ないし濡れ縁の一番端にあるから寒い。それも困ったことの一つであった。
 もう一つ困ったのは言葉である。夫正太郎や親戚の人たちは時には笑い何やら楽しそうに話をしている。しかし佳築子にはどこか外国の言葉を聞いているようで、何を話しているのかほとんどわからない。退屈になりつい居眠りしてしまったこともあった。
 十和田へ嫁に来て早々にそんなこともあったが義母のきみは、娘の眞子が焼きもちをやくほど佳築子を大事にしてくれた。
 が、大事にし過ぎてということであろうか、店には住み込みのお手伝いも数人いたし、自分のこと以外にやることは何もない。外にも出してもらえなかった。箱入り娘ならぬまるで箱入り嫁であった。
 正太郎も一緒にどこかに連れて行くということもなかった。この十和田市は、江戸の末期南部藩士であった新渡戸傳によって十和田湖から流れ出る奥入瀬川から2本の穴堰を掘削し高低差30㍍も高台にある三本木平に上水してできたまちである。その新渡戸傳を祀っている太素塚。毎年5月上旬には三本木平への上水を記念して太素祭が行われている。
 当時の太素祭は、国道4号線から太素塚までの産馬通りの両側には夜店が並び近隣のまちからも人が訪れる賑やかさであった。
 結婚したその年の春、正太郎が太素祭に行こうといった。佳築子は嬉しくなり「ハイ」といって正太郎と一緒に店を出た。が、外に出ると正太郎は「俺より3㍍後ろを歩いて来い」といった。
 佳築子は、正太郎さんってそれほど照れ屋だったんですという。
 産馬通りを歩いていると、今は三本木一話題のショッピングセンターの若旦那である正太郎に、顔見知りの街のひとたちが声をかけてくる。二人で歩いていると新婚さんである。当然ひやかすひともいるであるろう。照れ屋である正太郎はそれが嫌だったのかも知れない。
 杉本家では、社長が出張などで家を空けると義母の友だちであるお花の先生や親戚の女性たちが集まって麻雀や花札を行っていた。佳築子も義母から、麻雀と花札だけは覚えておけといわれ一緒にやらされた。
 佳築子とて麻雀は初めてであったが、子どもの遊びとしての花札や将棋などは子どものころからやっていたから嫌いではなかった。
 夫正太郎は麻雀に夢中になっている佳築子たちに夜食をつくってくれたりした。長男を身ごもって大きなお腹を抱え臨月に近いときでも、人が足りないと声がかかってきた。
 佳築子が麻雀をやってわかったことは、麻雀の勝負どころにそのひとの性格が如実に表れるということである。佳築子はこの麻雀でその後商売をするうえでの人を見る目を養ったのかも知れない。
 こうして、結婚して2年目の昭和44年(一九六九)に長男の大郎が、47年(一九七二)に次男慈郎が生まれた。

 北海道への新婚旅行は
 猛吹雪今も記憶に鮮やかたつ

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 戦争が終わった。日本国民は重苦しく長い戦争から解放された。昭和16年(一九四一)の三本木大火から復興した三本木町にも大きな変化があった。
まず、日本最大の軍馬補充部三本木支部の解体である。これによって三本木町の国道102号線西側の広大な土地が解放された。その解放された土地に復員兵や外地からの帰還者らが入植した。市内では、現在の吾郷や七郷、八郷、一本木沢などがそうである。
 昭和24年(一九四九)三本木町は、解放された旧軍馬補充部地を含めた都市計画を、北海道大学造園学の第一人者であった前川徳次郎博士に依頼した。前川博士はかつて軍馬補充部の本部への道に街路樹を補強するなどをして、これに国の出先機関などをを誘致する官庁街通りを中心とした設計図を作った。
 それに基づき三本木町は、上十三地方の中心都市とするべく、官公庁の誘致を行った。
 それまで多くは七戸町にあった国の出先機関である税務署や裁判所・検察庁、警察署、労働基準監督署、食料事務所、職業安定所、郵便局、専売公社などの官公庁他、東北電力などを誘致。こうして現在の官庁街通りが形成された。
 また、現在につながるもう一つ大きなのが、ジフテリア・破傷風の抗血清をつくるための北里研究所の誘致である。これがその後北里大学獣医学部の誘致へとつながった。
 経済も、戦後復興で需要の増した製材業を中心に発展し、昭和23年(一九四八)に三本木商工会議所が設立された。そして昭和30年(一九五五)に、三本木町、大深内村、藤坂村が合併し三本木市が誕生。少し遅れて四和村が合併。翌31年(一九五六)に十和田市と改称。人口3万6676人の県南内陸部の中核都市へと発展した。
 経済の発展とともに人々の生活に余裕ができ、戦時中に押さえられて贅沢や我慢から解放され女性が着物を着るようになった。また、娘の結婚には箪笥や長持を持たせ、箪笥には黒留袖や喪服、小紋など着物一式が、長持には布団などが入れられていた。それに伴い呉服の需要が増した。
 杉本本店はもともとは雑貨から出発していたが、戦後は呉服部や紳士服部を設けた。そこで活躍したのが三代目正一の妻であるきみである。
 きみは二代目杉本新三郎の長女として大正9年(一九二〇)生まれ、三本木高女(現三本木高校の前身)を卒業していた。高女の同級生には三本木開拓の祖である新渡戸家の娘である新渡戸稲子や後に十和田湖町久保左仲太長夫人となる布施いと、七戸町田清社長夫人となる小笠原敏子、彫刻家杉本幸一郎夫人となる桜田和子他、商店や会社経営者の子女などがいた。きみはその中でもきれいで明るく目立った存在であった。
 きみは正一と結婚したのが昭和14年(一九三九)きみ19歳のときである。
 戦争が終わった昭和20年(一九四五)にはきみは25歳になっていた。きみは後に佳築子が嫁に来ることになる長男正太郎、二男喬、長女眞子、三男熙と4人の子供をもうけた。熙は昭和21年(一九四六)に生まれている。子育てが一段落し着物の需要が出てくると今度はきみの出番であった。
 杉本本店は従業員6、7人使い、その多くは女性でその半分は住み込みで働いていた。その女性従業員を使うのは女性であるきみでなければならなかった。
 きみは美しく華やかで社交性があり、着物が似合う女性になっていた。また高女の同級生や後輩など女友だちも多かった。そんな女友だちから、ぜひいい着物紹介してといわれることが度々であった。
 また、結婚式があると娘に持たせる黒留袖や喪服、小紋などが一式で売れる。それだけでない。自分の着物や旦那の洋服なども買う。そんなことで結婚式があると、数十万単位で売れた。
 最初は地方の卸問屋から仕入れていたが可なり大量に売れることから、きみは東京の卸問屋に出かけ直接仕入れてきた。さらに京都まで出かけて仕入れることもあった。その着物を見立てるセンスの良さが評判を呼び、杉本本店での呉服の占める割合が次第に高くなってきた。
 呉服の特売には、ある一定以上買ってくれたお客を京都旅行に招待した。
 呉服だけではない。紳士服も扱いネクタイを1日3~4本、月100本売るきみは東京の卸問屋でも有名になったほどである。
 きみは商売欲に燃え、夜9時ころまで店を開けていた。「あそこは夜遅くまで開けているから仕事が終わってからでも行ける」と、それもまた評判を呼んだ。
 またきみは料理もうまかった。訪れたお客にはここでしか食べられない地元の郷土料理を食べさせ、その料理を食べたくて来るお客も来るほどであった。
 こうなるともう店に正一が居てもいなくてもほとんど関係がなかった。昭和30年代の杉本本店はきみ一人で支えていたといっても過言ではないというほど繁盛していた。
 佳築子は、杉本に嫁に入ってそのきみに呉服の扱いを教わったのである。それが現在の呉服の成巴へとつながるのである。

 美しく社交的なる若き日の姑の腕に成る店の隆盛

 嫁入りの着物式に大繁盛の戦後の店のきみの活躍
        

 この大災害を聞かれた天皇・皇后両陛下には、深く御同情なされ、御救恤金を下賜されたが、たまたま来県中の閑院宮載仁親王殿下もまた御救恤金を下さった。町役場では、同月二十日及び六月一日に二回にわけて、これを罹災者へ伝達分配した。
 (*救恤=困っている人々を救い、めぐむこと)
 地元及び県内・県外各方面から寄贈された義捐金品並びに見舞客は夥しい数に上ったが、義捐金総額は同年十二月末現在、九万二千二百二十円九十八銭の多きに達し、義捐物品は見積総額一万五千七百八十八円相当であった。該年度当初予算は十二万二千六百三十八円であったから、ほぼそれに近い額の義捐金を受けたことになる。

 昭和4年と二度に亘る三本木大火。街の中心部にあった杉本本店は再びすべてを失った。
 しかも世の中は、抜き差しならない泥沼に足を突っ込んだかのように中国戦線が拡大。それを回避するどころか昭和15年(一九四〇)「日独伊三国同盟」を締結。日本はさらに深みへと戦争への道を真っ直ぐらに突き進んでいた。
 国内的にはそのために国家財政に大きな負担がかかり、政府と軍部は「贅沢は敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」と、米や食料品の配給制度が行われるなど国民に大きな犠牲を強いていた戦争前夜である。
 三代目となった正一は杉本家に来てまだ1年半、妻は20歳を過ぎていたが相談するにはまだ若すぎる。妻の母親はほとんど店に顔を出していなかった。義父は80歳近くになり奥に引っ込んだままである。頼りになるのは番頭格の三蔵であった。
 馬吉は、長女イトの娘イツ、つまり馬吉の孫娘と三蔵を一緒にさせ、イツには別に店を持たせ三蔵には店を手伝わせていた。
 しかし、三蔵は親族になったとはいえ、店の将来までは相談できない。そんな状況の中で杉本本店をどう立て直すか。入婿早々の正一一人の肩に大きな負担となってのしかかってきた。
 正一が杉本本店をどのようにして再建したのであろうか。今となっては杉本家でも当時の状況を知る者は一人もいない。これは著者の想像でしかないが、次のようなことが考えられる。 まず、初代の馬吉が財を築き預貯金もあった。また、馬吉の一族が八戸で商売をしていた。
 そして、正一にとって一番頼りになるのが、実家である七戸の山松である。かつての勢いはないにしても七戸の有力な商人である。また、正一の姉が古間木駅(現三沢市駅)前のちうら百貨店に嫁に行っていた。これも古間木駅前では一番の大店であった。
 また、正一を杉本本店に紹介し仲人となったのが、これも七戸の有力商人であった石源である。このように正一の廻りには有力商人たちが何人かいた。それらの人たちが援助したことも考えられる。
 こうして正一は瞬く間に杉本本店を復活。再び、いや昭和4年の三本木大火があるから三度三本木一の大店となった。
 店が再建されると馬吉が、自分の片腕として八戸から連れてきた三蔵を、杉本支店として八丁目にかまど(分家)に出した。これが後に三蔵商店となる。
 この年の12月8日、日本は真珠湾に奇襲攻撃をかけ太平洋戦争に突入した。
 店は再建したものの、統制経済が厳しくなり、売る物が何もない。
 昭和17年(一九四二)3月、初代の馬吉が亡くなった。享年78歳であった。
 戦争が激しさを増すにつれ、商店街は閑散とし、商売は店を開けているだけであった。店はかつての華やかさは消え、店には正一夫妻と、足のちょっと不自由な菊松という若者がいるだけであった。
 食料難の時代である。二代目の妻サミが、女中を使い太素塚裏の畑で野菜をつくり、店の奥では初代の妻とめや孫の面倒をみながら、店の2階に三本木高等女学校の学生を下宿させるなど、ここだけは休む暇がないほど忙しく動いていた。

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 本店の再建ひとり肩に負い 大火ののちを義父働きしか      佳築子



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