杉本佳築子物語 夢かぎりなく

 校門の前の桜はもう散り始めていた。ちょっとでも風が吹くものならば花びらはわれ先にとその風に乗り、ひらひらと美しい舞いを見せるのである。それは、この学校に入学する新1年生を祝う歓迎の舞のようでもあった。
 母は、この日ばかりは口に紅をつけ、淡い無地の紫の着物に、黒の羽織をはおっていた。佳築子はときどきその母を見上げ、着物を着た今日の母ちゃんはきれいだなと誇らしげであった。佳築子はその母と手をつなぎ学校の門をくぐった。昭和25年(一九五〇)4月、佳築子は美浜町立野間小学校に入学した。
 佳築子のクラスは50人ぐらいであったろうか。生徒は男の子はほとんど子供服であったが、女の子は可愛い女の子用の子供服や、着物にモンペをはき下駄をはいたものなど様々であった。が、母親たちのほとんどは着物であった。
 また、男の子は坊主頭で、女の子はおかっぱであったが、子どもにしては珍しく一人だけパーマをかけた子もいた。
 担任の先生は母より歳がいっているようであったが、着物に袴をはき、その姿は子どもながら格好よく見えた。
 現在、佳築子は偶然にも呉服屋をやり、洋服はパジャマしかないというぐらい呉服好きであるが、その呉服好きはこのとき刷り込まれたようである。
 それでは出席をとります。みなさん呼ばれたら元気に返事をしてくださいねと先生は一人一人の名前を読み上げて行った。
 「なかむらかつこさん」
 「ハーイ」
 元気印のかっちゃんである。手をあげ誰よりも大きな声で返事をした。そしてちらっと後ろにいる母親に目配りをした。母はニコっと微笑み返しうなずいた。
 佳築子の家の三軒先はすぐ海である。夏は学校から帰ると玄関にカバンを放り投げて海に行った。母は手作りの水着を作ってくれた。姉の洋子は泳げなかったが、佳築子は海であれ山であれ、遊ぶのが大得意であった。夏休みは一日中海で遊び、やせっこでまっくろなかっちゃんになっていた。
 三河湾の東幡豆海岸から1・5㌔のところに猿ヶ島がある。この猿ヶ島はもともとは沖島であるが、名古屋鉄道によって観光開発が行われ日本猿を放し飼いしたことからそう呼ばれるようになっていた。ここに家族で行ったとき、あまり近づき過ぎて猿に襲われたこともあった。
 また、佳築子の家では、家族が食う分ぐらいの田んぼを作っていたので、春になると家族総出での田植えであった。佳築子はその田植えも楽しみであった。佳築子たち子供の役割は苗運びである。田植えをしている父や母が、「オーイ苗がないよ」というと、束ねた苗を「行くよー」といって、田植えをしている母たちのところに苗の束を投げるのである。時折田んぼにいるカエルを捕まえては遊ぶ。そして昼休みの田んぼの畔での昼飯も楽しかった。一面の緑と真っ青な青空。その下での昼飯は家で食べる何倍もおいしかった。佳築子は意外に自然児であった。
 家ではまた 山羊や鶏のチャボを飼い、子どもたちに世話をさせた。山羊の乳やチャボの卵は夕餉の食卓にのぼることもあった。
 佳築子が小学校2年生のとき中村の祖父が亡くなった。これをきっかけとして佳築子たち一家は、倉庫を改造した家から中村の家に戻った。が、子供の多い佳築子一家である。祖母は子供たちがうるさいからと、かざり屋が持っていた家に移り、佳築子の父の兄の奥さんが亡くなっていたので、その子供たちと一緒に住んだ。子供といってももう大きくなっていたのであまり気を使う必要がない。祖母にしては、小さな子供たちと暮らすより、その方が気楽であった。その祖母も佳築子が小学校4年のときに亡くなった。
 中村の家は、かまどもタイル張りで倉庫を改造した家とは比べものにならないくらいきれいであった。そのかまどでごはん炊くのが佳築子の役割になった。釜から泡が噴き出すとかまどの薪を引いて火を弱めるなど、焦がさないように炊くには炊き終わるまでそこから離れられなかった。
 佳築子小学校3年になったころ、琴を買ってもらい姉と二人で琴教室に通った。が、佳築子は、お前は音感が悪いといつも姉と比較され、結局は1年も続かなかった。姉の洋子は、その後続けただけでなく現在なお子供、孫と続いている。
 また踊りは、父の実家であるかざり屋で、小学校に入る前から何かあると踊らされていて、自分では体を動かす踊りは大好きであった。が、これも姉と比較され、佳築子の踊りは品が良くないといわれた。
 父は、「いいよいいよ佳築子は元気が取りえのかっちゃんだからそれでいいよ」といった。だから、音感が悪いといわれようが、品が良くないいわれようがそんなことは全く気にもしないどころか、学校で悪さをして、男の子と一緒にバケツを持って廊下に立たされたこともあるほど、元気印のかっちゃんであった。
 佳築子の得意は、図工に算数、そして運動であり、国語は苦手であった。その国語苦手な佳築子が今は短歌をやり、地元紙である東奥日報やデーリー東北の歌壇に投稿し入選の常連となっている。学校の成績なんてあまりあてにならぬものである。
 野間小学校の遠足は秋である。4年生の遠足のときである。遠足から帰って来たら一番下の妹が生まれていた。
 これで兄弟は長女の洋子、次女の佳築子、長男の清蔵、三女の加代、そして今生まれた四女の純子と5人になった。それぞれ兄弟の性格は皆違う。長女はしっかり者で何をやってもそちなくこなす。次女の佳築子は、何事にもくよくよせず元気印である。長男は男一人であるから、両親から可愛い可愛いで育てられちょっとあまちゃんである。三女は頭が良くてまじめで、しかも可愛いかった。そして四女はどんな子どもになるやら。それから2年ほどして、母が子宮筋腫で入院したとき、洋子は学校を1ヵ月休み母に付き添い看病した。
 父は祖父の不動産屋を手伝っていたが、それをやりながら梅屋という金物屋を開業した。その隣に父の弟が若くして亡くなったこともあり、かざり屋のおばあちゃんがその弟の嫁におもちゃ屋を開業させた。おもちゃ屋ではケーキなどお菓子類も扱っていた。クリスマスになると、かざり屋のおばあちゃんが子供たち全員にまん丸い大きなケーキを一個づつプレゼントしてくれた。ショートケーキではない。そんな大きなケーキ、子どもたちが1日や2日で食える量ではなかった。
 かざり屋のおばあちゃんにしてみれば、孫たちの喜ぶ顔が見たいというのと、おもちゃ屋をやっている息子嫁への援助でもあった。子どもたちにとっては、毎年のクリスマスがまちどおしかった。
 父が、神経痛を患い、田んぼや畑は無理だと、持っていた土地を150万円で売った。2、3年してその土地を買い戻そうとしたとき、150万円で売った土地が750万円にもなっていた。数年で約5倍である。この750万は父一人では買えなかったので兄弟3人で金を出し合って買い戻した。
 それをきっかけとして父は、祖父から独立して本格的に不動産屋に力を入れた。日本の経済の復興時期でもあり大分儲けた。
 佳築子たちがみかんを食いたいといえば、父はみかん一箱ではなく何とミカン畑を買ってくれた。みかんの木が30、40本もあったろうか。育ちざかりの子どもたちが5人もいるから、みかんを箱で買ってもすぐなくなる。日当たりのいいところにあるみかんは甘い。子どもたちは、これはかっちゃんの木、これは洋子の木などと、それぞれおいしい木を見つけては印をつけていた。みかんの収穫は10月頃から始まる。畑に小屋を建て、そこに収穫したみかんを入れて置くと春まではいつでも食べられたし、30、40本分のみかんは春までに残すことなく全部食べた。それだけのみかんを食べると手が黄色くなる。風邪をひいたとき病院に行ったところ、病院の先生がその手を見て黄疸ではないかと心配されたこともあった。
 また、ビワが欲しいというとこれもビワ畑を買ってくれた。ビワ畑には7本のビワの木があった。えびせんは一斗缶で買ってくれた。子どもたちの多い中村家では、父がこうしてまとめ買いをして、あとは子どもたちがそれを自主的に管理させていた。
 小学校6年の卒業式の日、この地方では珍しい10㌢も積もるという大雪であった。

 肩ぐるまの父の背中は大きくて い合いたりわれと妹 (佳築子)


 ももたろうさん ももたろうさん おこしにつけたきびだんご ひとつわたしにくださいな...
 佳築子は、母と手をつなぎながら大きな声で歌った。
 母は、生まれて間もない一番下の妹をおんぶし、左手は佳築子と手をつなぎ、右手には風呂道具やら着替えなどを持っていた。
 父と長女の洋子、下の弟は、父の実家であるかざり屋の風呂に行っている。
 夫婦で同じ家族であるから一緒に行けばいいものを、母にとっては小さな子どもがいるし、家も近いことから実家の五右衛門風呂の方が誰にも気兼ねすることなくゆっくりと入ることができた。
 また、農家の娘にとっては夫の実家はいわば商家である。農家と商家では生活が全く違う。夫の実家には行きにくかったということもある。
 母の実家には祖父母と、18歳と14歳になる母の妹がいるだけであった。
 母には長男の兄もいるが、長男は家から独立して酪農をやり、乳牛を10頭ほど飼っていた。
 母は、帰り道いろんなことを話してくれた。だから佳築子は、今日はお母さんと行きたいなと思うと、「アタシお母さんと」と真っ先に手をあげた。佳築子は行動的であった。
 すると姉の洋子は、じゃアタシお父さんと行くとぼそぼそといった。姉の洋子は佳築子とは性格が正反対であったが、目がくりっとして可愛いかったため、どこに行っても可愛がられた。
 佳築子は、母の実家の五右衛門風呂も、かざりやの風呂も好きであった。風呂が好きというより、風呂上りに出るお菓子が好きという方が正確であろう。
 かざり屋の風呂は旅館であったから様々な買い菓子がもらえた。
 母の実家では、農家であるからサツマイモを蒸して乾燥させた自家製の干しイモや手づくりのほっとくれ餅が出た。
 ほっとくれ餅は、米の粉やもち米に砂糖を混ぜて臼でついて棒状にして切って軽く天日で干した知多半島に伝わる民間の手づくり菓子である。佳築子はこのほっとくれ餅が大好きであった。
 母の実家は、源義朝が家臣に裏切られ殺された義朝の墓のある野間大坊のすぐ西側にあり、佳築子たちが住んでいた家とは歩いて10分程度のところにあった。野間大坊の前には、野間大坊に来た観光客を泊める旅館も数軒あった。
 だから農家といっても街中といっていいほどの場所である。家は大きな母屋があり、中庭を挟んで蔵や作業小屋、養蚕室、鳥小屋があり、農家としては裕福な方であった。ちょっと離れたところに田んぼや畑、桑畑があり、家の前には金柑や武士柑など果物がなる木があった。佳築子たちはそれをとって食べた。
 父貞男が兵隊から帰ってきたのは昭和20年(一九四五)の10月である。帰って来たもののすぐ仕事があるわけではない。まず、食わなければならない。そこで妻さかゑの実家から畑を借りて白菜や大根、ジャガイモなどをつくった。
 朝、荷車に鍬や昼飯、ゴザなどを乗せ畑に行く。子どもたちはその荷車に乗るのが好きだった。
 まだ小さかった弟はゴザを敷き木陰に寝かせ、佳築子と姉の洋子が、春にはタンポポの花を摘んだり、白いクローバーの花で冠や首飾りなどをつくって遊んだ。また、また畑の近くに清水が湧き、そこにはグミの木や桑畑があり、夏になると、グミや桑の実をとって食べた。桑の実を食べると、手や口が紫色にそまる。桑に実を頬に塗り、二人はそれを見合って大笑いをした。子どもたちは遊びの天才である。野山で全く退屈しなかった。
 母は、農家から抜け出したくて月給取りの嫁になったのにと、笑いながらぼやいていた。しかし、戦後食糧事情の悪い中でも、母の実家は農家であったということもあり、他の人たちのように着物をヤミ米に換えたりする必要もなく、食べるのに困るということはなかった。
 佳築子たち一家は、最初は中村の家で祖父母と一緒に生活していた。昭和23年(一九四八)に末の妹が生まれた。子どもが増えるにしたがって、子どもを育てたことがない祖母は、子どもの泣き声や、家の中を走り回る音は耳障りであった。佳築子たちは「うるさい!!」って怒鳴られることも度々であった。
 祖母は都会の生まれで、子どもが出来なかったこともあり子育ての経験がない。
 この祖母のもとで農家出の妻がどれほど気を使っているであろうか。父貞男は妻の気持ちを察し、貞男の実家のかざり屋の倉庫を借りそこに移った。
 10歳年下の妻は可愛いということもあったろう。父は、何処へ行くにもいつも母を連れて行くなどのおしどり夫婦であった。
 中村の家にはタイル張りの立派な風呂はあったが、倉庫には風呂おろか、飯炊きをするカマドさえなかった。カマドは手の器用な父が作ったが、風呂はそれぞれの実家でのもらい風呂であった。
 倉庫の家は、子どもたちも母も誰彼に気を使う必要がない。子どもたちが家の中を多少走り回っても、父も母も、子どもってそんなもんだと叱ることはなかった。家の中はいつも笑い声がたえなかった。
 母のつくる料理、特にうどんの作り方がうまかった。かざり屋からブリやタイの魚の粗をもらうことも多かったから、時折かざり屋のおばあちゃんを呼んで食べてもらうこともあった。
 「かっちゃんのお母さんのつくるうどんは美味しいね」といつもほめられた。
 母は、3月3日のひな祭りには桜餅を、5月5日の端午の節句にはちまきを、彼岸にはあんころ餅を、お月見には団子をと、季節季節の祝い日には、供え物を作り祝ってくれた。
 かざり屋の祖父は不動産の仕事をしていた。やがて父貞男は祖父の手伝いをした。不動産の仕事は、朝から晩まで仕事をしても間に合わないほど忙しかった。
 それは、空襲で名古屋が全焼した他、終戦により中国や朝鮮など外地からの引揚者や帰還兵たちで、住宅が圧倒的に不足していたからである。名古屋方面からも毎日のように家を探す人たちが来た。不動産の仕事が忙しくなるにしたがって、父貞男の収入も当然のことだが増えていった。
 佳築子が5歳になったときである。子どもたち4人ともハシカにかかってしまった。ハシカは空気感染をする非常に強い感染症だが、むかしは子どもは必ずハシカに1回はかかる。1回かかればもうかからないから早くかかった方がいいといわれていた。しかし実際には、ハシカで亡くなったり後遺症が残ることもある。
 ハシカは小学校に入ったばかりの洋子が学校に行きもらってきたのである。佳築子たち兄弟4人とも一斉に寝込んでしまった。38℃から39℃の熱が三日、四日と続いた。
 ハシカは1歳ごろかかるのが多いが、歳がいくにしたがって症状が重くなる。下の弟と妹が五日目にもう起きていたが、佳築子と洋子だけは熱が下がらず足腰も立たないほど重症であった。医者も危ないかもしれないと父にいっていた。両親はこんなことで死なせてはならんと一生懸命に看病してくれた。
 父は寝ている二人にカステラを買ってきてくれた。そのカステラのうまかったこと。佳築子は起き上がるまで1ヵ月かかった。それまでは佳築子はふっくらとしていたが、このハシカでがりがりに痩せてしまった。
 近所のおじさんから「かっちゃんカズノコ鰊の子 かっちゃんがりがりにやせてやせっこ」といわれた。
 むかし北海道で鰊は猫も見向きもしないほどたくさん獲れた。その鰊の子はカズノコである。「かっちゃん数の子」は、カズノコとかっちゃんと呼ばれていた子どもとの語呂合わせのからかい歌である。
 佳築子はハシカにかかる前はふっくらとしてたが、ハシカで1ヵ月寝込んだことによって、そういわれるほどがらがらに痩せてしまった。
 夜、両親が子どもたちの足を洗ってくれた。洋子ちゃんの足が大根のようだけどかっちゃんの足はまるでごぼうだねといわれた。佳築子は、親からもそういわれるほどがりがりに痩せてしまった。

 十五夜の月仰ぎみし幼き日 の作りしだんごのうまき(佳築子)

 伊勢湾と三河湾をさえぎるかのように細長く突き出た知多半島。半島の最南端は南知多町で、その一つ手前にあるのが美浜町である。美浜町の東西は海に挟まれ、東側は三河湾に、西側は伊勢湾に面している。
 そして、両海岸に向かって平地が広がり、そのほぼ中央を標高30㍍ほどの知多丘陵が南北に走っている。
 気候温暖で、美浜のその名の通り海岸線は美しく、伊勢湾側には海水浴場が4つあり、夏になると名古屋圏からの多くの海水浴客で賑わう行楽地でもある。
 また、伊勢湾側には愛知県で一番古い野間灯台があり、この灯台の周囲にあるフェンスに南京錠をかけると恋が結ばれるという伝説があり、錠前の重さでフェンスが倒れることもあったというほど、若者に人気のスポットである。
 人口は約2万4000人(平成26年1月現在)で、鉄道は名古屋鉄道河和線と、河和線の富貴から分かれた知多線がある。幾つか乗換えが必要であるが、いずれもJR名古屋駅から35分程度である。
 美浜には、三河湾に面する河和港と伊勢湾に面する上野間港と漁港が二つあり、漁が盛んである。特に天然トラフグが有名である。
 また、河和港からはカーフェリーも出ている。
 美浜にはまた、一時問題となった戸塚ヨットスクールがある。
 海岸は遠浅であることからむかしからノリの養殖が盛んで、「野間のり」はブランドになっている。また、アサリがたくさんとれ、潮干狩りには沢山の人で賑わう。
 一方、丘陵地では酪農が行なわれ、ミカンなどの果樹類や野菜、花卉の栽培などが行なわれ、季節にはイチゴ狩りやミカン狩りなども行なわれている。いわば海の幸、山の幸、漁業と農業に恵まれた豊穣な土地であると共に、名古屋圏の週末の行楽地ともなっている。
 また歴史的には、平安の末期、鎌倉幕府を設立した源頼朝の父義朝が、平治の乱(一一五九)で平清盛に敗れ京都からこの地に落ち延びた。が、家臣に裏切られ入浴中に謀殺された場所でもある。義朝38歳の若さであった。
 義朝は、「ここに一ふりの太刀ありせばかかる遅れはとらぬものを」と言い残したといわれる。
 後に徳川家康が義朝、頼朝親子を「武神」として敬ったこともあり、義朝の墓所のある野間大坊は人々に知られ、現在は美浜の観光名所の一つになっている。
 佳築子はその美浜町に昭和19年(一九四四)1月1日、父中村貞男、母さかゑの5人兄弟の次女として生を受けた。
 父の、もともとの姓は渡邊であったが、祖母の実家である中村家に跡取りがなかったことから、三男坊ということもあり中村家に養子に入ったのである。
 父の実家である渡邊家は関ヶ原の戦い(一六〇〇)のころに知多に来たといわれているから400年以上の歴史があり、江戸の後期には櫛やかんざしなどを営む飾り屋であったらしい。が、明治維新以降旅館に商売替えをし、現在は美浜・海鮮料理「旅館かざりや」として、美浜を代表する旅館の一つとなっている。
 この渡邊一族には、父の兄の子ども、佳築子の従兄弟にあたる渡邊元嗣がいる。元嗣は、東大医学部を出て、医局に入った。が、「私が目指したのは人の命を救う臨床医だった。そう思って故郷を出たのではなかったか。故郷の人々のために尽くすのが私の進むべき道だ」と、大学での研究に見切りをつけ、昭和36年(一九六一)美浜に戻り渡辺医院を開業。現在は、111床の渡辺病院他、渡辺病院検診センター、介護老人保健施設、訪問看護ステーション、居宅介護支援センターなどを経営する、美浜町の中心的医療機関として活躍している。
 父が養子に入った中村家、つまり佳築子の生まれた家はこれも300年ほど続く古い家柄で、渡邊家から歩いて2、3分のところにあった。
 当主中村清太郎は中村家の10代目で、大阪商船の船長をやっていたというが定かではない。
 大阪商船は、明治17年(一八八四)に瀬戸内海の船主55名が、93隻の船を現物出資して設立した会社で、その後三井船舶と対等合併し、戦前は日本郵船と並んで日本の二大海運会社として世界にその名が知られた船会社である。
 中村清太郎はその大阪商船の幹部であったからかなり裕福な生活をしていた。
 父貞男はその中村家の養子となった。成績は優秀で、中学校は美浜の自宅から、この知多半島ではいち早く市制を施行した半田市の中学校に通った。半田の中学校までは、自宅から自転車で30分ぐらいかけて国鉄武豊駅に行き、そこから汽車で4つ先の半田駅で降りるのである。自宅から学校までは1時間近くかかった。
 しかし4年生のとき身体を壊し休学。そのまま中退してしまった。
 その後、学校にも行かずぶらぶらしていたが、20歳を過ぎたころ商社に入り満州に渡りハルピンに行った。こうしてハルピンで10年ほど仕事をしていた。
 昭和16年(一九四一)貞男は31歳になっていた。いつまでも一人でいるわけに行かず、一時帰郷すると、農業をやりたくないという農家の娘さかゑを嫁にもらった。さかゑは21歳。貞男とは歳が10歳離れていた。それまで遊び人で通してきた貞男。それだけに番茶も出花の娘盛りで、10歳も年下のまぶしいほどのおぼこ娘のさかゑは可愛いくてしょうがなかった。
 よほど嬉しかったのであろう。当時はあまりなかった新婚旅行にさかゑを東京に連れていった。さかゑにとっては初めての東京であった。
 また名古屋の松坂屋デパートに連れて行き、「このデパートで一番高いものを買ってやるといった」。さかゑは半信半疑で、「本当ですか」というと貞男は、「本当だ。男には二言はない」といった。
 農家から抜け出したいと思い、17、18歳のころから、近隣の農家からやいのやいのとあった幾つものの縁談を断わり続けてきた。農家からの縁談は、働き手が欲しいだけであった。さかゑはそれが嫌であった。ましてや月給取り(サラリーマン)の嫁になるのは、農家の娘にとっては夢であった。さかゑはそれが叶ったのである。
 女が欲しいものというと宝石か着物である。さかゑは呉服売場に行き、「ここで一番高い着物が欲しい」といった。
 貞男は、「よしわかった」といって、店員にこの呉服売場で一番高い着物を出させた。それは最高級の結城紬であった。そんな高い着物を貞男は新妻にポント買ってやったのである。ハルピンの会社では相当の高級取りであったろうことが伺われる。さかゑはこんな高価なものを買ってもらったのは後にも先にもこのときだけであった。
 結婚すると妻さかゑも一緒にハルピンに連れていった。が、子どもができたことがわかると、やはり親がいる内地で生んだ方がいいだろうと、貞男はさかゑを日本に送ってくると、またすぐハルピンに引き返した。
 昭和19年12月7日、マグニチュード8の東南海地震が襲った。美浜はそう大きな被害はなかったものの、生まれて初めての大地震であった。長女洋子が2歳、佳築子が生まれてまだ1歳に満たない乳飲み子。母さかゑは必死で二人の子どもを守った。
 昭和20年(一九四五)3月、アメリカ軍が沖縄に上陸。1000人以上の島民が集団自決するなど痛ましい犠牲者が出た。そして3月には名古屋がB‐29爆撃機230機による大空襲を受け、一夜にして15万1000人が被災、826人が死亡した。日本の敗戦はもう誰も目にも明らかになっていた。
 その6月、貞男はすでに35歳になっていた。徴兵制度は、後備兵役及び補充兵役の上限が32歳になっていたが、35歳になっていた貞男にも召集令状が来た。多くの若者が戦場で亡くなり、男ならだれ彼かまわず召集する、日本はそんな末期的な状況になっていた。
 貞男は岐阜に招集された。岐阜には陸軍の施設として、陸軍航空整備学校があった。帰還後貞男は兵役についてほとんど話したことはなかったが、多分ここではなかったかと思われる。
 この航空整備学校は、本来は、飛行機の整備を担う少年飛行兵を志願する生徒の教育機関であった。

 伊勢の海岩に砕くる波しぶき 日にひかるわれのふるさと (佳築子)

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 「あたしね、今年は午年でしょ、流鏑馬に挑戦しようと思うの。3本打てなくてもいいのよ。1本だけでもいいの」酒の席のざわめく中で佳築子の声は甲高く響いた。
 流鏑馬は、馬上における実践的弓術のひとつとして平安時代に始まったとされ、以後小笠原流弓馬術礼法として、あるいは青森県では八戸櫛引八幡宮など、由緒ある神社の神事として引き継がれてきた。
 現在はこの流鏑馬がスポーツ化され、十和田市では4月下旬の桜の時期には女流騎士だけによる豪壮華麗な「桜流鏑馬」、また秋には「駒フェスタ」の中での流鏑馬全国大会が行われている。
 流鏑馬大会ともなると180㍍のコースを、弓を持ち、馬に跨り10秒台で走り、その10秒間に45㌢四方の的に3本の矢を射るのである。
 佳築子がいうように、たとえ矢を1本だけ射るとしても、全力疾走する馬に跨り、弓を持って手綱を放して乗る、バランスと集中力の技のであるから、若いひとならいざ知らずそう簡単なことではない。
 しかも、1月1日に満70歳を迎えた佳築子である。
 「いいね。よしやろう」と中利こと中野渡利彦が言った。
 皆は、それに賛同するのでもなく、無理だというでもなく、それぞれにワイワイガヤガヤ話をしていた。
 今日は、健康乗馬クラブの今年初めての例会で、昼は乗馬クラブから駒っこランドまで、外場トレッキングをした。ちょっと雪がちらついていたが、北国の1月にしては青空の見える上天気であった。
 今年初めてのトレッキングということもあって18名が参加した。
 そしてその夕方5時から、やはり健康乗馬クラブの副会長である「スナック慕情」のママ田中文子の店での懇親会であった。懇親会には14、5人ほどが参加していた。
 集まっているのは最高齢75歳の三浦さん、73歳のこの会の会長である佐藤さん、そして72歳で年男の中利と小笠原などと、この会では60歳代の前半はまだ若者であった。会員の圧倒的多くは60代を過ぎてから乗馬をやった人ばかりであった。が、佳築子のように流鏑馬に挑戦しようと思っている者はいなかった。
 日本は超高齢化社会になり、高齢者が元気になったといわれているが、この会も元気な一般的にいう高齢者たちが集まっていた。ということより、この人たちを高齢者呼ばわりするものなら、俺はまだ年寄りじゃないぞと怒るであろう。
 確かに、周りを見渡すと、95歳で青森大学などを経営する青森山田学園の理事長に就任した盛田稔さんがいるほか、80歳を過ぎてなお活動している人たちがたくさんいるからである。
 全国を見渡すと聖路加国際病院理事長のように100歳を過ぎてなお活動している人たちがいる時代である。
 集まっているメンバーは会社の社長さんから地元北里大学の名誉教授、弁護士、お医者さん、スナックのママ、新聞社の編集長、あるいはリタイヤした元サラリーマン、現役のキャリアウーマンなど、会員は30名ほどで多士済々である。といっても高級な乗馬クラブではない。いたって庶民的で希望するものは誰でも入会できる乗馬クラブである。
 この健康乗馬クラブは、十和田乗馬倶楽部を経営している中野渡利彦が、5年ほど前に現会長である佐藤清など仲間を数人誘って、八甲田連峰の麓、湯ノ台から蔦川の上流へと、ブナの二次林を馬でトレッキングしたことから始まった。ブナ林の中を馬に乗り行く爽快さに魅了されてしまった。
 以後、ブナの二次林のみならず奥入瀬渓流や小川原湖畔、三沢海岸などをトレッキングし、会を立上げ、名前をJRの「大人の休日クラブ」をもじって「十和田の休日乗馬クラブ」にしていたが、それじゃまずいだろうということで、健康乗馬クラブを改名したばかりであった。
 佳築子も2年ほど前からこの健康乗馬クラブに入ったが、年6回の例会はほとんど休まず参加していた。
 佳築子の本業は呉服屋である。私、洋服はパジャマしか持っていませんという佳築子。馬に乗るときも着物を着て、モンペをはいて乗るのである。
 さて、佳築子が流鏑馬に挑戦できるかどうかはもう少し後のことにして、どこにこんなエネルギーがあるだろうと思うほどエネルギッシュに様々なことをやっている。
 まず、本業は杉本商店、すぎもとショッピングセンター、そして呉服の成巴と、四代続く商家の当主である。業種や社名が変わり、夫は若くして亡くなったものの、現在は成巴を経営する社長さんである。
 そして十和田市倫理法人会の専任幹事である。倫理法人会というのは、戦後の混乱期に丸山敏雄という人が唱えた「純粋倫理」に基づいた、一般財団法人倫理研究所の法人会員によって組織された、経営者の自己変革の会である。
 佳築子はこの十和田市倫理法人会の会長を三期やり、専任監事の三期目である。佳築子が目に見えて変わったてきたのはこの倫理法人会に入ってからであった。
 倫理法人会は、似たような名前の会もあるので、それに間違われることもあるが純粋な経営者の会である。
 その他、国際的なボランティア団体である国際ソロプチミスト十和田や、地元のボランティア団体である特定非営利活動法人どんぐりの森・山楽校、とわだ夏おどり実行委員会、そして今日の会である健康乗馬クラブなどである。
 また、短歌を詠み、地方紙である東奥日報やデーリー東北の歌壇に数多く入選している。
 「私、嫁に来たとき、箱入り嫁だったのよ」という佳築子。良家のお嬢様育ちで、昭和42年(一九六七)尾張名古屋から東北の片田舎であるこの十和田市に嫁に来た。その箱入り嫁は、70歳になった今、あれもしたい、これもしたいと夢かぎりなく、心は青春真っ盛りである。
 *厳冬の1月に、着物にモンペ、マントを羽織り、颯爽と馬に乗る佳築子(佳築子69歳)

 新雪の林道をゆく馬上にて 折深雪に歩調はばまる (佳築子)

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