BUNKA新聞社30年の歩み

どんぐりの森・山楽校(下)

 平成22年(二〇一〇)
 どんぐりの森・山楽校の杉を伐採した跡を、ブナの癒しの森にしようと緑化財団に申請したところ助成金が決定した。
 どんぐりの森・山楽校では市民に呼びかけどんぐりの森植樹祭推進会議を結成、植樹の準備を進めた。

 平成23年(二〇一一)

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 この年の3月11日、マグニチュード9・0の東日本大震災が発生。津波での被害と共に福島原発が水素爆発し、岩手、宮城、福島を中心に甚大な被害をもたらした。
 またこの年は国際森林年でもあった。どんぐりの森・山楽校ではポスター、チラシを作成し、市民に呼びかけブナの植樹者を募集した。
 こうしてブナの苗木1300本を購入、6月4日、約3㌶のどんぐりの森・山楽校にブナの植樹を行った。これには三沢市から大型バスを仕立てるなど近隣市町村及び在住外国人を含め144人が参加した他、十和田市の副市長や三八上北森林管理署長も参加。植樹祭が終わったあと、山菜汁などをつくり参加者と交流した。20年、30年後にはどんぐりの森がブナの癒しの森になるであろう。

 平成24年(二〇一二)

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 6月/ベトナムの留学生がどんぐりの森・山楽校を訪れブナの植樹を行った。同じ6月に第1回ブナのオーナー初夏の集いを行った。これはブナを植樹した人たちに自分の樹としてブナが大きくなるまで管理し育てていただこうというもの。

 平成25年(二〇一三)

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 5月/ゲンジボタルの餌であるカワニナを養殖していた法奥小学校5年生の児童20人が、どんぐりの森・山楽校にゲンジボタルの幼虫200匹を放流。同7月、同小児童及び保護者約60人がホタルの観賞に訪れた。どんぐりの森・山楽校をホタルの名所にする取り組みである。

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 平成26年(二〇一四)

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 どんぐりの森・山楽校の恒例事業として、3月/十和田湖瞰湖台へのスノートレッキング、4月/山開き、5月/ホタルの放流、自然を丸ごと食べよう、6月/ブナのオーナーの初夏の集い、7月/ホタル観賞会、9月/パークゴルフとダッチオーブンの集い、10月/松見の滝ハイキングなどが定着した。
 自然を丸ごと食べようや「ブナのオーナー初夏の集い、ホタルの放流、ホタル観賞会、松見の滝ハイキングには、市民や子どもたち、北里大学学生などが参加。こうしてどんぐりの森・山楽校には年間延べ500~600人の市民が訪れるようになっている。
 また、平成27年(二〇一五)には、再び緑化財団の助成金がつき、今度はどんぐりの森・山楽校を紅葉の名勝にしようと紅葉苗を300本植樹する予定である。



 まちづくりコーディネーターの資格を取得した私は、塾長に長編叙事詩『三本木の風土と栄光』を書いた和栗秀一北里大学名誉教授を迎え、私が事務局長をやり「十和田まちづくり塾」を開講した。ここからが私の「まちづくり」というはっきりとした目標をもったまちづくりが始まった。
 塾生の募集に当たっては、私の友人や知人たちに声をかけた。また、会場は公共施設であると夜9時で終わらなければならない。できれば時間を気にしないでじっくりと話し合いをしたい。そこで、商工会議所の飲む席で知り合った、まちづくりに強い関心を持っていた山崎製パン十和田工場の工場長に、「実はまちづくりの話し合いをする場所がなくて困っているんだけれどいいところないですか」と相談したところ、「じゃうちの施設で使っていないところがあるからそこを使えよ」と快く引き受けてくれた。
 まちづくり塾に賛同し参加してくれたひとは、会場を提供してくれた山崎製パンの工場長をはじめ、大学教授、元十和田市助役、銀行員、中小企業の経営者、歯科医、元教員など33名であった。
 平成12年(二〇〇〇)3月25日、第1回目の話し合いが行われた。参加者は皆初めて顔を合わせるひとばかり。まず自己紹介をし、それぞれのまちづくりへの熱い想いを語ってもらった。終了したのが午前零時であった。

①馬でのまちづくりと馬関係団体の設立

 例会は毎月1回。塾生にどんな十和田市をつくるか、話し合いと共にそれぞれレポートを書いてもらった。
 それをジャンル別に分類し、①街のマップ作成委員会、②馬でのまちづくり委員会、③高齢化「夢」社会づくり委員会、④若い世代が活気あるまちづくり委員会、⑤NPO法人研究委員会の5つの検討委員会を設けた。
 こうして1年間討議。その中で最も話が弾んだのが、塾生の中に乗馬倶楽部を経営している中野渡利彦会長がいたこともあり、十和田市は馬でまちづくりといって、馬の文化資料館「称徳館」の建設や、官庁街通りに馬の彫像をつくっている。十和田市は戦前は日本最大の軍馬補充部があり、昭和30年代まではどこの農家でも馬を飼っていた。馬でのまちづくりというならやっぱり生きた馬でなければ意味がない。まちの中に馬のいる風景をつくろうと、「生きた馬でのまちづくり」を掲げた。
 以下、塾生が中心となって設立した馬関係団体を紹介しよう。

 【平成13年(二〇〇一)】「子ども乗馬クラブ」設立

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 馬でのまちづくりはまず子どもたちに馬に親しんでもらおうと、十和田乗馬倶楽部の協力で最初に設立したのが「子ども乗馬クラブ」であった。子ども乗馬クラブでは軽乗を指導した。

 【平成14年(二〇〇二)】「馬事振興協会」設立

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 十和田市にはかつての馬のまちだけあって、十和田馬術協会、北里大学馬術部、三本木農業高校馬術部、十和田乗馬倶楽部など、馬関係団体が幾つかある。それら馬の関係団体がひとつとなって年1回の馬のまつり「駒フェスタ」を行うことになった。その駒フェスタを企画・運営する組織として馬事振興協会を設立した。写真は、馬事振興協会が主催した第1回駒フェスタ。

 【平成15年(二〇〇三)】官庁街通りで馬車運行

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 馬を飼っている農家にお願いして、十和田市で初めて馬車を運行した。写真は、官庁街通りで最初に運行した馬車。

 北海道より和種馬6頭購入「馬主協会」を設立
 馬でのまちづくりは、駒フェスタや馬車運行へと発展。馬への想いが強くなり、自分たちで馬を持とうじゃないかと塾の有志が金を出しあい北海道から和種馬6頭購入。馬主協会(当初は乗用馬生産協会)を設立した。

 【平成16年(二〇〇四)】「NPO法人十和田馬主協会」及び「NPO法人駒ネットワーク十和田」設立
 平成17年に駒っこランドがグランドオープンすることが決まった。それに伴い、十和田市から駒っこランドのうち「駒っこ牧場」の管理・運営を馬主協会に依頼された。
 が、市の条例上、管理する団体は収益を伴う事業を行うことができない。そのために馬主協会を分離し、牧場の管理部門としてNPO法人十和田馬主協会を、収益を伴う運営部門としてNPO法人駒ネットワークをと2つのNPO法人を立ち上げた。

 【平成17年(二〇〇五)】NPO法人十和田馬主協会及びNPO法人駒ネットワークが管理・運営に携わる

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 4月に駒っこランドがグランドオープン。「駒っこ牧場」の指定管理を受け、管理部門をNPO法人馬主協会が、運営部門をNPO法人駒ネットワークが受託した。

 【平成18年(二〇〇六)】まちづくり塾解散
 まちづくり塾を開講して6年、最後まで残った塾生は11人であった。
 以下、まちづくり塾がつくった平成18年当時の団体及び塾生のそれぞれの役割(役員のみ)を紹介しよう。

 十和田馬事振興協会
 和栗秀一(会長)、佐々木敏雄(副会長)、黒沢一郎(事務局長)、中野渡利彦(理事)、古賀隆也(理事)、小笠原カオル(理事)

 NPO法人十和田馬主協会
 佐々木敏雄(理事長)、古賀隆也(副理事長)、佐藤清(事務局長)、中野渡利彦(理事)、小笠原カオル(理事)

 NPO法人駒ネットワーク十和田
 小笠原カオル(理事長)、佐藤清(事務局長)、佐々木敏雄(理事)、黒沢一郎(理事)、古賀隆也(理事)、斉藤一友(監事)
 この駒ネットワーク十和田は、後に条例の改正により、運営する団体でも収益を伴う活動を行ってもいいということになり、駒ネットワークは解散し馬主協会に一本化した。

 子ども乗馬クラブ「駒っこクラブ」
 小笠原カオル(会長)

 このように、塾生がそれぞれの団体の責任ある立場に就いたので、第1期のまちづくり塾はその役目を終えたとして、平成18年6月に解散総会を開き解散した。


 ①民話フェスティバルから市民ミュージカルへ

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 昭和61年(一九八六)5月、十和田市文化関係者待望の十和田市民文化センターが開館した。それは昭和36年(一九六一)、当時の文団協(現文化協会)が文化センター(当時は市民会館)の建設運動を掲げてから実に四半世紀25年ぶりの待ちにまった文化センターの開館であった。
 初代館長に就いた今純一郎氏は、文化センターは条例上は貸館であるが、十和田市民文化センターは文化を育てる場であるとし、市内の事業者から資金をつのり「文化振興基金」をつくった。この資金をもとに楽器を買い十和田フィルハーモニー管弦楽団や、ジュニアオーケストラ十和田、混声合唱団、少年少女合唱団、こども劇団、など、市民がサークル活動としてはできないものを、行政が金を出し、市民が運営するという形でつくった。
 この十和田市民文化センターの開館で、文化の砂漠といわれていた十和田市文化の勃興が始まる。
 文化センターが開館して3年ほど経ったころ、文化センターの担当者から、「そろそろ市民の手で何かやらないか」という話があった。私の頭にあったのは岩手県遠野市の「民話ファンタジー」であった。
 そこで劇団の関係者ら数人で遠野市の「民話ファンタジー」を観に行った。そして私が実行委員長となり十和田民話フェスティバル実行委員会を立ち上げた。
 こうして平成2年(一九九〇)、十和田湖伝説を題材に私がシナリオを書き、第1回とわだ民話フェスティバル『八郎太郎とばっこ石』が上演された。この民話フェスティバルは地元に伝わる伝説や民話を題材にし子どもからお年寄りまで参加する舞台劇である。私はこの第1回と第3回のシナリオを書かせてもらい、民話フェスティバルが市民ミュージカルに発展。以後十数年続き、新聞やテレビなどでも取り上げていただいた。
 これが私の文化でのまちづくりの最初であった。
 が、そのときはまだ、文化でのまちづくりのはっきりした理念を持っていなかった。

 ②全国生涯学習まちづyくり協会福留強氏に出会う
 そんなとき私に送られてきたのが、秋田にある民族歌舞団わらび座(当時)の機関紙月刊『わらび』の平成7年(一九九五)4月号であった。
 この号の特集は「芸術文化によるまちづくり」であった。それには同年2月にわらび座で「芸術・文化によるまちづくりフォーラムin田沢湖」が行われた。そのフォーラムの基調講義は、福留強氏(当時/全国生涯学習研究センター所長・九州女子大教授)による「芸術文化によるまちづくりの可能性」で、福留氏は芸術文化によるまちづくりとは何か、そして芸術文化によるまちづくりの例を紹介していた。

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 一瞬、目の前が明るくなった。あ、俺が今までやってきた「ふるさとを歩く会」や「ふるさとコンサート」、「民話フェスティバル」、「市民ミュージカル」は、文化芸術によるまちづくりの一貫だったんだということに気づかされた。そして平成10年(一九九八)に、BUNKA新聞社の方針の一つに「文化でのまちづくり」を掲げた。
 私は十和田市文化協会の事務局をしていた。文化協会に文化でのまちづくりを提案。文化協会では文化でのまちづくりの先進地、高校生を対象に「写真の甲子園」を行っている北海道東川町、野外彫刻美術館「石神の丘美術館」がある岩手県岩手町、民謡『ドンパン節』発生の町で「ドンパン節」でまちづくりをしている秋田県大仙市などを訪れた。
 それでは十和田市では何をやろうかと役員会で討議。ちょうど十和田市文化協会が創立40周年の節目であったということもあり、その記念事業の一つとして、全国から短歌、俳句、川柳の短詩型文学を募集して、その入選作を「日本の道百選」に選ばれた作品を官庁街通り石に彫り埋め込み、光と風のアートプロムナード「野外文芸館」づくりをしようと決定した。「野外文芸館」が10年間続き、現在官庁街通りに短歌、俳句、川柳の作品が161基が埋め込まれている。これが私が意識して取り組んだ最初のまちづくりである。と同時に、十和田市文化協会創立40周年記念誌として『十和田市文化運動史』(平成10年)を上梓した。
 文化センター開館から12年。それまでの十和田市は津軽選挙と並び称される政争の激しいまちとして有名であった。が、文化の高まりと共に不思議とそれが影を潜めてしまった。
 私は、平成9年(一九九七)より十和田市民大学の企画運営委員をしていた。その講師に福留強氏をはじめ、日本ふるさと塾主宰・まちづくりプランナーの萩原茂裕氏、下田町のジャスコ誘致に係った大阪産業大学の紺野修平教授など、まちづくりの講師を招聘し、まちづくりのノウハウを学んだ。同時に、福留強氏が主宰する全国生涯学まちづくり協会に入会。2年間通い、論文が認められまちづくりコーディネーターの資格を取得した。

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 新聞の発行を継続するには、読者とともにそれを経済的に支えてくれのがスポンサーである。当時の七戸町は人口は約1万2000人、三沢市は約4万人。当然そこで営業する事業者も少ない。つまりスポンサーの数が少ないのである。それでも「Culture Plazaしちのへ」は第29号まで、「Culture Plaza三沢」は第12号まで発行したが、支えきれなくなり平成5年(一九九三)6月、BUNKA新聞社創立10周年を機に、十和田版、七戸版、三沢版の3紙を併合。新たに「上十三人間情報紙 夢見る人」と改題して発刊した。
 その「夢見る人」第1号に、「何故変えるか」として次のように書いている。
 「郷土の歴史・文化・人の掘り起しを目標に掲げてきた文化新聞も、読者、スポンサー、執筆者に支えられ十年になりました。
 この十年は「一〇〇号記念紙」の歩みで紹介したように、十和田、三沢、七戸を中心とした上十三地域の文化の向上にいくばくかでもその役割を果たせたのではないかと自負しております。
 また、昔から十年一昔といいますが、この十年間に意識や価値観が随分と変わってきました。
 身近なところでいうと、ワープロ、パソコン、ファックス、カード、携帯電話など、エレクトロニクス機器、通信、情報網の発達。モータリゼーションが発達し車が一人一台の時代に入った。高齢化社会への突入。女性の意識の変化。地方市町村の過疎化が恒常化し、まちづくり、むら興しが行政の主要な課題となった。農村に農業の後継者がいなくなり、農業を支えているのは六〇~七〇パーセントが六十才以上のお年寄りになった。役所、企業が週二日制の時代に入ったなどとたくさんありますが、その中でも一番大きな変化は、価値観、意識の変化です。
 周りがこのように変化してきている時に、その時代の風の匂いを敏感に感じ取り、それに対応して行くことが必要です。そういった意味では、やはり十年が一つの区切りです。
 時代の進展と要求にあった、あるいは時代を先取りする新聞を作る。これが文化新聞が変わる理由です」
 そして、「次の十年はどんな新聞をつくるか」として、
 「...隣の岩手県まで新幹線が来て、青森県に来ない。一方では、全国に嫌われものの核のゴミ捨て場を作る。これはどう考えてもおかしい。それだけ青森県は中央からないがしろにされているということです。
 しかし、その原因をつくっているのは、実は当の青森県人です。津軽には足ひっパリ、じょっパリ、見栄っパリの三パリという言葉があるが、これがそのまま青森県人の特質でもある。
 そして、上十三、とりわけ十和田市はそれが激しい。互いに足を引っ張り合い人を育てない。これが青森県と岩手県の大きな違いであり、青森県が後れてきた大きな要因の一つとも考えます。
 ということから、これまでの文化新聞の趣旨を踏襲しながらも、文化という狭い範囲をもう一歩広げ、お年寄りから女性、農業から商売まで、それぞれの分野で夢を持ち頑張っている人たちを紹介する人間賛歌の新聞をつくります」
 こうして平成20年(二〇〇八)、BUNKA新聞社創立25周年を機に「夢見る人」を「夢追人」に改題し現在に至っている。

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 新聞を発刊した翌昭和59年(一九八四)、七戸町出身、三本木高校卒業の新谷祥子さんが第2回日本打楽器コンクールで第2位に入賞したのをきっかけとして七戸町に取材に入った。
 ところが七戸に入ってびっくり。歴史の古い町というだけでなく、教育と文化のまちといわれるだけあって、当時青森大学の学長であった盛田稔先生、県教育委員長であった青山浄晃さん、県選管委員長であった盛田寛二さんなど、人口わずか1万2000の小さな町ながら、青森県をリードしている人たちがたくさんいた。
 かつて新聞も発刊されていたという。それでは七戸でも新聞を出せるのではないかと思った。こうして昭和61年(一九八六)9月、地元記者を一人置き「Culture Plazaとわだ」の姉妹紙、「Culture Plazaしちのへ」を発刊した。
 また、三沢市は米軍基地ととも発展してきたという特殊事情もあり、野球の太田幸司や、ミュージシャンの小比類巻かほるを輩出している他、鬼才といわれた寺山修司が少年時代三沢市で生活したことが強く影響しているなど、大変興味深いまちであった。こうして平成2年(一九九〇)に三沢市に地元記者を一人置き、姉妹紙として「Culture Plaza三沢」を発刊。同時に3紙を発行した。


②ふるさとコンサート

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 私が新聞を発刊した翌昭和59年(一九八四)に、白菊学園高校(現聖ウルスラ学院高校)音楽科3年生だった佐藤志保が、第38回全日本学生音楽コンクール全国大会声楽部門で優勝した。これは東北・北海道での優勝は初めてという快挙であった。同じく七戸町出身の打楽器奏者新谷祥子が、第1回日本打楽器コンクールで準優勝した。
 その他、絵では新制作協会展で新作家賞を受賞していた明山応義が、第2回東京セントラル油絵大賞展で入選。滝沢哲雄が東京国際美術協会第3回国内展で佳作賞を受賞。写真では村木節子がシュピゲール写真展でそのトップ賞である棚橋賞を受賞。出版では、十和田市出身の動物写真家の米田一彦が偕成社より『ニホンカモシカ』を出版。小説現代新人賞を受賞していた川上健一が講談社より『タ・オ・ル』を出版。動物写真家の菅原光二が童話『カラスのクロシはがんばった』を出版するなど、文化新聞の発刊を待っていたかのように、次々と文化的ニュースが飛び込んできた。そして昭和61年(一九八六)5月、市民待望の十和田市民文化センターがオープンした。
 絵や写真、本は観る、あるいは読めばわかる。が、音楽はたとえば新谷祥子さんが打楽器コンクールで準優勝したといっても、どんな音楽なのか聴かなければわからない。
 ちょうど文化センターがオープンした。それではふるさとに帰っていただいて聴こうじゃないかということで、昭和61年6月に、文化センターのこけら落としもかねて、BUNKA新聞社主催で第1回ふるさとコンサート「祥子=マリンバinふるさと」を開催した。これは新谷祥子さんが所属していた岡田知之打楽器合奏団と一緒であった。
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 以下、第2回ふるさとコンサート「音楽界にはばたく郷土出身若人によるふるさとコンサート」(昭和62年5月)出演/日高尚子(ソプラノ)、新谷祥子(打楽器)、鳥谷部良子(フルート)、高坂文子(ピアノ)、比内千穂(ソプラノ)、太田寿美子(ピアノ・ヴァイオリン)。十和田市民文化センター。
 第3回ふるさとコンサート「鳥谷部良子ふるさとコンサート」(平成元年3月)出演/鳥谷部良子(フルート)。七戸町柏葉館。
 第4回ふるさとコンサート「立崎恵理子、鳥谷部良子ジョイントコンサート」(平成2年2月)出演/立崎恵理子(コントラバス)、鳥谷部良子(フルート)。十和田市民文化センター。
 第5回ふるさとコンサート「中山エミディナーパーティ」(平成3年2月)出演/中山エミ。十和田富士屋ホテル。
 この他十和田市民文化センター主催で、私がプロデュースしふるさとコンサートを行った。
 十和田市民文化センター開館10周年記念ふるさとコンサート「今、ふるさとに帰る」(平成8年10月)出演/太田一也(チェロ)、前田征志(ファゴット)、新谷祥子(打楽器)、佐藤志保(ソプラノ)。十和田市民文化センター。太田一也は、第54回日本音楽コンクールチェロ部門で入選している。
 十和田市民文化センターふるさとコンサート「ふるさとへ錦飾りて候ー。」(平成10年1月)出演/前田征志(ファゴット)、鳥谷部良子(フルート)。十和田市民文化センター。と合計7回行った。

③その他の実践

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 この他、文化講演会や劇団公演、美術展、写真展なども行った。
 健康文化講演会「がん細胞の誕生」(講師/黒木登志夫東京大学教授)昭和62年(一九八七)7月、十和田市民文化センター。黒木登志夫は私の友人の友人であった。
 十和田文化新聞社5周年記念「荒馬座」特別公演『太鼓ようたえ』荒馬座は、私と妻が20代のころいた劇団である。昭和63年(一九八八)4月、十和田市民文化センター。
 鈴木ユリイカ文化講演会
 鈴木ユリイカは詩人で詩壇の芥川賞といわれるH氏賞の受賞者である。昭和63年10月、十和田市中央公民館。
 「細川剛写真集『寒立馬』出版記念写真展」平成2年(一九九〇)2月、十和田市民文化センター。
 「高見政良自選展」(美術)平成4年(一九九二)8月、十和田市民文化センター。


①ふるさとを歩く会/10年間で69回探索
 BUNKA新聞の社是に「地域の歴史・文化・人の掘り起し」と掲げたものの、この仕事をやる前の私の仕事は農機具のセールスマン。生まれは旧十和田湖町の人里離れた山奥だから十和田市の歴史なんて全く知らない。とりあえず十和田市の歴史研究家の方々に書いていただくことにした。その一人に私の歴史の師となる当時は学校の先生であったが地域の歴史を研究している伊藤一允さん(現青森県文化財保護協会理事)がいた。
 昭和60年(一九八五)、角川書店から『日本の地名辞典』青森県編が出版された。この地名辞典を執筆したのは当時青森大学の学長であった盛田稔先生(『地名辞典』編纂委員長)をはじめ、地域の歴史研究家たちであった。
 翌昭和61年(一九八六)青森県の地名のうち上十三地域を執筆した人たちを中心とした地域史研究家たちが集まり『地名辞典』の出版祝賀会が行われた。
 そのとき、お前が新聞社をやっているんだから事務局をやれと事務局を仰せつかった。祝賀会は成功裡に終わった。この祝賀会で、その後BUNKA新聞社を応援してくれた盛田稔先生、伊藤一允さんをはじめ、山崎栄作さん、後沢良太郎さん、東正士さん、長根富栄さんら、地域史研究家たちと知り合った。この出会いがなければ現在のような文化新聞の発展はなかったであろう。BUNKA新聞社の礎になってくれた人たちである。
 その席上、上十三地域にも素晴らしい歴史、文化があるんだから、実際に歩いて確かめてみようじゃないかと提案された。そして伊藤一允さんが会長、BUNKA新聞社が事務局となり「ふるさとを歩く会」が発足した。
 以下、第1回~69回までの探索地を紹介しよう。

〔昭和61年(一九八六)〕
01/相坂・白上地域探索
02/三本木発祥の地を歩く①
03/霊山月日山探索①
04/十和田市の大地を覗く
05/相坂東地域探索及び
  宮本武蔵が実践で使っ
  た「兼久」見学
06/霊山月日山探索②

〔昭和62年(一九八七)〕

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07/稲生川未完の穴堰探索
08/南部裂織、菱刺、日本
  刺繍等伝統工芸を見る
09/一万三千年前の埋没林と十和田の名水を歩く
10/古代道探索/月日山から惣辺まで
11/岩手県江釣子村と作り村巡り
12/水の取入れ口から十和市まで稲生川を歩く
13/高清水地域探索
14/洞内地域探索
15/五戸方面探索①

〔昭和63年(一九八八)〕
16/縄文展見学とワ飯ヒエ飯を食う会
17/七戸方面探索①
18/自然を食う会
19/伝法寺地域探索
20/八幡岳登山とベンダーの里
21/秋田県鹿角方面探索
22/切田地域探索①
23/野辺地方面探索
24/切田地域探索②

〔平成元年(一九八九)〕
25/あまから(和・洋菓子、造蔵)道中
26/古牧温泉と祭魚洞公園
27/大不動地域探索
28/野山の草木を食う会
29/下田方面探索
30/大深内方面探索
31/奥入瀬渓流探索
32/新渡戸のルーツを訪ねて(花巻市)

〔平成2年(一九九〇)〕
33/手打ちそば、そばモチ、豆しとぎなど本物の味を楽しむ
34/南部発祥の地三戸探訪
35/三本木発祥の地を歩く②
36/古代道松浦武四郎の道を歩く①
37/六ヶ所方面探索
38/月日山探索③
39/北の鉄の文化展(盛岡市)
40/十和田湖町探索
41/深持地域探索

〔平成3年(一九九一)〕
42/七戸方面探索②
43/春を食う
44/平泉の歴史を探る
45/米田、滝沢地域探索
46/八戸方面探索
47/松浦武四郎の道を歩く②
48/六戸方面探索①

〔平成4年(一九九二)〕
49/五戸方面探索②
50/裂織体験と山菜採り
51/名川町さくらんぼ刈りと法光寺
52/東日流(つがる)歴史の旅
53/赤沼備中と奥瀬氏の居  城を訪ねて
54/霊山月日山探訪④
55/悲運の社会主義詩人塚甲山と上北町

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〔平成5年(一九九三〕
56/ワダカン食品工業工場  見学
57/幻の名瀑松見の滝探索
58/三沢市探索
59/新渡戸の足跡を訪ねて 川内町歴史の旅
60/霊山月日山探索⑤

〔平成6年(一九九四)〕
61/透明度全国第3位 新緑の赤沼探索
62/六戸町探索②
63/キリスト伝説とロマン里新郷村探索
64/青森三内丸山遺跡 縄文ロマンの探索
65/下北薬研、下風呂、井の旅
66/昔の手作りの味を楽しむ

〔平成7年(一九九五)〕
67/奥入瀬渓流ウオークと十和田湖一周
68/根城南部八百年の歴史を辿る
69/古代道を歩く月日山と十和田湖参拝

 10年間に69回、1年間に4月から10月までの7回。私と伊藤さんはその探索地を企画をし、前もっての下見をする。つまり探索は69回だが、下見を含めるとその倍の138回探索したことになる。これは私に、この地域の膨大な知識を与えてくれた。まさに地域の歴史・文化の大学であった。
 それを一つのテーマでまとめたのが平成21年(二〇〇九)に出版した『十和田湖はむかし、信仰の湖だった 古道を歩く』(文化出版刊)である。


こうして昭和58年(一九八三)11月、「地域の歴史、文化、人の掘り起し」を社是に掲げ、十和田映画センターを十和田文化新聞社に組織替えし、『映画ニュース』(当時は『ミニ・シアター』)を『Culture Plazaとわだ』と改題し、文化に特化した新聞を創刊した。したがって昭和58年11月3日をBUNKA新聞社の設立年月日としている
 文化新聞を発刊してからも数年間は読者からの手紙がたくさん届いた。その幾つかを紹介しよう。

 「少し力んではいるが、好もしい訴えへの音が響く新鮮な『カルチャープラザとわだ』に賛歌を贈る。
 六月六日フト、十和田市駅の売店で市の広報紙と見間違う『カルチャープラザとわだ』を求めた。そして読み進むうちに、十和田にこんな立派な、しかもフレッシュな新聞が発行され、通算20号も出ていることを知って、心から驚いた。正直言って、今までそれを知らなかったことを恥じ入った。
 先ず、内容の充実さに、いたく感動を覚えた。
 冒頭記事(小説編)の裏に秘められている負けん気の強さ。堂々たる実証的論理の展開。すがすがしい、しかも出来のいい顔写真でぐっと訴えている底力。イヤハヤ感嘆、感服した。
 二面も三面も、四、五、六、七面、そして終頁まで皆夫々に実によく工夫され、真実を読ませ、聞かせ、語り、十和田文化のエキスを一気に呑まされた思いで読み終わった。
 更に広告面にまでアイディアと助言を惜しまない後がありありと見えるのも楽しかった。
 そして更にいえば、第一読み易く、親しみ易い。それはレイアウトのよさと活字の使い方と、アピール的タイトルの秀逸さにある。また、今一つは用紙の質の上等さにも負うところが大きい。
 (中略)
 兎も角このローカル魂に徹した小紙に花を咲かせたいのである。十和田、そして上北一帯の文化の開花躍進に志ある住人の連帯を希って止まない。と同時に関係者の烈々たる闘志の持続を併せ乞い願って私の愛読者となる辞としたい。
 六月七日記 加藤 良一」

 これは文化新聞を発刊して1年半ちょと過ぎたころに、ちょっとこそばよくなるほどのお褒めの言葉をいただいた読者からの手紙である。

 「拝啓 初冬の寒さに入りましたが益々ご活躍の程お慶び申し上げます。
 (中略)
 文化探訪『研究待たれる三本木開拓』には、詳細に取材され、地元の方々への理解をどれ程深くしたことか、今までここまで深く紙上に発表する地方紙はありません。やはり総合文化紙を標榜するだけあって見ごたえがあります。
 リレー対談も当市の明日を考える○○として読後いろいろ考えさせられます。良い企画で示唆するものが多いです。
 (中略)
 貴紙の取材、貴方の考え方に対し、深く敬意を表します。今後益々カルチャー紙として大いに充実させご活躍下さい。
 十月二十五日 新渡戸 憲之

 新渡戸憲之さんは、新渡戸記念館の館長である。
 このような励ましの手紙が読者からたくさんいただいた。それが新聞を今日まで継続してきた原動力である。
 そしてそれを経済的に支えてくれたのがスポンサーの方々である。 
 また、地方で文化専門の新聞が珍しいということで朝日新聞、読売新聞、河北新報、東奥日報、デーリー東北などの一般紙、RAB青森放送、ATV青森テレビなどテレビ放送局も度々紹介してくれた。

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 文化新聞の発刊にはもうひとつ決定的なきっかけがあった。それは朝日新聞の記事である。
 昭和58年(一九八三)朝日新聞に、『新・人国記』青森県版が連載された。これは、その地方の風土、文化等を背景に、文化分野で活躍する青森県出身者を紹介する記事であった。第1回目の紹介は高橋竹山と高橋竹与(後に二代目高橋竹山)であった。二人とも東京時代に付き合いがあった。
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 私は、あの人も青森県出身だったのか、この人も、あの人もと、毎日くる新聞を楽しみにすると共に、切り取ってファイルしていた。
 連載が終わり、それを改めて読み直して見て、〃何だ!これぁー!!〃と思った。津軽と県南の文化の格差があまりにもひどいのである。
 記事は、高橋竹山他、淡谷のりこ、寺山修司、長部日出雄など107名が紹介されていた。が、ナント上十三、三八、下北の青森県の太平洋岸、いわゆる南部といわれている地域で紹介されていた人は、三浦哲郎、馬場のぼるなど一割ちょっとの、わずか14人だけ。十和田市に至っては菅原都々子と森一彦の2人だけで、あとはすべて津軽であった。
 このとき思ったことは、私が昭和48年(一九七三)に十和田市に帰ってきたとき、十和田市民は酒を飲むと口に出るのは「十和田市は何も無い、十和田市は駄目だ」というグチであった。
 また、文化関係者の口から出る言葉は「十和田市は文化の沙漠だ、文化不毛の地だ」という卑下であった。そんなこともあり、やはり十和田市を含む県南は文化が低いんだという落胆であった。
 と同時に、朝日新聞の記者がどれほど調べて書いたんだろという疑問であった。
 私は、若いころ東京の劇団に入っていて、北は網走から南は沖縄まで、公演で全国を歩いた。そして十和田に帰ってみると、近くに十和田湖・奥入瀬渓流があり、町並みが整備されていて、とても美しいまちだと思った。
 よし!それならオレが調べてやろうじゃないかというのが文化新聞を発刊するそもそもの直接的なきっかけである。
 そこから文化新聞の発刊の目的であり、社是である「地域の歴史・文化・人の掘り起し」が決まった。
 文化新聞創刊号の「発刊にあたって」に、私はこう書いている。
 「十和田市は文化の砂漠と言われて久しいが、私はこのような新聞(文化新聞)の必要性を痛切に感じたのは、朝日新聞の『新・人国記』青森県版を読んでからのことです。これを読み進んでいくうちに、津軽と県南の文化の格差のあまりのひどさに考えさせられました。もちろん十和田市は言うに及びません。言われてみれば津軽には文学サークルや同人誌等、文化を育み発表する場がたくさんあります。十和田市にもこのようなものが必要ではないでしょうか」
 朝日新聞の記事が文化新聞の発刊と、その理念を決定づけてくれた。

『映画ニュース』(後に『ミニ・シアター』と改題)を発刊して1年、市民の長年の夢であった市民文化センター建設運動の高まりとともに、『ミニ・シアター』への期待が高まり、市民からの励ましの手紙が届くようになってきた。
 その一つを紹介しよう。

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 前略 突然のお手紙失礼申し上げます。
 私事、この度都合により四月より十和田市に転居致しました者でございます。茨城県は石岡という人口四万足らずの町に住んでおりました。人口比だけで考えますと当市と石岡はさほどの違いはありません。しかし十和田には沢山の緑、市内各所にある公園、運動施設等々立派な物が数多くあります。ではありますが、現在問題になっております文化センターなるもはないわけで(ないから検討委員会があるでしょうが)その議論百出なのでありましょう。
 『ミニ・シアター』10月号に、その経過が詳しく記載されていましたが、私も新十和田市民の一人として、なんとかこの気持ちを伝えたく乱筆ではありますがペンを執ったわけです。
 いやはや十和田の中央公民館、あるいは市民体育館でのそれぞれの催しでゴザひいて見る場所が用意されるのには驚いたり喜んだり(?)実に考えさせられたのであります。それがよく聞くと文化センターが出来る迄の御辛抱だとのこと。ところがそれが九九九席の大ホールを作るという、ア然としてしまいました。それにおまけにたっぷりで子供だましのように博物館だ、プラネタリウムだとゴテゴテついている。中心人物の顔をトクと見たいものだとつくづく思っているのです。まさに十万都市をめざす十和田市が、新渡戸伝の精神をここでへし折る大ハジを歴史に残すことになりましょう。
 (中略)
 もっともっと書きたいことがありますが、今回はこの辺でやめます。私にでも何かお手伝いできることがありましたらお知らせ下さい。微力ではありますが参加させて頂きたく思います。
      工藤 悦子拝
 小笠原カオル様
   昭和58年10月18日夜

 これは映画センター時代、文化センターの施設内容を検討している記事を見ての手紙である。今、読んでみるとちょっと過激ではあるが、こんな励ましの手紙がたくさん届いた。

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