杉本佳築子物語 夢かぎりなく

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 昭和16年(1941)5月12日午前11時20分、子どもの火遊びから発生し市街の80㌫を焼失した三本木大火

 孤軍奮闘。まさに正一にはこの言葉がふさわしかった。
 正一は学校を卒業してから実家の山松で働いていたが、一つの店を任されるのは初めてである。しかも三本木一の大店である。正一は必死になって経営に専念し、何とか店主としても経営にも慣れ、入婿して1年と半年経った昭和16年(一九四一)5月12日、再び大火が三本木町を舐めつくした。
 今度の大火も火元は風呂家であった。その大火の様子が『十和田市史』に生々しく記載されている。

 昭和十六年五月十二日午前十一時二十分、六才の幼児の火遊びが原因で、大字三本木字稲生町百四十九番地黄金湯裏の物置場から発火、火は忽ちに市内中心部に燃え広がり、昭和四年の二倍を超える大火となった。
 五月六日以降雨がなく、その日は特に乾燥が甚だしかった上に、風速九メートルないし十三メートルの強風が、西あるいは北西から吹きつけたため、柾葺の可燃性家屋が並んだ市街は、忽ちにして飛火火災が発生し、大事に至ったものであった。
 三本木警察署の記録によれば、秋元清策署長は、発火を知るや直ちに稲生町所在の三本木町警防団常備消防部に出勤を命じた。非常サイレンを鳴らして急遽管下各警防団に出勤を命じた。また五戸・七戸など各警察署長に応援を求め、同時に県警察部長に非常事態発生を報告した。
 常備消防部の磯上義雄らは、新鋭ハドソン等の自動車ポンプ三台をもって直ちに出動し、各分団も次々と出勤して消火活動を開始した。時の三本木町警防団は時局の要請にもとづき、昭和十四年四月一日に改編したもので、団長稲本重五郎、副団長益川彦治(三代目益川東太郎)、第一分団長(市街地)菅原光珀、第二分団長(切田)豊川精、第三分団長(赤沼・中矢)東武雄となっていた。
 幹部団員も、自宅の類焼を顧みず、必死の消火活動に当たったが、乾燥と強風のため火勢猛烈を極め、更に飛火により数ヵ所に独立火災を起こして、燃焼区域は拡大する一方であった。この時第一分団の自動車ポンプ一台は、故障のため移動できず終いに焼失した。
 まもなく七戸・五戸両警防団の自動車ポンプが到着して消火に加わり、引き続き藤坂・四和・大深内・六戸・十和田、及び下田・百石・三沢・更に八戸・野辺地各警防団も続々来援して、午後二時三十分ようやく鎮火した。
 焼失区域は六丁目より一丁目までの繁華街・西会所・北会所・東会所・本会所の各町、産馬通り・八戸街道・下田通り・七丁目の一部と並木町の北部にわたる約十万坪の拡大な地域であった。これらの地域は町長大坂七郎が同月十六日のラジオ放送で、「町の力の八割を占める」と窮状を訴えたように、重要な市街中心部であった。
 「昭和十六年度三本木町事務報告」によれば、その被害は焼失戸数七百一戸、罹災人員三千八百八十三名、焼失棟数住家四百十七棟(一万六千二百四十三坪)、同非住家九十四棟(三千八百五坪)損害額推定約六百万円(消防記録では四百九十八余円)、死者一名(弄火の幼児)、負傷者五十二名であった。
 (*弄火=火遊び)

 三本木町の昭和4年に次ぐ大火災である。このときの大火災は大坂町長がいっているように市街地の80㌫が類焼した。この日も乾燥した畑の土が風で吹き上げられ、それが空が見えなくなるほどの砂塵となって町を覆う、三本木名物の八甲田下しの西風が強く吹きつけ被害を拡大させた。この大火災の原因は、風呂屋の子どもの火遊びであった。
 太素塚裏の畑で仕事をしていた二代目の妻サミが、煙を見てびっくりして走って帰ったが、もう手のつけられない状況であった。
 この昭和16年の三本木大火を目げきしたひとがいる。まだ小学校4年生であったが、後に『シャモ馬鹿』でオール讀物新人賞を受賞した森一彦さん(84)である。
 森さんは、
 この日は、焼けたトタンが風で飛ばされ空を飛ぶほどの強い西風が吹いていた日で、お昼近かったと思いますが子どもたちは皆校庭に集められました。当時の三本木小学校は今の「さかもと理容室」の辺りにあって、小学校を挟んでその南側、今の「馬肉料理吉兆」のある辺りに町役場があって、反対の北側今の文化センターのあるところに三本木高等女学校(三本木高校の前身)がありました。
 校庭は学校の西裏で、校庭に出たら四丁目付近から、多分油のドラム缶か何かが爆発したと思うんでがダーンと大きな音がして火柱と煙が空高く上がりました。
 先生は、弟がいるひとは弟さんを連れて帰りなさいといって、僕も弟を連れて帰りました。この日は風が強いから火の廻りが早くもう一丁目の方まで火が来ていて、西風だったもんで幸いに国道の西側はあまり焼けなかったんですが、それでも顔が焼けるように熱かったのを覚えています。
 暗くなって、屋根に上がって北の方を見ると、家が焼けて無いからガラッと遠くまで見えて、たき火のあとの残り火のように、風に煽られてあっちこっちでポッ、ポッと火が燃えていました。
 5月10日は戦没者の慰霊祭で、慰霊碑が現在の三本木霊園のところにあって、出店が出て祭りのように賑わいました。火事になったのはその翌々日で、慰霊碑の東の稲吉の森まで飛火して燃えたんです。と、子どもながらに感じた当時の大火の激しさを語る。

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春嵐すさぶ季節のめぐりきて 大火の記憶ふとよみがえる

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 『十和田市史』の昭和4年の「三本木大火」の文章から、その被害の大きさはわかるが、地域的には何処だったのか若干説明しよう。
 まず出火の火元が「稲生町三十二番地」とある。現在稲生町は二十四番地までしかないから、これは旧番地である。明治28年に杉本丑松が菅原重太郎から買った土地の地番が稲生町三十六番地である。稲生町の番地は稲生川に面したところ、現在の稲生川土地改良区の事務所のあるところが一番地で、そこから南に向かって二番地、三番地と番地がつけられている。火元は杉本本店より若い番地であるから、杉本本店とはそう離れていない北側であることがわかる。
 また、「風速十六メートルノ西風ニ煽ラレ、火ハ忽チ幅員六間半ノ横町ヲ超ヱ、小笠原八十美宅ニ燃エ移リ」と書かれている。
 小笠原八十美は、旧十和田村の出身で、三本木畜産組合の組合長、十和田観光電鉄㈱の社長、そして馬喰代議士として戦後の一時代を築いた寵児である。
 その八十美の家のあったところが八十美が十鉄の社長になったあと「三十番」として中央のバス停となったところ、現在スーパーホテル十和田のある場所にあった。そして「幅員六間半ノ横町ヲ超ヱ」とあるが、この横町は文化センター、澄月寺に行く道、つまりみぞぐち布団店とスーパーホテル十和田の間の道路のことである。
 とするとその出火場所が特定できる。澄月寺通りの北側、みぞぐち布団店の西裏、とわだパルコビルの裏側辺りにあったのではないかと思われる。
 ここで出火した火が風速16㍍の西風に煽られ小笠原八十美宅に燃え移り、杉本本店、松本茶舗と燃え、さらに国道を越え一心亭から角屋旅館まで行き、風が北西に変り再び国道を隔てた石川邸に燃えうつり、最終的には八戸街道まで達したというのである。一心亭は杉本本店の国道を隔てた正面、角屋旅館は現在の市民交流プラザの道路を隔てた南側、石川邸は現在のお好み焼きのあるところ、当時の八戸街道は現在の三小通りである。こうして杉本本店はすべてを焼失してしまった。
 この大火による損害額は住家35万6448円、その他40万3810円で合計76万328円であった。当時の三本木町の歳出決算額は15万6197円であったから町の予算の5倍近い被害額である。三本木大火は新聞で全国に報道され、県内外から義捐金や義捐物資が届けられた。義捐金の総額は9404円であった。これに対して県は1829円、町は4000円、併せ1万5233円を罹災者救助費として支出した。
 馬吉にとっては、三本木一の小間物屋になったものの、大正13年7月に次男が亡くなり、それから4ヶ月後の同年11月に長男が続けざまに亡くなり、それから4年後のこの大火と、踏んだり蹴ったりの不幸つづきであった。
 しかし負けてはいられない。馬吉の生まれの八戸から連れてきた三蔵もまだ一人前とはいえないが馬吉の手足となって働き、何とか店は復活し、賑わいを見せていた。
 が、世の中は暗雲が立ち込めはじめていた。中国大陸に進出していた日本軍は、昭和7年(一九三二)に傀儡政権満州国を設立。中国への支配をさらに拡大するために昭和12年(一九三七)盧溝橋事件をでっち上げ、これを機に中国との全面戦争に入った。つまり日中戦争である。
 日中戦争の翌昭和13年(一九三八)には、戦争遂行ためには国力のすべてを軍事へつぎ込み、国家総動員体制をとることが必要であると、国家のすべての人的・物質的資源を政府が統制運用できる国家総動員法を公布した。
 そのために物資の生産から配給、使用、消費、所持、移動までもがすべて国によって統制された。ガソリンは戦艦や飛行機を動かす動力である。そのために統制が厳しく車はガソリンの代替えとして木炭で走る木炭自動車が登場した。また軍艦をつくるには鉄が必要である。日本は地下資源に乏しい。そのためにマンホールの蓋やベンチ、鉄柵、火鉢から灰皿のはてまで金属が回収された。
 当然、店で売る品物が自由に入らない。そのために店は開けているものの売る商品は閑散とし淋しいものであった。
 そんな時代の昭和14年11月、杉本家三代目となる正一が七戸町の山本家から入婿した。正一は11人兄弟の三男で、山松家では商人として育てるべく、自分の店で商売の修業をさせていた。そこへ杉本家から入婿の話しがきた。正一の姉である長女も古間木の千浦百貨店に嫁いでいたし、山松家としてはこれ以上ないもってこいの話しであった。
 正一はこのとき27歳、きみは19歳であった。この入婿は祖父馬吉が決めた縁談であったから、結婚当日になって二人は初めてお互いの顔を見た。むかしはこんな結婚は普通であった。
 初めて見る夫となる正一。七戸の由緒ある大きな商家に育っただけに見るからに育ちの良さが顔に現れている品が良く優しそうないい男であった。
 さて、入婿した杉本家はというと、当主である馬吉はすでに78歳、その妻とめは71歳。亡くなった長男新三郎の妻サミは37歳。妻と年子である妹きよは18歳。叔父の富男は正一の入婿と同時に分家した。
 正一が入婿すると祖父母は正一に経営のすべてを譲って奥に隠居しており、妻の母サミは結婚した当初から奥の仕事が主であったから、経営にはほとんど携わっていなかった。妻のきみには経営を相談するにはまだ若すぎた。唯一頼りになるのは番頭の三蔵だけであり、入婿した途端に経営のすべてが正一の肩にのしかかってきた。

 群がりて今年も咲ける石蕗は 在りし日の父植えたりしもの(佳築子)

 三代目山本松五郎は明治四年(一八七一)に生まれ、幼くして父と死別するが、家業の呉服商・酒造業を営み、公共事業への寄付行為で知られている。
 そして正一は、その山松家四代目山本民雄の三男である。正一は大正元年(一九一二)に生まれており、杉本家に入婿したのは昭和14年(一九三九)の秋、正一27歳のときである。
 創業者である杉本馬吉は戸板1枚から一代で財を築き、大正期にはすでに杉本本店と看板を掲げ、様々な雑貨から石油まで扱う間口10間(約18㍍)の三本木町一の雑貨商となっていた。しかも場所は、国道沿いで、東は産馬組合と三本木開拓の祖新渡戸伝を祀る太素塚に通ずる産馬通りと、西は町の中心寺澄月寺の通り交わる四丁目の一等地にあり、国道を隔てた真正面には三本木一の料亭一心亭があり、夕方日が西に沈むころになると三味線の賑やかな音が聞こえてきた。秋に行われる三本木馬セリは近郷近在の村々から人々が訪れ、祭りのような賑わいであった。また、杉本商店の西裏は、道路を一つ隔てたところに軍馬補充部の官舎があった。
 大正期の杉本本店は馬吉の最も華々しきころで、住み込みと通いの丁稚を5、6人使っていたが、店は丁稚らが休む暇がないほどに忙しかった。

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 馬吉についてもう少し詳しく書いておこう。馬吉には長女イト、次女ヨシエ、長男新三郎、三女ミツヱ、次男喜久男、四女ヨシ、三男富男、四男憲治と8人の子どもがいた。が、憲治は9歳で亡くなり、二代目であった新三郎は大正13年(一九二四)に28歳の若さで亡くなっただけでなく、次男の喜久男も新三郎が亡くなる4ヵ月前に22歳の若さでと、同じ年に二人の息子を亡くしている。何とも跡取りに恵まれない馬吉であった。
 長男新三郎は、嫁をもらい、きみときよという2人の女の子がおりすでに二代目として仕事をしていた。
 が、前述したように二代目の新三郎と次男の喜久男が亡くなった。馬吉はこのとき62歳になっていた。現在でも60歳定年制が一般的であるが、当時としては62歳というと本当におじいちゃんといわれるほどいい年寄りであった。商売をやっている者が跡継ぎを亡くするというのは商売の浮沈にかかわるほどの大変な痛手である。しかも三本木一の雑貨商である。馬吉はどんなに悲しみわが身の不運を嘆いたことであったろうか。しかも三男の富男はまだ13歳。とても商売を任せられる歳ではない。
 新三郎の妻サミはこのとき22歳、しかも3歳と4歳の幼子を抱えていた。サミは丁稚や家族、多いときには20人を超すほどの三度の食事の支度で精一杯であった。馬吉は再び商売の表舞台に立たなければならなかった。
 馬吉はこのとき、馬吉の実家のある八戸在から遠縁にあたる、在家三蔵を連れてきて三蔵を番頭に育てようと考えていた。三蔵は馬吉を助け、骨身惜しまず良く働き、後に長女イトの娘イツと、つまり孫娘と一緒にさせ三蔵商店として分家させている。
 三本木町は、新三郎が亡くなる2年前の大正11年(一九二二)に三本木、古間木間の十和田鉄道(後の十和田観光電鉄)が開通。昭和元年(一九二六)に三本木、八戸間のバスが開通した他、農学校(三本木農業高校)、実科高等女学校(三本木高校の前身)、軍馬補充部三本木支部、警察署、営林署、土木事務所、郵便局、銀行、町役場、産馬組合事務所などの事務所があり、国道の両側には商店が立ち並び、人口1万人を越えた上北地域の中核の町として発展していた新興都市であった。その振興都市の中で杉本本店は絶頂期にあった。
 サミも馬吉やとめ、番頭の三蔵らに助けられ、子供たちも手を離れいよいよこれからだという昭和4年(一九二九)10月、三本木大火に遭いすべてを焼失してしまった。
 その状況を、『十和田市史』に和田町長稿「三本木町大火記録」として次のように記している。

 昭和四年十月二十八日、午前零時二十分、大字三本木字稲生町三十二番地湯屋業中津三太方ヨリ出火、折柄風速十六メートルノ西風ニ煽ラレ、火ハ忽チ幅員六間半ノ横町ヲ超ヱ、小笠原八十美宅ニ燃エ移リ四丁目西側ニ猛威ヲ振ヒ、一方九間一尺五寸幅ノ国道ヲ飛ビ越シタル延火ハ四丁目東側一心亭以南荒レ狂フ。折シモ風向北西ニ変リ、益々風力ヲ加ヘテ二十メートルトナリ、火ノ子ハ渦ヲ巻キ、或ハ落花ノ如ク或ハ吹雪ノ如ク見ル間ニ、三丁目横町ヲ突破シテ角屋旅館に延焼ス。
 各地ヨリ急ヲ聞キテ駆ケ付ケタル消火隊ハ夫々部署ニ就テ死力ヲ尽シ消火ニ努ムルト雖モ漸次類焼区域拡大セラルルニ伴イ消火能力ヲ殺ガレ、西裏道路ニ拠リタル「ガソリン」自動車ポンプハ横町ニ於テ喰イトメントシテ全力ヲ傾注シタルモ、町内随一ノ大建築然カモ荘厳美ヲ極メタル石川邸ニ延焼シタル火ハ中々ニ火勢ヲ弱メズ、加之強風ハ火ノ子ヲ風下ニ運ビテ止マズ、三丁目東側ニ延焼シタル火ト共ニ猛威ヲ加フル計リニテ遂ニ三丁目ニ延焼スルニ至レリ」(ルビ著者)。

 更に、二丁目、一丁目、並木北端、八戸街道一帯を灰塵に帰せしめ、午前4時にようやく鎮火したと、そのときの大火の様子が生々しく書かれている。杉本商店もこの三本木大火に巻き込まれ店を全焼した。
 そしてこの大火での損害は幸いにし死者や怪我人が出なかったものの、全焼住家183棟、焼失戸数224戸、半焼住家3棟、半焼土蔵7棟という大被害であった。

 ふるさとの尾張離れて嫁ぎこし 十和田に住みて幾十年を

 さて、十和田市で真っ先に量販店を開業した杉本ショッピングセンター。文字通り十和田市では最大の商店主となった佳築子が嫁いだ杉本家はどんな家系であったろうか。
 杉本家の本家筋に当たる荒町長右ェ門が、八戸の荒町に米屋を開業したのが杉本家の商売の始まりである。長右ェ門はもともとは士族であった。長右ェ門の生まれた年はわからないが、江戸中期の明和2年(一七六五)に亡くなっているから、商売を始めたのは今から大よそ260~270年前と思われる。長右ェ門は荒町姓を名乗っている。これは開業した場所が荒町であったからで、もともとは杉本姓であったと思われる。
 荒町家は代々長右ェ門を踏襲している。その5代目長右ェ門(定吉)には長女きさ、長男徳太郎、二男は幼少のころ死去、次女たの、三男福蔵、三女とめと子供が6人いた。
 その三女とめに、明治26年(一八九三)に松沢家から三男の馬吉を婿に迎え分家させた。この馬吉・とめが三本木杉本家の初代となる。馬吉32歳、とめ22歳のときであった。
 三本木杉本家の初代となる馬吉・とめがいつ三本木にきたのであろうか。
 杉本家の初代について佳築子が、杉本の祖母から「初代は戸板1枚の上に品物を並べて売ったそうだ」という話を聞いたことがある。それ以外は、知っている人はほとんど亡くなっているし、書き残した文章もない。したがって今となっては当時のことを知る人は誰もいない。
 明治から昭和初期にかけて造り酒屋を営み、三本木カトリック教会を創設した三本木村の旧家三浦家に生まれた三浦ゆわが人間情報紙「夢見る人」に『懐かしの三本木』と題して、大正期の三本木の街並みと一軒一軒の家々のことを書いている。
 その「杉本本店」の項に次のように書いている。
 「三本木一の小間物屋さんでお爺さんは小柄な人、お婆さんはナカナカの曲者との噂。このお爺さんが集落を廻って小間物の行商をしていたとか。その時丁度七丁目の鈴木金物屋さんも粉おろしのしのを売って歩いていた。行商同志二人は知り合いとなり、杉本さんは鈴木さんを頼って三本木に店を出したと云う。お彼岸のオダンゴはイの一番に鈴木さんに届いていた。
 杉本さんは洋品小間物のほかに、煙草、石油なども売っていた。店の南側の板の間では、キセルのウラのすげ替えもしたし、土間では石油の量り売りもした。
 時代が変わり終戦後、一族でデパートを始めた」
と、杉本本店の成り立ちを書いている。ここでいうお爺さんとは杉本馬吉で、お婆さんはとめのことである。
 この文章からいうと、馬吉はとめと結婚する前後から小間物の行商をやっていたと思われる。馬吉は根っからの商売人であった。
 もう一つ、杉本ショッピングセンターがあった稲生町36番地の土地所有の移転を調べてみると、明治28年(一八九五)に、とめの一番上の姉きさの夫丑松が、菅原重太郎から買い取っている。
 ちなみに菅原重太郎は菅原都々子の曽祖父で、ここは耶蘇教(キリスト教)の教会があったところである。重太郎の息子が三本木で一番最初に歯医者をやった菅原八十百で、その息子が作曲家の菅原陸奥人(陸奥明)で、その娘が菅原都々子である。
 そして4年後の明治32年(一八九九)に、馬吉が丑松から買い取っている。
 多分、こういうことではないかと想像される。小間物の行商をしていた馬吉が、三本木の鈴木金物店と知り合い、それじゃ俺も三本木で商売しようということになった。それを知った丑松が、そういうことであれば俺も応援しようといって、稲生町36番の土地を買って馬吉に貸した。馬吉はここで商売をし、商売も繁盛し金がたまったので丑松からその土地を買い取ったのではなかろうか。
 つまり、戸板一枚で商売を始めたのが明治28年で、自分の店を持てたのが明治32年と考えられる。それが、三浦ゆわが大正期には「三本木一の小間物屋」と書いているように、馬吉の代で戸板1枚から三本木一の小間物屋になり、杉本本店となり、杉本ショッピングセンターの基礎を築いたものと思われる。馬吉は昭和17年(一九四二)78歳で、とめは昭和23年(一九四八)77歳で亡くなっている。当時としては長寿である。
 二代目は馬吉の長男新三郎である。が、新三郎は大正13年(一九二五)に28歳の若さで亡くなっている。22歳にして未亡人となった妻サミ。馬吉はすでに62歳、とめは53歳になっていたが、老骨に鞭を打ちサミを助けながら杉本本店を守ってきた。
 サミにはきみときよの二人の娘がいた。その長女きみに七戸町の商家山松から三男の正一を婿として迎え三本木杉本家の三代目を継がせた。
 実は、七戸山松は商家として大変な家柄である。以下『七戸町史』から引用する。
 「山本家は、屋号船木屋と言い、幕末まで七戸における最大の商人であった。山本儀兵衛(文政一二~明治一〇)の時代にあっては、七戸の豪商として最も盛んな時であり、松盛丸・神徳丸・福神丸などの千石船を所有しており、野辺地~大阪間の貿易に従事していた。これらの取引品は、七戸近在は言うまでもなく、弘前・盛岡・鹿角方面まで販路を持っていた。酒造業も営み、一〇〇石の酒造をなしていた。(中略)が、明治三年の百姓一揆の最大の攻撃対象とされ甚大な被害を受け、以後急速に衰退していった」
 山松については、この百姓一揆を語らずして語ることはできない。それは山松が衰退するひとつのきっかけになったからである。以下、『七戸町史』から拾ってみよう。
 「明治三年(一八七〇)閏一〇月の七戸通百姓一揆は、百姓一揆多発藩といわれる南部藩の中ではその発生件数が比較的少なかった七戸地方で、明治初年、青森県のどこでも発生していないとき、七戸藩領全三八ヵ村がこぞって立ち上がった特異な百姓一揆である」
 概要はこうだ。
 明治元年(一八六八)、同2年(一八六九)と2年連続の大凶作となり、百姓たちは家畜として飼っていた牛馬を殺して食わなければならないほどの大飢饉となり惨状を極めた。
 現在の上北地域の主要作物は大豆であった。それを御用大豆として藩が買い上げ野辺地港から大阪に出荷していた。八戸藩は即金で支払っていたのに対して、七戸藩は売れたのち売上から費用を差し引き農家に代金を支払っていた。つまり後払いであったがそれさえも滞ることもあった。それを千石船で大阪に運んでいたのが山松などの豪商であった。
 大飢饉で百姓たちは、年貢の減免、御用大豆の買い上げ御免など10ヵ条の要求を藩に提出した。
 これまで何十回となく冷害に遭ってきた上北地域の百姓。冷害のときは「米が無くても、味噌さえあれば生きられる」というのが百姓の生きる知恵であった。それを強制的に大豆を買い上げられては味噌もつくれないというのが大豆買い上げ御免である。
 そして明治3年10月24日、前述した10ヵ条の要求を掲げて数百人、一説には2000人ともいわれる農民が七戸藩に押し寄せた。当時の七戸藩大参事は新渡戸伝であった。
 この一揆に驚いた七戸の商人たち。盛喜(盛田喜平冶)は、店を開け炊き出しを行い握り飯や酒を出し一揆をねぎらった。
 一方山松(山本儀兵衛)は、これまで飢饉に対して貧民に稗一俵、銭一貫文づつの救済や昼飯の炊き出しを行うなどこれまで農民を救済してきた。が、このとき山松は店を閉めていた。農民たちは休憩してほしいと蔀戸を叩き小口窓から顔を出したところ中から湯をかぶせてきた。暴徒と化した農民はこれに怒り斧を持ち大戸破った。山松はこれまで農民を救済してきた店を襲うとは何事かと、官吏を呼び鉄砲で百姓たちを追い返した。
 この盛喜と山松の一揆に対する対応の違いが、その後の盛喜と山松の盛衰の違いとなって現れた。

 神前に朝の思いを語りかけ 心を映す冬の鏡に


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 昭和42年(一九六七)2月21日、佳築子は杉本正太郎と結婚した。2月というと青森は1年中で一番寒い時期である。佳築子は23歳であった。
 十和田へ来る前、その前年の秋に父の実家であるかざり屋の祖父の米寿の祝いの席で父は、今度縁あって佳築子は青森に行くことになりましたと親戚一同に紹介した。
 米寿の祝いには祖父の子、つまり父の兄弟や孫、ひ孫、親戚など100人ほど集まっていたが、当然のことながら皆は、何でそんな遠いところに行くのといった。皆はびっくりどころか納得できない様子であった。
 父は、これもモラロジーの縁でと、そのいきさつを説明した。渡辺家の中には、モラロジーの講師をしていた父の兄の他、モラロジーに関係していた者が何人かいたので、それでは仕方があるまいと納得したようであった。
 が、この知多半島から青森はあまりにも遠すぎる。皆が心配して、口々にお祝いの言葉と共に励ましの言葉を述べてくれた。お年寄りには佳築子の手を取り、今生の別れのような話しする者もいて佳築子はちょっと複雑な気持ちであった。この日は祖父の米寿のお祝い会であったが、佳築子の親戚への結婚が決まったことの報告及びお祝いとお別れ会になった。
 また、青森に来る直前には友達もお祝いとお別れ会を開いてくれた。そこでも話題になるのはやはり、何でそんな遠いところに行くのであった。が、佳築子の話しを聞くと皆は心から祝ってくれた。
 佳築子は高校を卒業したあと和裁を習うと同時に洋裁学校に入っていたから、持って行く着物は自分でなおしたが、洋服は洋裁学校時代の友だちが作ってくれた。
 佳築子の心はもう十和田に飛んでいた。特別に準備することもなかったが、佳築子は結婚式の10日ほど前に先に一人で十和田に来ていた。両親と伯父、叔母たちは結婚式の前日に十和田に入り、杉本ショッピングセンター近くの昆元旅館に泊まった。
 その夜、佳築子は両親の部屋に行って、
 「父さん、母さん、こんなところに来てしまってごめんなさい。これまで育ててくれてありがとうございました。ここで頑張りますからこれからもよろしくお願いします」と両親に対して育てていただいたお礼のあいさつをした。
 父は、
 「お前はこの北国で暮らして行かなければならない。それはお前が選んだ道だからしょうがない。これからいろいろなこともあるだろう。しかし、どんなことがあってもひと謗るようなことはいってはならない。が、もし生き死にに関わるようなことがあるときは、俺の目の黒いうちはお前は俺の娘だから、そのときはいつでも帰って来なさい。ただし、その前に仲人だけにはちゃんと話してから来い。俺は頭を下げてお前を迎えに行くから」といった。
 これは10年後わかったことだが、名古屋より遠くへはやらないといっていた父だから、父は結納をもらった後で十和田に来て、身分を隠し佳築子の婚家となる杉本家の、その家柄や街の人たちの噂を密かに聞き調べていたのであった。当然その発展を誉めるひともいれば、急速に伸びてきた杉本ショッピングセンターに対する嫉妬などから誹謗するひともいる。
 特に商家の嫁である。商売はいいときもあれば悪いときもある。苦労することは目に見えている。そんなところに嫁に行って佳築子は苦労するだろうと思った父の言葉であった。
 見知らぬ土地での不安はあったが、娘の幸せを願う父親の愛情の深さを思い、逆に何があっても簡単には帰れないと心に決めた佳築子であった。
 杉本ショッピングセンターは昭和41年(一九六六)12月にオープンした。十和田市では初めての量販店である。結婚式はそのショッピングセンターの3階の大広間で行われた。
 当時の田舎での結婚式の多くは、嫁をやる方と嫁をとる方、つまり嫁の家と婿の家の両方で行われていた。それぞれの家でやるから1回でお客を呼べるのは30人から多くても40人程度である。そのために祝宴は、1日目は来賓や近い親戚を呼ぶ本振舞い、2日目は付き合いのある近所のひとたちや付き合いのある遠い親戚を呼ぶ振舞い、そして3日目は付き合いのある近所の若者や手伝い人を呼ぶざっぱ振舞いと3日3晩続いた。
 それに対して青年団はそんな無駄な結婚式はやめようと、結婚式の簡素化を進める結婚式改善運動を始めた。これは公民館などで、両家が嫁取り嫁やりを一緒に1回で行う、現在の結婚式の形である。
 杉本ショッピングセンターでは、そんな結婚式の変化をいち早く見てとり、ショッピングセンターの3階を結婚式場としたのであった。十和田での最初の結婚式場であった。
 二人の仲人は、モラロジー青森県支部世話人である三沢市高橋銘木店の高橋石蔵氏、そしてもう一人はモラロジー本部の小山政男氏である。すべてモラロジーがらみである。
 結婚式は、結婚式場での新しい結婚式の手本となるような結婚式で、夫婦の契りの盃や結婚届けへの署名、誓いの詞、結婚指輪の交換など結婚の儀式を招待客の前で行った。そして結婚披露宴である。この披露宴も食事はフォークとナイフを使った洋食であった。これも十和田市では珍しく招待客はフォークとナイフの使い方に戸惑っているようであった。
 招待客は、十和田商工会議所会頭の田中静一、十和田商協会長の江渡武多朗、青森銀行支店長、弘前相互銀行(現みちのく銀行)支店長、十和田市助役の中村亨三他、十和田市経済界の主だった人たち約100人であった。中村家からは、遠いことから佳築子の両親、父の兄弟、つまり伯父の渡辺秀一、同じく渡辺幸二、叔母の磯貝てる、叔父の林辰美の6人のみであった。
 宴会が進み酒が入るほどに歌はでるは踊りが出るはと大賑わいである。地元の人たちは民謡や三橋美智也の『お富さん』、三波春夫の『チャンチキおけさ』などであった。
 そこに父が私もやりますと、「妻は夫をいたわりつつ 夫は妻に慕いつつ 頃は六月中の頃 夏といえど片田舎 木立の森もいと涼しく...」と唸り出した。座は一瞬静まり返り、皆その名調子を聞き入った。浪曲の『壷坂霊験記』である。
 『壷坂霊験記』は明治時代に作られた、夫を献身的に支える妻の夫婦愛を描いた浄瑠璃であるが、人気を博し浪曲、娘義太夫、講談、果ては歌舞伎にまでなった物語である。父としては、この一節に娘の幸せを願った一世一代の余興であった。やんややんやの大拍手であった。
 十和田市一の大店となった杉本ショッピングセンター。招待客は1日で納まるはずもなく、2日目は正太郎の友人や商店街の若いひとたちが、やはり100人程が招待されていた。

 からまれる元木を越えざる蔦の蔓の理にわれをいましめし父

 モラロジーに戻り佳築子は課長に、
 「家族は全員反対ですから、結婚の話しはお断りしてください」といった。
 課長は、本部のお偉いさんから頼まれたものを、簡単に駄目だそうですとはいえない。それでは子どもの使いと同じである。しばらく考え込んでいた課長は、
 「じゃ、こうしよう。せっかく申し込んで来たんだから、どんなところか一度行って見てからでも遅くないんじゃない。それで嫌だったら断ればいいし。ね、そうしよう」
 十和田まで行って断ったのであれば課長も上に対して顔も立つ。こうして昭和41年(一九六六)初夏、佳築子と課長が下見という名目で十和田市に行くことになった。
 佳築子は結婚する気なぞ全く無かったから、後で断ればいいやと遊び気分で十和田に来た。
 名古屋から東海道本線で上野まで行き、上野から東北本線の特急寝台に乗った。下車予定の尻内駅(現八戸駅)に着いたのは朝6時ころであった。
 さて、駅に降りたものの迎えに来ているはずの杉本家のひとたちがいない。5分、10分待っても来ない。困った二人。名古屋から東京まで約360㌔、東京から八戸まで約710㌔、併せ1000㌔を超す距離。時間も15時間以上かけて来た。課長は杉本家とどのように打ち合わせをしていたのかは知らないが、佳築子は何コレ!と思った。
 課長は、「じゃ普通列車に乗り換えて行こう」といった。
 十和田市へは、国立公園十和田湖への東の玄関口である三沢駅で降り、そこから私鉄の十和田観光電鉄に乗り換え、その終着駅が十和田市である。しかし、三沢には特急や特急寝台が停らない。だから尻内で降りたのである。尻内には杉本家のひとたちが迎えに来ているはずだった。
 二人は十和田市までの切符を買い青森行きの普通列車に乗った。
 とたん、大きな背負い籠に荷物をいっぱいに詰め、さらにその上に風呂敷で包んだ物を載せたおばさんたちがたくさんいて、ワイワイガヤガヤと何やら大きな声で騒々しく話しをしていた。佳築子には何を話しているのかその言葉がほとんどわからなかった。
 これ同じ日本?佳築子はとてもじゃないがこんなところには来れないと思った。
 このおばさんたちは今はないが八戸名物のかつぎ屋のおばさんたちであった。
朝6時台の一番列車はかつぎ屋のおばさんたちの列車でもあった。八戸は港町である。かつぎ屋のおばさんたちは、八戸港の市場に行ってスルメや昆布、魚の干物など海産物を買い、これを大きな背負い籠に入れて、内陸部の農村に行って売るのである。その重さは30㌔から40㌔もあり、男でも敵わないほどの逞しい浜のおばさんたちであった。また、言葉も独特な浜言葉で少々荒っぽく、同じ青森県の太平洋岸でも内陸部とは言葉が違っていた。
 そんなおばさんたちと出会った佳築子。初めての東北、初めての青森県でびっくりしたのは無理もない。
 普通列車は走り出しまでまだ15分くらいあった。そんなところに正太郎と正太郎の父親が二人を探しに来た。佳築子たちを見つけると申し訳ありませんと、平謝りにあやまり、駅前に止めてあった車に案内した。
 佳築子は正太郎の父には初めて会ったが、モラロジーの会員らしく社長といっても威張った風もなく品が良く佳築子には好印象であった。
 車は、駅を出ると淋しい山の中の道を走った。先ほどのかつぎ屋のおばさんといえ、この山道といえどんなところに行くんだろうとさすがの佳築子も不安になった。
 八戸から十和田市へは国道45号線が通っていたが、当時はまだ舗装されていなかった。そこで道路の良い国道4号線に出る国道454号線で五戸を通り、五戸から国道4号線に出て来たのであった。
 十和田市に着くと、杉本ショッピングセンターはまだ建物の基礎となるパイルを打ち込んでいる最中であった。建設される杉本ショッピングセンターは、通称30番と呼ばれるバスの停留所のすぐ近くにあった。ここは十和田市の中心部で、十和田市の農村部や十和田町など近隣町村へのバスの発着場であり、バスはひっきりなしに行き来していた。そこに杉本ショッピングセンターが建設されるのである。
 佳築子たちが十和田に着くと、「よく遠くまで来てくれました」と、今に花火でも打ち上げるかと思うほどの歓待を受けた。
 次の日、課長は十和田湖に行きたいといって十和田湖を見物すると、「あとはよろしく頼むよ」といってさっさと名古屋に帰ってしまった。
 困った佳築子。が、正太郎は今日は十和田湖、今日は八戸の蕪島、今日は平泉、今日は何処どこと、毎日青森の観光名勝を案内して佳築子のご機嫌をとり佳築子を返そうとはしなかった。
 正太郎にすれば青森県ってこんないいところだよとアピールしたかったのであろう。佳築子は結婚する気なんて全くなかったから、もう二度と来ることがないだろうと、都会の娘らしく自由奔放に振る舞っていた。
 その自由奔放さが、夏目漱石の小説『三四郎』の里見美禰子にも見えたのであろうか。正太郎はますます佳築子を好きになって行った。
 夏目漱石の『三四郎』の美禰子は、自由奔放主義の裕福な家庭で育った都会の女性。しかも美しく、知的である。佳築子も経済的な苦労を知らない家庭で育ち、表面は隠しているものの本音はスピード狂である。一方、モラロジーで一級の花嫁修業をしている。正一郎にとってはまさに美禰子であった。
 こうして一週間ぐらい十和田に居て帰った。そしてすぐ課長に「十和田には行きません」と断った。
 ところがである。帰って10日ぐらいして正太郎が美浜町の佳築子の家を訪ねて来て、「ぜひ、佳築子さんを下さい。返事を貰うまで帰りません」と居座ってしまった。『三四郎』は勇気がなかったばかりに美禰子と結婚できなかった。が、正太郎は返事をもらうまで帰らないという。
 かといってやることは何もない。父に知多半島を案内してもらったり、父と一緒に釣りをしたり、夜は父と酒を飲みかわし十和田について話しをしていた。
 何と情熱的なひとであろう。これほど想ってくれるひとならと、佳築子の心が動いた。
 ところが家族は大反対である。父は、以前から名古屋より遠くへはやらないというのが口癖であった。父の実家であるかざり屋のおばあちゃんは、「佳築子、何でそんな遠いところに行くの」と、オイオイ泣きだす始末。
 しかし父は最後に、「父親が反対したら子どもはいつまでもそのことを思って幸せにはなれないだろう。だから佳築子が幸せになれるんだったら俺は反対しないよ」といってくれた。この一言で佳築子の心が決まった。
 父は正太郎に、娘をやるからよろしくお願いしますといった。この言葉を聞いて正太郎はようやく帰った。
 結婚式は翌昭和42年(一九六七)2月と決まった。佳築子は結婚する前にもう一度十和田を見ておきたいと12月に一人で師走の十和田に来た。そのときは、クラブ花園やスナックセリカなど何軒か飲みに連れて行ってもらった。
 こうして1000㌔以上もあり知っているひと一人もいない本州の最北端、雪深い青森の十和田市に嫁ぐことに決めた。これはすべてモラロジーの縁であった。佳築子がモラロジーに入っていなければ十和田には来ることはなかったろう。

 十和田湖を初めてめぐる遊覧船 藍にとけこむ我は旅人       佳築子 

伊勢湾と三河湾をさえぎるかのように突出した、温暖な気候に恵まれた知多半島に生まれ、父親が不動産で成功し、名古屋の大店の息子から縁談を申し込まれるような佳築子が、本州最北端の雪深い青森県。その青森県の中でも人口わずか4万5、6000人程度(昭和42年当時)の田舎まちの十和田市にどうして嫁に来たのか。この『佳築子物語』のクライマックスであり、最大のミステリーでもある。
 佳築子は、佳築子の父の兄である伯父の勧めで廣池学園麗澤瑞浪高校に併設されていた社会人を対象とした廣池学園一般教養講座(現日本生涯学習センター)に入った。
 一般教養講座は簡単にいうとモラロジーの社会人の修養講座であった。
 モラロジー?この言葉を初めて聞くひとも多いであろう。モラロジーは、モラル(道徳)とロジー(学問)を組み合わせた造語で、廣池学園の創始者である明治から大正にかけて活躍した法学者・歴史学者・教育者であった廣池千九郎が、大正15年(一九二六)に倫理道徳と心の生涯学習を一体化した総合人間学として提唱した道徳科学である。
 モラロジーはその実践の場としてモラロジー研究所他、大学(麗澤大学)や高校(麗澤高校)、中学校(麗澤中学)などの一般教育機関と、社会人を対象とした一般教養講座を持っていた。
 佳築子はそんな堅物な学校に入れられてしまった。しかも学校は岐阜県瑞浪市駅から車で20分ほどの山の中、瑞浪高原の麓にあり、広大な敷地の中に校舎、体育館、運動場、職員住宅、学生寮、一般教養講座の宿泊施設などがある。ここは、学生はもちろん一般教養講座の受講生を含めてすべて寮に入らなければならない全寮制である。ここに入ったらもちろん車の運転なんてできない。
 一般教養講座は、2週間の短期講座、1ヵ月講座、女性講座など様々な講座がある。それは修養講座であるから何回受けても良いが、講座は泊まり込みのために一講座当たり数万円、長期講座だと数十万円というお金がかかる。そのために事業者の信奉者が多く、事業者及びその子弟の修養の場、あるいは会員会社の社員研修の場ともなっていた。
 女性であれば、単に道徳のみならずお花やお茶、礼儀作法、一流ホテルでの食事のマナー、歌舞伎鑑賞など、事業者を支える伴侶となる素養を身に付ける花嫁修業の場でもある。3ヵ月の女性講座がそれである。
 佳築子は、最初短期講座を受講したが、終わるとしばらくここでボランティア活動をし再び講座を受講するという形をとり、様々な講座を受け、ボランティアをし、最終的にはここに2年間いた。
 そのモラロジーの一般教養講座に、後に佳築子の夫となる杉本正太郎も同時期に受講していたのである。
 杉本正太郎は、昭和15年(一九四〇)8月、十和田市で百貨店を営む杉本本店の4代目として生まれた。地元の三本木中学校を卒業すると、父親がモラロジーをやっていた関係で千葉県柏市にある麗澤高校に入った。が、3年生のとき地元の三本木高校に編入。三本木高校から日本大学に進み、卒業後は大阪の大きな商店に入り商売の修業をしていた。
 昭和41年(一九六六)百貨店杉本本店は、時代の波に乗り百貨店から、1階、2階は食料品から日用品まで幅広く扱うショッピングセンターに、3階は結婚式場に衣替えをしようとしていた。大型ショッピングセンターも結婚式場の十和田市では初めてである。その新しい事業に、息子には大阪で学んだ商売のコツを生かしてもらいたい。そのための大阪での修業であった。
 正太郎の父は、十和田に帰る前にモラロジーで人間としての心の修業をして来いといった。こうして正太郎がモラロジーの短期講座に入った。モラロジーには正太郎の父の他、十和田市や三沢市、八戸市などからも会員がいた。その中でも三沢市の㈱高橋の高橋石蔵社長は小川原湖畔にモラロジーの研修所をつくるなど、モラロジーでは名が知られており、後に佳築子たちの結婚の仲人ともなる。一般教養講座で高橋石蔵が講師として話しをしたことがあった。感動的な話しだったらしいが東北訛りがあり、そのときは佳築子には意味が半分しかわからなかった。
 正太郎とちょうど同じ時期に佳築子も一般教養講座を受講していた。最初の講座のとき、佳築子はそんなひとがいるなどとは全く意識の外であった。
 運命はいたずらが好きである。2回目の講座のときである。めそめそと泣き落ち込んでいる育ちの良さそうなお坊ちゃん風の若い男性がいた。佳築子は何で泣いているのかわからないけれど可愛そうに思った。世話好きな佳築子は、どうしたんですかと声をかけた。これが運命の一声であった。
 話を聞くと仲の良かったまたいとこが不慮の事故で亡くなった。歳が近く子供のころから一緒に遊んでいた。それがもうこの世にはいないというのである。正太郎は佳築子に話しをしてすっきりしたのか、以後は明るく受講していた。
 それはそれで終わり、佳築子はそんなことがあったことなど忘れていた。
 が、正太郎には、落ち込んでいるとき優しく話を聞いてくれた佳築子は女神にも見えた。しかもモラロジーを学んでいる都会の女性である。生涯を共にするひとはこの女性しかいないと深く心に刻み込んでいた。
 正太郎が別の講座を受けて帰郷するとき、
 「俺はこれで帰るけれどぜひ付き合ってほしい」と佳築子に告白した。
 いきなりである。そう告白するなり正太郎は、佳築子からいいとも悪いとも返事を聞かぬままに帰ってしまった。
 それからしばらくして佳築子はモラロジー研究所の課長から呼び出された。
 課長は、
 「モラロジーの本部の幹部から君に聞いてくれといわれたんだが、君と一緒に受講していた杉本正太郎君って知っているだろう。彼から君を嫁に欲しいとモラロジーの幹部にいってきたそうだ」といった。
 そういわれて佳築子はぽかんとした。確かに付き合ってくれといわれたが、結婚なんて全く考えてもいなかった。課長には家族に相談してみますといってその場を去った。
 佳築子はその日のうちに家に帰り、そのことを家族にいった。
 青森県の十和田?、母も姉も妹も、祖父母も、青森県は本州の最北端にあるというぐらいであまり詳しくは知らなかった。父は、青森県は農業が中心で、生活水準は日本で下から1、2番のところである。名古屋から見たら10年は遅れているだろうなといった。
 誰かがいった。
 「テレビのニュースで見たけれど、雪下ろしをしていてその下敷きになって三日後に見つかったというところでしょう。そんな雪の深い寒いところなんて、かっちゃんはとても無理だよ。反対だ、やめとき」
 関東以西から見る青森県は、寒い、暗い、田舎だなどマイナスイメージを持っているひとが多い。イメージとしては函館や札幌より北のイメージがある。わずかに知っているのは「津軽」と「十和田湖」という言葉である。津軽のイメージは美空ひばりの『りんご追分』や太宰治の小説などで知っている程度である。十和田湖は美しい湖ということで有名だが、秋田県にあると思っているひとが多く、いずれも青森県のイメージにはつながっていなかった。家族誰一人賛成するものがいなかった。
 この頃の結婚は、恋愛結婚も増えて来てはいたが、見合い結婚がまだ多数を占めていた。正太郎の父はモラロジーの十和田地域の世話役をしていたので、モラロジーの本部に懇意にしている幹部も何人かいた。だから杉本家では本人に直接伝えるのではなく信奉するモラロジーに仲人を頼んだようなかたちで申し込んで来たのであった。
 が、肝心の中村家の家族は、そんなの断りなさいと家族全員が反対であった。

 月見上げ乙女ごころをふるわせし あの日に今もつながっている

昭和37年3月、高校を卒業した佳築子は、ナント運転免許をとるために鳴海町(現名古屋市緑区)にあった自動車教習所に入ったのである。当時、愛知県では自動車教習所はここしかなかった。
 佳築子が自動車の免許を取りたいといったら、父は反対はしなかったが、
 「もし、事故を起こしたときお前は死んでもいいけれど、ひとを乗せて事故を起こすようなことはするな。狭い道で歩行者と出会ったとき、お前が自分を捨てて崖の下に落ちても歩行者を傷つけない覚悟があるのか」と聞いた。
 自動車は便利な乗り物であるが、一方では怖い乗り物であるんだよと佳築子に諭したのであった。
 ともかく自動車免許を取りたかった佳築子は、「ハイ、あります」と答えた。
 この時代、女子は高校を卒業すると一般的には地元の会社に就職するか、いいところの娘は花嫁修業としてお茶やお花を習うとか、あるいは花嫁の箔を付けるために短期大学に行くとかであった。もちろんはっきりとした目標のある女性は大学まで進んだ。が、それはそう多くはなかった。
 ところが佳築子は、短期大学に行こうと思えば行けたのに、自動車教習所に入ったのである。その理由はというと、単に車を自分で運転して乗りたかったからである。受講生には女性が数人いたが若い女性は佳築子一人だけであった。
 昭和35年(一九六〇)、日本史上空前の安保反対運動で退陣した岸内閣に代わって、池田勇人が所得倍増政策を引っ提げて登場した。政治的にはここから日本の経済高度成長時代に入る。が、庶民には車はまだ高嶺の花で、佳築子の父でさえスクーターに乗っていた。
 当時、大衆車というと軽自動車ではカブトムシといわれたスバル360。普通車では後部のトランクがガクッと欠けたダットサン、昭和33年(一九五八)に新発売されたコロナ。翌34年(一九五九)に新発売されたブルーバードなど。圧倒的に多かったのが貨物ではあるがオート三輪や小型三輪車のミゼットなどがまちを走っていた。そして昭和35年にマツダが軽自動車R360クーペを新発売し、車も庶民に手が届きそうになりつつある時代であった。それでも女性のドライバーは珍しかった。
 また、自動車専用の日本初の高速道路、名神高速道路が昭和38年(一九六三)7月に滋賀県の栗東、兵庫県の尼崎間が開通した。
 そんな時代に佳築子は、車にのりたいばっかりに短大にも行かず自動車教習所に行き免許をとったのである。向こう見ずというか、大胆というか、今は死語となっているがいわゆるじゃじゃ馬娘で、自分の思ったことをやらなければ気がすまない佳築子であった。
 免許をとったからには早く車に乗りたい。当時、マツダがキャロル360を、鈴木自動車がスズライトフロンテ360、三菱が三菱ミニカと次々と軽乗用車を発売していた。価格も40万円前後であった。
 佳築子は免許を取ると軽自動車の中古を父から買ってもらった。当時のサラリーマンの給料は、少し前の流行歌の歌詞に「1万3800円」とあった。経済の高度成長期に入ったこのころは、毎年1割ぐらいの割合で給料が上がっていた。が、それでも大学出の初任給はせいぜい1万5000、6000円であったろう。それを中古でも20、30万円したであろう車を買ってもらったのである。18歳の女の子としては贅沢な買い物であった。
 佳築子は運転になれてくると、軽はスピードがでないし、次第に軽では物足りなくなってきた。
 佳築子の父の兄弟が5人、母の兄弟が8人いる。そんなことからいとこが30人近くと多かった。そのいとこ同士は仲が良かった。
 いとこの中には車やオートバイを持っているものもいた。そのいとこたちと三重県鈴鹿市の鈴鹿サーキットに行き250CCのオートバイに乗り飛ばしたこともあった。
 またコロナを持っているいとことは、できたばかりの名神高速道路を走った。アクセルをいっぱいに踏み高速道路を走った。爽快であった。メーターを見ると120㌔であった。120㌔出すと車がギシギシと軋んだ。それでもスピードを緩めることはなかった。まさにスピード狂の佳築子であった。
 名神高速を走っているときである。路肩に車のようなものがあった。車のようなというのは、車であった面影がないほどにぐしゃぐしゃの鉄の塊りとしかいいようのない車があった。事故になると車がこんなになるのか。これでは乗っていたひとは生きていないだろう。そう思った途端にスピードを出すのが怖くなり、しばらくは車に乗れなかった。以後、佳築子のスピード狂は収まるかのように見えた。が...
 佳築子は70歳になるこれまで事故を起こしたのは、仮免のときスピードを出し過ぎてカーブを曲がりきれずよその家の門にぶっつけたのと、事故ではないが違反切符を切られたのは平成6年(一九九四)、佳築子50歳のとき37㌔オーバーでつかまり免停となり、6万円の罰金を取られた以外にはない。
 自動車免許をとった佳築子は、昼は個人でやっている和裁の先生のところに通い和裁を。夜は編み物を習った。手の器用だった佳築子は半年もすると、先生の助手をするほどに上達した。
 これに対して父は、一つのことを極めると、それで食っていかなければならなくなるからほどほどにしておけといった。
 普通なら、手に職を持っていると食いっぱぐれがないから職を身に付けておけというであろう。それが、手に職、つまり技術を身につけるのはほどほどにしておけである。
 これはひとつの人生哲学でもある。確かに佳築子の父のいうように、若いころ技術を身に付けるとその技術でもって一生が左右される場合が多い。ところが若いということは、一方では可能性をたくさん持っているということでもある。若いときに様々な経験をして、その中から自分の進むべき道を見つけて行けばいいのである。
 翌年佳築子は、半田市にあった桐華学園(現桐華家政専門学校)という洋裁学校に入った。桐華学園には週1回料理教室があった。佳築子は料理教室に入り半年もすると一通り覚えたので、調理師の免許を取ろうと思った。が、調理師の免許にはある一定の経験年数が必要である。そこで佳築子は父の実家である旅館かざり屋に行き、板前に話しここで経験したことにし試験を受け、父には内緒で調理師の免許をとった。
 また、従兄弟と一緒にゴルフの練習場に行き打ちっぱなしのゴルフもした。このころの佳築子は、車にゴルフとまさに青春を謳歌していた。
 佳築子20歳。当時は20歳から22、23歳は一般にいう結婚適齢期で、25歳を過ぎると行き遅れといわれた時代であった。このころになると、見合いの話しがたくさん舞い込んできた。4回目の見合いのときである。相手は名古屋の大店の息子であった。見合いには本人と母親が来た。
 この見合いには佳築子と姉の洋子がでた。あとで父が、「姉と妹とどちらがいいですか」と尋ねた。相手は「どちらでもいいです」と答えたという
 佳築子は「何!これ!!」と思った。姉の洋子と佳築子と比べたら、姉は目がくりっとしていて可愛いかった。大概の男だと姉というに違いない。そういわれても姉はきれいだと思っていたから佳築子は傷つかなかったが、それがどちらでもいいですとは何事か。
 名古屋の大店だから玉の輿である。しかしどちらでもいいということは単に跡取りを生んでもらえばいいというだけである。そんなところに行ったら幸せになれるはずがない。当然、姉も佳築子もその見合いを断った。
 そんな佳築子を見ていた伯父が、こんな我儘な娘では将来が思いやられると、モラロジーを学校の理念としていた廣池学園の麗澤高校瑞浪分校(岐阜県瑞浪市)と併設されていた社会人を対象とした廣池学園一般教養講座に入れてしまった。

 自動車の免許をとりて五十年 無事故にすごしし時に感謝す(佳築子)


 昭和34年(一九五九)4月、佳築子は県立内海高校に入学した。内海高校は、美浜町の南に位置する内海町(現南知多町)にあり、佳築子の家からは、県道247号線を4㌔ほど南下した丘陵地にあった。
 入学して1ヵ月は自転車で通っていた。が、その後部活などで帰りが遅くなることもあったためバス通学に切り替えた。国道247号線はまだ舗装されていなかったが、西側は伊勢湾で野間海水浴場や野間灯台があるなど美しい海岸線に沿った道である。
 内海高校は、昭和14年(一九三九)に県立高等裁縫学校として設立され、戦後県立半田高校内海分校となり、昭和32年(一九五七)に県立内海高校として独立した歴史的には新しい高校である。十和田市でいえば三本木高校のような高校である。だから佳築子が入学したときは内海高校になってから2年目ということになる。
 もともと女性を中心とした裁縫学校で、高校としては新しい学校だから校風は大らかであった。
 佳築子は高校に入ると茶道部と生け花部に入った。中学時代は学年一駆けっこが早く、ソフトボール部で活躍するなどスポーツマンであったものが、高校に入ると茶道部と生け花部である。佳築子の中学時代を知っているひとなら、かっちゃんがお茶とお花?!何!!あのお転婆娘がもう花嫁修業??というに違いない。
 実は、痩せでガラでおくての佳築子ではあったが、K君との悲しい初恋を経て高校に入り、胸も多少ふくらみ女らしくなり急速に色気づいてきたのであった。
 茶道は松尾流である。松尾流は文亀2年(一五〇二)と創設は古いが、家元が名古屋市にあり、名古屋を中心とした流派である。学校には家元が直接指導に来てくれていた。
 生け花は石田流である。石田流は、幼いころから花が好きで、関西の諸流派を学んだが、生け花の古い様式にあきたらず、生け花の自由な発展を求めて大正11年(一九二二)に石田秀翆が創設した、これも名古屋を中心とした名古屋由来の流派である。
 お茶の松尾流の直弟子が内海町で教室を開いていた。佳築子と一番仲の良かった満月のような真ん丸顔をした、知多半島の最南端である師崎町(現南知多町)の旅館の娘、中川しほちゃんと二人で部活とは別にその先生の教室に通った。そしてお茶の先生からお花の先生を紹介してもらった。
 母の妹である夏子おばさんが高校の近くに住んでおり、生け花教室で遅くなると、おばさんの家に寄り、そこからバスで帰ることもしばしばであった。 
 しほちゃんが満月のお月さんであれば、佳築子のあだ名は花王石鹸であった。石鹸といっても顔が白いわけでも、いつも石鹸のいい匂いがしているというわけもない。
 当時、花王石鹸のロゴマークは、三日月に、目、鼻、口がついたものであった。佳築子はちょっと面長で顎がしゃくれていた。イメージがその花王石鹸のロゴマークに似ていたことからそういわれた。満月と三日月、いいコンビである。
 父の仕事もうまくゆき、この頃には三種の神器といわれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機が入っていた。贅沢はさせなかったものの、必要なもの、あるいは勉強のためのものであれば何でも買ってくれたし、学校の行事があると行かせてくれた。
 その年の9月26日、忘れもしない大災害に見舞われた。室戸台風(昭和9年)、枕崎台風(昭和20年)と並び昭和の三大台風と呼ばれた、最大風速60㍍以上という伊勢湾台風である。
 新聞やテレビで大型台風が来るから十分注意するよう呼びかけていた。
 台風15号が紀伊半島に上陸したのは9月26日の午後6時であった。このときは風速30㍍程度であった。が、上陸後風速が加速し最大60㍍にも達し、東海地方を中心に、死者、行方不明者5098人という史上最悪の被害をもたらした。特に伊勢湾沿岸の愛知県、三重県の被害が大きかった。
 知多半島を台風が通過したのは午後8時半ころであった。佳築子の家は自宅と、海岸沿いの店とがある。家は台風に備えて明るいうちに雨戸を閉め、畳を起こし窓に立てかけた。
 家と店を護るために、店には父と母と弟が、家には姉洋子と佳築子、妹2人の4人がいた。風が強くなるにしたがって、家がきしみ、屋根の瓦がはがれ、その瓦がまるで木の葉が飛ぶかのように飛び、木がなぎ倒された。電気が消えた。その暗い中、子どもたちは部屋の中央で布団をかぶり、懐中電灯を真ん中に置き震えていた。テレビアンテナが風で飛ばされたようである。同時に屋根瓦も剥がされそこから雨水がザーザー入ってきた。佳築子たちはもう生きた心地がしなかった。
 9時半ころになって父が、「オイ大丈夫か」と言って入って来た。
 子どもたちは、「お父さん!!」といって駆け寄った。まさに地獄に仏である。
 父はこんなに風が強くなるとは思っていなかった。だから子どもたちだけ家においていた。父は風が強くなって30分ぐらいしてあわてて家を出ようとした。が、風速60㍍の風である。とても立っていることができない。子どもたちが怖がっているだろう。何としても行かなければと、座布団を頭と体に巻きつけ、這って来たというのである。家と店の距離は数十㍍で普段は5、6分で行き来できるところを30分もかかったという。父は、「ごめんよ、ごめんよ怖かったろう」と言って子どもたちを抱き寄せた。
 生まれて初めての怖い体験でしたと、佳築子は語る。
 夜、9時頃である。風が急にやんだ。あ、台風が過ぎたと思い外に出た。外は瓦がたくさん散らばっていた。家の屋根を見るとテレビアンテナが飛ばされていた。その屋根の向うに月が出ていた。でもそれは一瞬であった。再び風が強くなり、あわてて家にはいった。この地域がちょうど台風の目に入った瞬間であった。
 幸いに佳築子一家は、誰も怪我することもなく、瓦がちょっとはがれ、テレビアンテナが壊れただけで家も店も無事であった。が、一週間ぐらい停電が続いた。
 台風が去って、近所の人たちと良かったね大したことなくてと喜びあった。が、堤防に死体があがった、あっちで死体があがったなどという、台風の被害の大きさを伝える話があっち、こっちからと聞こえてきた。
 この台風で幸いに美浜町はあまり大きな被害がなかったものの、知多半島のつけ根である伊勢湾沿いの東海市と三河湾沿いの半田市は壊滅的な被害を蒙った。その被害はちょうど高潮時と重なったこともあり、強い風の押された海水が道路が川となり街の中になだれ込み、その水位は数メートルに達した。今でもその慰霊碑が、伊勢湾や三河湾沿いの市町村にたくさん残されている。
 学校では、夏休みや、秋の文化祭、冬休みなどで様々な行事が行われた。
 夏休みには上高地や白馬山などへのハイキングであった。交通費や宿泊費など金がかかるので参加人数は少なかったが、父は、そんな学校の行事には必ず行かせてくれた。そんなときは男子生徒が荷物を持ってくれた。
 また秋の文化祭には盆踊りがあり、佳築子はゆかたを着て出かけた。
 冬のスキーには、姉の洋子がスキーで怪我をしたこともあって、行かせてくれなかった。
 佳築子は顎がしゃくれ、花王石鹸といわれていたほどだから、決して美人顔ではなかった。が、男にはモテた。3年生のときには彼氏ができ、彼氏とのデートの場所は教室であった。
 先生はそれを見て、蓼食う虫も好きずきといった。先生が生徒を蓼食う虫と冷やかすほどであったから何とも大らかな学校である。
 佳築子にとっての高校生活は、伊勢湾台風という忘れることの出来ない大災害に遭ったが、それ以上にまさにプラトニックな「若く明るい...」『青い山脈』の青春時代であった。

 なつかしき幼き日々の 海守の彼の人思う (佳築子)

 昭和31年(一九五六)佳築子は、美浜町立野間中学校に入学した。
 学校は、海岸から丘陵寄りのちょっと高台にあり、周りには田んぼや畑が広がり、家から歩いて30分ほどのところにあった。学校への道は、まばらに散らばる民家の間の道を通り、さらに田畑の中を通って行くのである。家から歩いて5分ぐらいのところにすみちゃんの家があり、さらに10分ぐらい行くとやす子ちゃんの家がある。いつも仲良しの3人組であった。
 勉強はというと、好きな科目は算数と日本史で、次は社会、理科で、英語の先生が大っ嫌いであったから、英語はあまり勉強しなかった。成績はクラスで中の上ぐらいであったろうか、勉強ではあまり目立ったことのない、ごく普通の子であった。
 普段は家で勉強することはなく、試験前になると、まず机の周りをかたずけて、それから勉強に取り掛かるのである。ほとんど一夜漬けの丸暗記であった。
 実は最も得意なのが体育である。ソフトボールと走ることであった。
 佳築子は痩せてガラで、身長は157㌢、体重が38㌔ぐらいであったが、体がきりりと締ったスポーツマンであった。そんな佳築子であったから70歳を過ぎてからも流鏑馬に挑戦するというのであろう。
 中でもマラソンが大得意で、約90人いる学年の女子生徒で、1年生のときは第3位、2、3年生のときは優勝した。
 泳ぎも、子供のころから海で遊んでいたから得意であった。中学校になると全員が海で20㍍泳げなければならない。泳げないものは夏休みに泳げるようになるまで練習させられた。それでも、佳築子の姉の洋子みたいに泳げないものもいたが、佳築子にとっては泳げないのが逆に不思議であった。なぜなら海の水は浮くからである。佳築子は泳ぎ疲れると、仰向けになり力を抜く。すると体が自然にぷかぷか浮くのである。
 ところが海での泳ぎの得意な佳築子であったが、プールで泳いでびっくりしたことがあった。海では力を抜くと浮くが、プールでは手足を動かさなければ浮かない。泳ぐと水がズシリと重く感じた。海水と真水の違いである。
 こんなことがあった。佳築子が中学1年生のときである。
 父が開業した金物屋の一軒置いた隣が名鉄バスの営業所兼停留場であった。
 その停留場の前で3歳になったばかりの純子が三輪車に乗って一人で遊んでいた。当時のバスは、エンジンが運転席の前にある、鼻の出ているボンネットバスである。ボンネットバスは鼻があるため運転席からすぐ前が見えない。
 発車時間になったのでバスが走り出した。2、3㍍走り出したとき、突然停留場にいたひとたちが、バスの後ろを指さし、「ストップ、ストップ!!」と、騒ぎ出した。運転手があわててブレーキを踏んだ。車掌が降りてバスの後ろに行くと、オデコから血を流した純子が泣いていた。何と、バスの運転手も車掌もバスの真ん前に純子がいるのに気が付かず発車してしまったのである。
 あわや大惨事になるところであったが、純子が倒れたまま動かなかったので運よくタイヤで轢かれることもなくバスが通り過ぎたのである。大事件ということで警察まで来て大騒ぎになったことがあった。
 またこんなこともあった。中学校2年生のころであろうか。盆踊りのときである。美浜の盆踊りは海水浴場の砂浜に櫓を建て三日三晩行われる。踊りの好きな佳築子にとっても夏の楽しい行事である。
 佳築子もそうだが、母も姉も夢中になって踊っていた。盆踊りが終わり、いざ家に帰ろうとしたとき、一番下の妹の純子がいない。家が近いからたぶん家に帰っているだろうと思い、みんな家に帰った。
 母は、
 「純子ちゃんただ今、ああ楽しかった。ごめんね純子ちゃん、お母さんたちが夢中で踊っちゃって」といったら、
 父は、
 「何言ってんだ。純子は帰っていないよ」いった。
 そこで初めて純子がいないのに気がついた。
 多分、盆踊り会場のどこかにいるだろうと、あわててみんなで純子を探しに出かけた。
 が、盆踊り会場にはいない。まさか海岸で遊んでいて海に入ったのではないかと海岸を探した。
 「じゅんこー、じゅんこー」とみんなが呼んだが、なんの反応もない。
 30分ほどしたとき、父が「オーイいたぞ」といって純子をおんぶしてきた。
 盆踊り会場から数百㍍離れた富具崎川の河口に真ん中で泣いていたというのである。河口といっても、水は砂浜をさらさら流れるだけの水量が少ない川であった。
 純子にしてみれば、母や姉たちは盆おどりに夢中で純子の方を見向きもしない。つまらないから一人で遊んでいるうちにそこまで行ってしまったのだろう。
 中学3年の修学旅行のときである。中学校の修学旅行は2泊3日で、箱根の大涌谷、日光、東京であった。大涌谷では噴煙地を見、ロープウェーに乗った。日光では東照宮を見た。東京タワーはまだできていなかったが、SKD(松竹歌劇団)などを観た。佳築子はこのとき生まれて初めて中部から箱根を越えて関東に来た。楽しかった。
 大涌谷の旅館で大浴場に入ったときである。風呂に入るにはもちろんみんな素っ裸である。美浜には公衆浴場がなかったし、家に風呂があったから、小さいときは母親と一緒に入ったろうが、小学校高学年からはほとんど一人で入っていた。佳築子はこのとき初めて同級生の裸を見た。
 佳築子は、痩せでガラでスポーツマンであったから体はしまっていたが、いわゆるペチャパイである。
 が、同級生の中にはおっぱいが女らしく膨らんでいるものや、わき毛や陰毛が生えているものなど、一人ひとりが女としての成長度合いが違っていた。これには佳築子もびっくりした。思わずタオルでペチャパイのおっぱいを隠してしまった。と同時に、自分も女であることを意識した。
 そんなこともあり、佳築子も異性を意識するようになっていた。同級生にK君という子がいた。
 家は遠かったが、K君の両親は名鉄バスの営業所で、泊まり込みの管理人みたいな仕事をしてた。名鉄のバスの営業所と佳築子の父の金物屋は近い。だから学校から帰っても顔を合わせる機会が多い。
 K君は、背が高くて、市川雷蔵似のいい男であった。少なくても佳築子にはそう見えた。自分が女性であることを意識し始めた佳築子である。目が合うとドキドキと心臓が破裂しそうになった。が、このK君、中学校を卒業する前に白血病で亡くなった。佳築子は、あれが私の初恋だったのかなと振り返る。悲しい初恋であった。
 佳築子一家は、夕食時には両親と子ども5人全員揃う。食事のときは子供たちが今日あったことをそれぞれ報告し合う。それが面白く、外に聞こえるほど笑い声が絶えなかった。
 近所の人から、かっちゃんの家はいつも賑やかでいいねといわれることが度々であった。
 あれやこれやあったが、こうして佳築子は、学校で特別表彰されることもなかったし、可もなく不可もなく中学時代を過ごした。



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